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2005-06-30 17:30:00

<楽とは>

テーマ:哲学

何かを手に入れるためには何かを犠牲にしなければならない。

何かを得る傍らで何かを失い、何かを失う傍らで何かを得るのが人間なのだ。

こうした葛藤の狭間でヒトは苦しみを感じるのではないだろうか。


それゆえ、楽とは葛藤を感じないでいられる状態なのかもしれない。

何かの矛盾を抱えずにいられる状態だ。


ヒトとして生きることそれ自体が、葛藤を背負い込むこと、葛藤を表現することであり、この葛藤から逃れるためには、徹底的に葛藤を無視するか、葛藤を受け容れるかのどちらかである。

痛みを感じる心を閉ざせば葛藤を無視することはできるかも知れないが、これは死んでしまって楽になろうとするのと同じである。

とすれば、葛藤は受け容れるしかない。


葛藤の果てに神=愛だけが残るように。

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2005-06-28 11:17:13

<存在の認知>

テーマ:哲学
何かの存在を認知するとはどういうことだろうか。
我々はそのための方法を五感に頼っている。
このため、五感を超えた存在を認知することはできない。

たとえば、目の前にそびえる樹木という実在があっても、これを離れたところから盲人とともに知覚することはできない。
いかに優れた交響曲の演奏を耳にしても、これを聾唖者とともに楽しむことはできない。

もし、ごく限られた人間にしか視覚や聴覚がなかったとしたら、数多くの実在が、その存在を客観的に証明することが難しくなってくることだろう。
樹木の葉の色をいかに説明しても、その説明で色を知ることはできない。
色は視るものだからだ。
音にしても同じ事。
私は、神は感じるものだと思っている。
そして、神の意識に達したといわれる聖賢は数多い。

もし、私が盲人であったなら、目前の風景について、健常者に教えを請うことにやぶさかではないことだろう。
同じことだが、神に達したとよばれる聖賢の教えに学ぶことに対し、私はやぶさかではない。
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2005-06-24 16:37:01

<HOW?>

テーマ:社会問題
自殺にせよ他殺にせよ、環境の影響がいかにあったとしても、最終的に人を凶行に走らせるのは、行為者の行動規範と価値判断である。
責任の所在を環境要因にばかり求めるべきではない。
しかしながら、環境要因を無視してしまうことも、またできない。
それは、行為者の行動を後押しすることにもなるからだ。

一方、環境要因と呼ばれるものは、不特定多数の個の価値観が総体として結実したものであると私は思う。
ならば、自殺にせよ、他殺にせよ、それらは不特定多数の「思い」と行為者の「思い」が合わさり、形となって顕れた結果に過ぎまい。
つまり、それらの病根は、我々の価値観のあり方、我々一人ひとりの「思い」のあり方に還元されるといえよう。

今日、社会に歪を生ぜしめているのは、個々のハートにみられる愛の喪失である。
それが個々の価値観を蝕み、法を蝕み、ひいては社会を蝕んでいるのだ。

愛とは何ぞや。
それは思いやりであり、赦しであり、相手の裡に己と等質な神性を見出すこと。
神とは何ぞや。
神とは、我々の意識の外側にあるものではなく、我々の意識の内側にあって、感じることでしか所在を把握できない無限の存在、唯一の存在、有って在る者、愛そのもの。
人とは何ぞや。
人とは神=愛と、エゴとの葛藤によって、神を表現するよう定められた有限の存在。

我々の本質は互いに等しい神の化身であり、忘れ去った己の素性を取り戻すべく、霊的存在としての進化、神化の途上にあるという真理に皆が目覚めれば、個が変容し、やがて社会が変容するだろう。
人の思いはエゴのみにあらず。
全ての存在目的はエゴを昇華し、愛を表現することである。

ならば、この世の悲劇を食い止める最も有効な手段とは、個に復権された誠の愛とその連鎖であると私は信じる。
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2005-06-24 16:24:45

<私の立場>

テーマ:哲学
こうして宗教や哲学を語っていると、どこかの宗教団体の関係者と誤解されてしまうこともあるかも知れないが、私は既存の宗教団体とは一切の関わりを持っていない。
また、特定の宗教を信奉してもいない。
ただ、人の霊性について、その思いを語っているだけであり、新たに宗教を始める気もさらさらない。
なぜなら、宗教という既存のスタイルそのものに限界を感じているからだ。
宗教は、宗教としての体をなしたその瞬間から、排他性という腐敗の芽を宿すものである。

歴史上、かつてこれほど書籍と情報があふれた時代はなく、我々は望めば他のいかなる時代の思想家より思慮深くなれる可能性を有している。とすれば、真理を究める上で、特定の宗教に入信するのが必須条件ではあり得ない。
実生活から得られた経験と先哲の叡智とを照合することで、誰しも真理を追究できるはずなのだ。
にもかかわらず、我々が愚かしさを脱することができないのは、謙虚さを失い、発達した知性と感性、理性と悟性が乖離してしまっているからだと愚考する。
互いに矛盾した情報が飛び交うことで、真理の追究を諦めてしまっていることが問題なのだ。
多様な価値観を無秩序に容認するのは、試行錯誤の努力を放棄した怠慢の姿に他なるまい。

愚見は、そうした知性と感性、理性と悟性の調和を意図したものであり、混迷する現代人の価値観に一定の秩序を与えるための提案である。
一人でも多くの理解者と共感者を得られるならば、これに勝る喜びはない。
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2005-06-23 13:35:45

<ある有識者にあてた手紙>

テーマ:手紙
我々は、いかなる理想を目の前で説かれても、現実の厳しさやおぞましさを直視したことのある人間であればあるほど、こうした理想を非現実と感じてしまうものです。
つまり、神を信じられなくなってしまうものなのです。
そうして、我々は神を失い、同時に愛を失う。
これこそ、愛の連鎖の対極に位置するもので、まさに、エゴの邪悪な側面がもたらした渇愛の連鎖であるといえます。
私には、私の主張を訝しみ、これを非現実的と指弾して憚らぬ方々が、エゴの連鎖に毒された虜囚に見えてしまうのです。

確かに、私の発言は、客観性を欠いた主観のオンパレードで、宗教的ではあるでしょう。
しかし、宗教のもつ本来の教義の中には、人や世界の存在に関わる極めて深遠な洞察を随所に垣間見ることができ、私は、そこにある種の普遍性や絶対性を見出しています。
一見、多様にみえる概念の多くが、本質的には同一であり、多様にみせている原因を作り出しているものこそ、人のエゴであるという認識です。
ただ、残念ながら、それを理解し、これを実感することは、宗教的希求、即ち、己の無知、不完全を自覚し、これを補おうとする強固な希求がなければ、叶わぬものなのです。

我々が客観と認識しているものは、それを客観と信じる主体がある以上、その主観を超えることはできません。よって、認識力に個体差がある以上、一定の論理や見解を完璧に共有することは不可能です。
従って、客観的事実なるものは、幻想に過ぎず、我々にとって確かな事実とは、今、この瞬間に思考している主体以外にはあり得ません。昨日の自分が自分であるという保障すら存在しないものだからです。

例えば、脳の特定部位、記憶保持の座に障害を負ってしまった方の場合、昨日の自分を認識することができなくなります。その方にとって、確かなものとは、思考する今の自分でしかないわけです。
また、客観的事実なるものが、いかに根拠の希薄な存在であるかは、映画マトリックスをご覧になっていれば、ご理解いただけるかもしれません。主人公は、ある日、己の認識していた現実が、全て虚構であったことに気づかされます。つまり、自分が、客観的事実と認識していたことなど、所詮、何の根拠もないものであると知るわけです。まさに胡蝶之夢。

結局、人は己の意識の及ぶ範囲内でしか物事を認識できず、そこにあるのは、常に主観であるということです。つまりは、人は本当に肝心なことは何もわからないということでもあります。よって我々は無知なのであり、これを悟ることができれば、哲学や宗教に真理を求めずにはおれなくなってまいります。これこそが宗教的希求です。

これまで、この宗教的希求を持つ限られた好事家のみに、こうした真理が独占されてきましたが、私は、この状況をこそ打開し、皆で広くこれを共有すべきだと考えています。
これは、個々の意識という下部構造の変容によって、政治や宗教といった上部構造へと向かう思想や意識の統一を求めるものであり、上部から下部に向かう価値観の統一、つまり、何かの法制化や制度化を求める立場ではありません。
確かに、その道のりは、限りなく困難ではあるのでしょうが、例え非現実とご批判を賜ったとしても、これを机上の空論と指弾されても、私の説く理想や思想に、一人でも、二人でも、共感者を得ることができるならば、愚見の披露を惜しむまいと私は覚悟しています。
ご理解いただきますれば幸いです。
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2005-06-23 13:34:55

<ある母親にあてた手紙>

テーマ:手紙
[ご子息が教師に恵まれず、また、落ち込むことが重なったせいで粗暴であるのだという。だが、原因は、本当に周囲ばかりにあるのだろうか。]

人が一人前になるには、沢山の師を必要とします。そして、数多い師の中でも、最初に出会い、最も長きにわたって教えを請うのが、親でしょう。仮に問題教師がいたとしても、その付き合いの長さは、親の比ではなく、せいぜい一年か数年です。
ならば、問題教師は反面教師として、子供たちにとっては、教材の一つであると教えてやれば良いのではないでしょうか。

実際、問題のある人物というのは、教職に限らず、実社会において、いくらでもいます。
将来、ご子息が就職なさった先の上司にさえ、いるかもしれません。
とすれば、問題のある人物に対し、いかに対応していくのかも立派な教育のテーマだと愚考します。
子供はいつか大人になり、いつまでも親の保護下にはいられないのです。ならば、そうした人種には慣れておくべきです。

結局、親こそ、良きにつけ、悪しきにつけ、子供にとって、最も影響力のある師であるということができます。
そして、この最初の師である親の視点が揺らがないことこそ、子供にとっては、最も大切であり、それだけに、家長として、バランスのとれた視点が重要だと私は思います

また、心が弱ってしまってどうしようもないとき、一番必要なものは自信と勇気です。
けれども、本当に滅入っている時には、この二つがともに失われている時でもあり、回復は容易ではありません。
病的な落ち込みは、うつ状態と呼ばれます。精神医学の観点では、うつ状態の患者を励ましてはならないという鉄則があり、正しい対処の仕方としては、相手の言い分をさえぎることなく聞き入ることであるとされています。
これは、落ち込んでいる人間に対する接し方において、一つのヒントになろうかと存じます。

子供に限らず、落ち込んでいる人間には、そばに寄り添って、話をきいてあげられる誰かが必要です。それは親でも良いし、友でも教師でも良いのだと私は思います。
実際、己の悩みを誰かに話すだけで、心が軽くなる経験を、誰しも持っているのではないでしょうか。
そして、少しでも心が軽くなれば、機を逃さず、何でもよいから簡単なことを「始める」必要があります。それは、どんな些細なことでも良いのです。日記でも良いし、お祈りでも良い。また、これまで続けていた何かの習慣があるなら、それを再開するだけでも良い。
三日坊主になってしまっても良いから、とにかく、一歩を踏み出す勇気と気力を振り絞ることです。そうしたささやかな営みを積み重ねた先に、揺ぎ無い自信と志が養われ、それが、新たな挫折を克服するための礎になるのだと私は思います。

人間、挫折という、どん底を知っていてこそ、いざというときに開き直りが効いて、強くなれるものです。底まで落ちれば、あとは上がるしかないのだと、私はいつも自分に言い聞かせています。より高く跳躍するためには、より低くかがまねばならないものです。子供時分の挫折は、それが不適切に過大となってしまわないのなら、学びの好機ではないでしょうか。
試練にさらされた子供に対しては、とやかく口を出すよりも、その傍らにそっと寄り添っていてやるのが、親や教師の務めではなかろうかと存じます。

私は、人との出会いは、縁だと思っています。そして、その縁を導く因となるものは、己自身にあると考えています。つまり、ご子息が師に恵まれないという状況さえ、本質的には当人に責任があるという、少々厳しい視点です。けれども、こうした出会いは、何かの贖罪や罰として存在するのではなく、自分と等しい性質を有する者同士が寄り合うことで、互いの姿に己を見出し、そこに何かの学びを得るため、そうした縁が導かれているのだろうと私は解釈しています。
これは因果応報と呼ばれる仏教思想に通じる考え方ですが、私は、その法則の存在を日常生活で実感しています。

これはまた、見方を変えれば、己自身に何かの良き性質、宗教用語でいうところのカルマを身につければ、必然的に、周囲の状況に好ましい兆しがもたらされるということでもあります。
我々が周囲にみる敵の姿とは、往々にして虚像に過ぎず、案外、己自身の姿を相手に見出しているだけではなかろうかと存じます。
であるなら、ご子息の状況を好転させる術は自ずと明らかです。
親が変容し、エゴによらぬ誠の愛に根ざして行動するなら、必ず子にもそれは伝わるでしょう。それは、ご子息本人の変容のみならず、抱える状況をも好転させ、優れた師との出会いが導かれるはずです。これこそが愛の連鎖です。
まず、ご自身が変容なさることで、ご子息とその周囲に、好ましい変容がもたらされるのではないでしょうか。

若輩が偉そうなことを述べ立てて申し訳ありません。平にご容赦願いたく存じます。
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2005-06-23 13:34:13

<ある高校生にあてた手紙―恋と愛について>

テーマ:手紙
[病床に伏す彼女をもつ一人の高校生が、校則に従って前髪を切った。彼女が長い前髪を好んでいたことを知っていた彼にとっては、苦渋の決断だったに違いない。結局、短く切った前髪を彼女に指摘され、それがきっかけで、別れてしまったという。彼は、その別れに悲嘆し、校則を恨んだが、果たして、別れの原因は、校則や、前髪にあったといえるのだろうか。]

書き込みを拝見して、何をやっても上手くいかなかった高校時代を思い出しました。
確かに、男は「見た目じゃない」とはいえ、高校生の恋愛なんて、大半は見た目が勝負。なぜなら、中身にそれほど差があるわけでもないからです。

ただ、恋とは、相手にみる虚像への執着、錯覚、熱病みたいなもので、いつかは冷めるもの。
一方、愛とは、相手を大切に思う心。相手の存在で己が幸せになろうと欲すれば、それはエゴに過ぎず、愛とは、無償であってこそ、永遠に存在できるものだと私は思います。
けれども、十代で経験する恋愛の多くが、恋心多くして、愛の少ないものかも知れません。見た目に大きく左右されるのは、互いが虚像を見ている証拠だからです。であるなら、遠からず終わりを迎えるのは、避けられなかったことでしょう。学校のせいにばかりはできないように思われます。

しかしながら、本当にその恋愛は、終わってしまったのでしょうか。貴方様のお気持ちが、誠の愛に根ざしたものであるなら、簡単に終わることなど、ありはしないはずです。
人間、病を抱えていれば、誰かに理不尽な我儘をいいたくなるもの。恋人だからこそ、甘えたくなるものなのです。そういう意味で、病める彼女と諍った挙句、別れてしまったという貴方様の主張に同情することはできません。彼女が望んでいたのは、本当に貴方様の前髪だったのでしょうか。私には、とてもそうは思われません。

自分の価値や人生は、自分が決めるものです。己の目線をどこに置くかで決まるもので、周囲の要素、学校や教師などに責任を転嫁する類のものでは決してないと私は思います。

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2005-06-21 07:20:30

<約束>

テーマ:哲学

ヤンキースの松井選手は、中学2年のときからヒトの悪口を言ったことがないという。
これをきいて、私は素直に感嘆してしまう。
なんだ、そんなこと、大したことじゃないといえる人生を歩んでおられる方を尊敬したい。
僕も今日からやってやると意気込む少年たちを応援したい。

ヒトが神化するための条件は決して難しいことではないといつも思う。
それは大抵、こうしたささやかな自分自身との約束を守り抜くことのはずなのだ。
誰でも手をつけることができるのに、誰にでもできるわけではないこと。
特別な才能を必要とするわけではないのに、皆にはできないこと。

ヒトの悪口をいわないという自分自身と交わしたささやかな約束を守ること。

何かの目標を定めて、それを達成できる人間と、できない人間との根本的な違いは、約束を最後まで守り抜くことができるかどうかだろう。
真の誇りとは、約束を守り通したところから培われるものではないだろうか。
自分自身とのささやかな約束事を、一つ一つ守りぬ抜いたその先に、今の松井選手があるに違いない。

ヒトが神にいたるのに、特別な才能は要らない。
誰にでもチャンスがあるのに、その道のりを遠くもすれば、近くもするのは己自身なのだと私は思う。

今日は自分との約束を守り抜くことができるだろうか。。。

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2005-06-20 13:17:51

<ラヴと超能力>

テーマ:哲学
皮肉な話だが、現象面におけるマジシャンと超能力者との明らかな相違点は、後者のデモンストレーションの方が失敗する可能性が高いことにあるといえるかもしれない。
つまり、曲がらない可能性も低くないという事実が、超能力の実在に関する科学的立証を妨げている反面、手品との間に明白な一線を画しているということだ。

超能力は、確かにその多くが実際に胡散臭いものであるだろう。
しかし、我々の周辺には無数の不思議話が転がっている。これら全てに対し、懐疑的な姿勢を崩さないのは立派な心がけだと思うが、それがごく近しい友人、知人の証言に対してまで及ぶのだとすれば、寂しいものの考え方ではないだろうか。
もっとも、これは随分と情に訴えた主張ではあるかも知れない。
超能力が「胡散臭い」のは、やはり、それらが性質上、既存科学の枠組みで捉えきれない現象だからという見方もできる。
けれども、これは科学が乗り越えるべき課題であって、超能力の虚構性を意味するわけではないだろう。

超能力と同様、科学が立証し得ない存在である神について、私はその存在を肯定する。
神とは、我々が実体として捉えることのかなわないラヴそのものであると。
神は科学的事実と矛盾しない形で存在できる。それは、創造の意志あるいは意思の存在については、これをヒトの意志や意思のように擬人化して捉えるのでなく、むしろヒトの意識や万物の意識をこそ、擬神化して捉えることで成立するものだ。

超能力があるとしても、霊現象があるとしても、あるいは神がおわすとしても、それらが我々の経験する現象世界や科学的事実に矛盾を生ぜしめるわけではない。
一方、神を否定してしまうことで、ある種の清々しさを感じ、自由と開放感を味わうのも悪くはない。それが内面的な秩序維持に好影響を与えるならそれでよいかもしれない。
しかし、そうでない方のほうが現実的には多い。
そうした方々に対し、科学的事実と矛盾しない形で神や愛が説かれる必要があると私は思う。
私にとっては、神を否定する姿勢もまた、神に惹かれ、意識せざるを得ないヒトのサガのようにみえる。それは、アンチ巨人が屈折した巨人ファンの姿であるかのごとくだ。
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2005-06-19 09:29:45

<バットマンビギンズ>

テーマ:映画
映画バットマンビギンズを観た。
映画というのは、各々の抱える種々の事情が異なるため、観た人間の数だけ評価が分かれるものだ。
経験の質の差が、ときにはつまらぬ映画にも特別な付加価値を与えることがあるからだ。

さて、本作が万人受けするかどうかはわからないが、劇中、個人的にはいくつか興味深い台詞があった。
「正義は調和に関わることだが、復讐は自己満足でしかない(違ってたらゴメンナサイ)」がその一つだ。
多くの場合、正義は独善に陥りやすく、復讐心を正義に完全昇華させるのは極めて困難だ。
誠の愛に依拠した行いだけが、正義にかない、調和をもたらすとしても、己が愛だと信じた所業が、偏愛や独善に足を踏み入れてしまうのが人間だからだ。

実際、己の行いが本当に正義であったのか、本当に愛であったのかについては、結果で判断するしかない場合もある。
このため、己の意志が正義であるか否かについては、常に葛藤がつきまとうものであるし、また、そうでなければならないと私は思う。
葛藤を忘れたところに、独善は忍び寄るものではないだろうか。

作品として、わかりづらいアクションシーンなど、いくつか難がないわけではない。
しかし、誠の正義とは何か、復讐と正義との違いは何か、古臭いテーマなのだが、ヒーロー物の作品にあっては永遠のテーマである葛藤を忠実に描き出してみせている点で、本作には好感がもてた。
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