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2005-05-31 12:06:11

<超能力は実在するか?>

テーマ:霊性の科学
巷で議論になるテーマに、超常現象、とりわけ超能力現象の是非がある。この現象は果たして科学的に証明された事実なのだろうか。
科学的というからには、そもそも、我々のいう科学がどういうものであるかを考えねばなるまい。
私の知る限り、科学は、起こった現象に対し、その規則性や法則性を客観的に見出すことで、現象を論理的に把握することである。

とすれば、何かの現象が先験的に起こりえることかどうかをいうのは科学的な態度ではない。
ところが、こと超能力に関する限り、科学者の多くは科学的な態度をとらない。
こうした現象が起こらないのは自明の理であり、それを調べること自体に意味がないと主張して憚らないばかりか、そうした現象を説明しうる理論がないことを理由に、その可能性を否定したりもする。
これは、己の日常感覚に反する現象に対し、理解する努力を怠った偏狭な姿勢である。

実のところ、超能力は、あるかないかを論じるものではなく、どのようにしてそれらが起こるのかを追究すべきテーマなのである。
あるかないかをいうなら、ある程度厳密な条件下での現象の再現と、複数の証人がいるだけで事足りるし、そういう意味での証明はかなり以前に終了している。
にもかかわらず、未だこのテーマが科学の俎上に乗らないのは、先のような偏狭な科学者が多数派であることと、この現象の再現性が100%でないということのゆえである。

人や意識の持つ不確定性が、こうした現象を科学から遠ざけてしまっているわけだが、これは既存の科学における論理体系に問題があるということを意味するものではあっても、現象を否定してしまう根拠たりえない。
にもかかわらず、そこを取り違えている輩は決して少なくない。
現状では、科学の側にこそ、欠陥があるといえるのだ。
超能力とは、人の意識が顕す現象であるが、意識の何たるかを追究する上で、既存の科学では片手落ちになってしまう。
しかしながら、現在、意識を追究する精妙な科学はトンデモ扱いを受けている場合が多い。だが、意識の表す現象を深く追究できる科学でなければ、科学に未来はないと私は思う。

希望は量子力学にあるかもしれない。
この科学は、不確定性原理によって、絶対的客観性を否定してみせた。
物事は観測者の主観のうちにしか存在しえず、確率論でしか捕捉できないことを証明してみせたのだ。
意識の表す現象は、結局、そういう視点でしか理解することはかなうまい。

今のところ、超能力は各自の悟性の中でしか存在しえない現象だが、科学者が謙虚さを取り戻すことで、状況は劇的に好転するかもしれない。
そして、その兆候は既に現れ始めていると、私は私の悟性のうちに強く感じている。
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2005-05-30 13:15:39

<進化論と創造論>-神は存在するか?-その2

テーマ:霊性の科学

エントロピーの増大とは、簡単にいうと、時間経過にともなう複雑さの消失であるといえる。一方、エントロピーの減少とは、複雑さの増大である。
人間という生命は、極めて複雑なシステムをその生体内に宿しており、しかもそれらは、合目的的に機能している。実際、人体の複雑精緻な様は、宇宙のそれを思わせるほどだ。
それゆえ、人の存在はエントロピーの減少を表すものということができる。

私は、生命の誕生、そして生物学的な進化は、宇宙の進化に付随したイベントの一つであり、生命もまた、宇宙の一部であると考える。
進化論者の多くは、地球環境が熱力学的に開放系(太陽からエネルギーを得ている)ことを理由に、生命の誕生、そしてエントロピーの減少を説明しようとするが、これは偏った視点であろう。地球環境は宇宙の進化の営みの中で獲得されたものであり、それらを別個に捉えることは間違っている。

一方、物質とは、本来、意思の介在しない場所ではエントロピー増大の法則にしたがった変化を呈すものではあるが、意思の介在する局所においては、減少に向かうと考える。
例えば、建築物。これらは、誰かの思い描いたビジョンが引き金となって、そこに資本やら人的資源やら土木建設の営みやらが投入されることで形作られるものだ。
これはエントロピーの減少を意味するが、この後、建造物に誰かの意思が加わることがなければ、それはゆるやかにエントロピー増大の法則にしたがった崩壊を呈することになる。
唯物論的進化論者らと、私との見解の相違点は、無限という概念に依存した偶発性を私が却下してしまっている点にある。エントロピーは偶発的には減少しないという考え方だ。


確かに、宇宙を全体として俯瞰した場合、ゆるやかなエントロピー増大に向かっているのは事実かもしれないが、局所的な揺らぎは偶然の所産ではなく、そこに意思の介在があったものではないだろうか。
たとえ、現象としては偶然にみえるエントロピーの減少が観測されたとしても、そもそも、意識が観測不能なわけだから、そこに意思の介在がなかっとはいえまい。
つまり、既存の科学的方法では、証明できないという点で、私の主張も進化論者の主張も等しいということができよう。
また、進化が何かのモデル、例えばコンピュータ上の仮想生命の進化で説明できるとしても、そこにはプログラムの進化に親和的な諸条件の設定が不可欠であり、これがプログラマーの意思を反映したものであると私は解釈する。

では、エントロピーを減少に向かわせる意思、あるいは意識がどういうものであるかといえば、それは我々生命、あるいは物質の本質であると私は推論する。
つまり、我々の意識は、物質として生命現象にあらわれている脳内、あるいは生体内の物理化学変化の結果ではなく、その原因であると。
確かにこれは推論の域をでないかもしれないが、現代医学は、未だ、肉体の生死を分かつ根本原因をつきとめるにいたっていない。
我々の意識とは、観測範囲内では脳内の物理化学的現象に過ぎないが、こうした現象の起点には、我々行為者の意思と物質との間に超微細なレベルでのやりとりがあるのではないだろうか。
我々は薬物によって精神に影響を受けるが、精神もまた、物質に影響を与えるプロセスがあるのではないかということだ。
そして、こうした意識は、我々が知覚できる顕在意識だけでなく、知覚不能な潜在意識を伴っており、そうした潜在意識によって、生命現象が支えられているのではないかと推論する。


では、意識の構成単位を何に見出すかだが、私はこれを質量をもたないフォトンのような素粒子ではないかと考える。素粒子はまた、ひも理論やM理論によれば、ひも状構造物の振動であるといわれるが、これらは、宇宙の構成単位でもあるという。
物質も空間も、あるいは重力、電磁気力、強い力、弱い力も、こうした振動を現すエネルギーの相転移した結果とみなせば、意識とよばれる実体のない存在も、目にみえる物質も、もとは意識を意味するエネルギーではないかということがいえる。
ここから、意識とは、即ちエネルギーであり、この世界、宇宙は、神の意識の顕れ、神の自己表現であるという宗教上の卓見とも整合すると愚考する。

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2005-05-26 16:37:06

<進化論と創造論>-神は存在するか?-

テーマ:哲学

物理学には熱力学第二法則とよばれる法則がある。これはエントロピー増大の法則とよばれ、「形あるものは壊れる」あるいは「覆水盆にかえらず」を端的にあらわしている。
この法則は、物質とは、時間をかければかけるほど、どんどん意味をもたない均質な存在へと分解、拡散していくものだということを意味している。
タバコの煙で何かを造作した場合を想起すれば、理解は容易であろう。


実のところ、生命の誕生とその進化、そして我々人類の存在とは、エントロピーの減少を意味するものであり、この法則に矛盾している。
それはまた、宇宙的規模でみた銀河系や惑星の誕生といったプロセスに関しても同じことがいえる。
創造論者(進化論を否定し、世界と人類は最初から今ある姿をともなって神に創造されたとする説を信奉する方々)は、これを理由に進化論を否定するが、それは間違った解釈だ。


近年、コンピューター上で、生命進化の再現が可能になったといわれるが、これは、進化論を否定して創造論を展開している人たちに対する反証の一つになるかもしれない。
このシステムでは、単純な初期条件から、コンピューター上の仮想生命が、多様性を獲得、進化してみせたのだそうだ。
ただ、ここで注目すべき点は、初期条件を与えた「意思」の存在なくして、コンピューター内部で繰り広げられた生命の進化は存在しえないということである。
このシステムでエントロピーを減少させる要因とは、初期条件という名のプログラマーの「意思」であるといえる。
意思の存在によってのみ、物事はエントロピー増大の法則を免れることができるわけだ。
例えば、建築物はエントロピー増大の法則にしたがって、徐々に風化、劣化していくが、そこに人の意思が加わると、リフォームされ、エントロピーは減少に向かう。


もともとエントロピー増大の法則は、閉鎖系、つまり系の内外でエネルギーのやりとりが行われない状態でのみ成立する物理法則である。
然るに、それが破られるということは、系の外部からエネルギーがもたらされたことを意味する。
コンピューター上の生命は、外部から電気的なエネルギーが絶えず与えられる条件下にあり、このシステムは開放系であるといえる。
進化というエントロピーの減少が生じている事実を鑑みれば、電気的エネルギーは、初期条件という「意思」をシステムに反映すべく用いられているといえよう。


ここから少しばかり考えを飛躍させると、もし、進化論が宇宙の真実なのであれば、エントロピー増大の法則と折り合いをつけるためには、創造の意思とでもいうべき超智性の存在と、進化の諸法則を維持するためのエネルギーを系の外部に仮想せざるを得なくなるのではないだろうか。
進化の事実を認めるということは、「創造の意思」の存在を肯定するものであるということだ。
世界は神の想いの顕れであると同時に、神は無限のエネルギーそのものであるという見方もできるかもしれない。

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2005-05-25 07:29:20

<宗教的希求>

テーマ:哲学

現世におけるあらゆる問題を考える際、それらを突き詰めると、そもそも、我々が何のために生きているのかという素朴な疑問にたどり着く。
ただ、この問いに対し答えを用意することはできても、それを客観的に証明することはできない。
そこで、唯物論者は、ものの考え方の基準に生きる目的をいわず、ただ、万人が生きるという目的を満たすべきという観点から物事を論じようとする。

けれども、これは生きる目的を生きることだといっているようなもので、「人は生きるために生きる」という観点を示しているに過ぎない。
ところが、誰かが「生きる」を強く主張すれば、別の誰かの生きる権利をおかしてしまう場合がある。このため、法による権利の保障、即ち法による利益分配の公平化が必要不可欠になってくるわけだが、そうした考え方は、法さえ犯さなければ何をしてもよい、どう生きようが自由だという歪な考え方を助長することにもなる。
あるいは、裁きの手を逃れることさえできれば、何をしても構わないという価値観を後押ししてしまうことにもなるだろう。
現実的に、誰もが生きたいと願っているわけでもなく、死にたい人に対して、「生きるために生きる」は、全く説得力をもたない考え方である。実際、自殺に法的規制を設けることはできない。

また、誰かや何かのために命を投げ出す崇高な精神の価値を説明することもできない。

結局、我々は宗教的な価値観、考え方の中に、己の生きる目的を見出さざるを得なくなってくる。現世に生きる苦しさを実感する者であればなおさらだ。
人間存在は、本質的にこうした宗教的希求を備えているのである。
生きる目的は客観的証明がはじめから不可能な命題であるがゆえ、各自が悩み、答えを探し出すしかない、ハートで感じるしか手立てがないといえよう。
とすれば、誰かや何かの見解が最終的に宗教的、主観的であったとしても、それは深慮熟考の結果としては、むしろ当然の帰結ではないだろうか。

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2005-05-24 16:09:57

<超能力者K氏との邂逅>

テーマ:霊性の科学
不思議なご縁に導かれて、70年代、超能力ブームの立役者の一人でもあったK氏と、氏のご自宅で直接お会いする機会を得た。
氏はいまでも人前でスプーンを曲げてみせたりする一方で、ヒーラーのようなお仕事もなさっておられるようだったが、持ち前の正義感から、報酬らしい報酬を受け取っておらず、実生活から贅沢の匂いを嗅ぎ取ることはできなかった。
そこが、あまたいる新興宗教の教祖とは明白な一線を画しており、好感がもてた。
人の霊性に関わる事業を営む者が拝金主義に陥ってはおしまいであると私は思うからだ。

で、いわゆるスプーン曲げなる現象を間近にみた。
氏が目を閉じてスプーンを手にもち、集中しはじめてしばらくすると、触ってもいないのにスプーンの頭がくらくらと揺れはじめ、最終的に頚の部分で折れ落ちた。
破断してしまったのである。
氏から折れたスプーンを差し出されて手にしてみると、それはかすかに磁化しており、互いに引き合うのだった。

これを見ても、インチキだトリックだと主張する者は勿論いるだろう。
私は騙されただけであると。
けれども、私は氏のお考えやお人柄、その場での何気ない一つ一つの仕草の中に、虚偽の痕跡をみてとることができなかった。
この現象の真実を否定するいかなる根拠もみあたらなかったのだ。
このため、私の主観は、それをホンモノであると認めざるを得なかった。

ある意味、私は自説の確証を実感として得たわけだ。
これは大きい。
K氏には勿論のこと、この機会を導いてくださった方々に深く感謝するとともに、この邂逅の深奥に潜む意味を考えずにはおれなかった。
ハートの奥で、何かが熱くたぎり始めるのを感じていた私に、氏はこともなげにこういった。
「これやってると家のスプーンがなくなっちゃうから、今度はもってきてちょうだいね。」
。。。そりゃそうだ。
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2005-05-24 16:09:07

<報復死球の是非>

テーマ:社会問題
プロ野球では、報復死球なる愚行がまかり通っているようだ。
以前、自身の哲学と相容れぬこの愚行をチームから強制され、悔し涙を流した上原投手(巨人)の姿が思い起こされる。
当時、メイ球界のご意見番と称するお歴々の中には、報復死球も勝つためには止むを得ぬなどと主張する御仁もいた。
何でも、選手のモティベーションを上げるには必要だからというのがその理由なのだそうだ。

勝負事に関する限り、私は彼らの足元にも及ばぬ素人ではある。しかしながら、何が間違っていて、何が正しいのかをいうとき、彼らの見識に私のそれが劣っているとは思わない。
確かに、プロである以上、勝つことは目的の一つではあるかもしれない。
それは個人成績やチームの戦績に反映され、年俸に還元されることとなるからだ。
そう考えると、勝つための目的はお金であるということができる。

では、お金を稼ぐ目的はといえば、それは生きることである。となれば、最終的に考えるべきは、生きる目的であろう。
私はこれを個々の霊的進化、意識の神化、成熟に見出しており、こうした報復行為が人の生きる目的に反すると断言する。

一方、プロ野球が興行によって収益を得ている以上、それは観衆に夢を与える商売だということができる。同時にそれは、子供たちのよきお手本でもあるべきではないだろうか。
子供たちがつぶさに観ることのできる大人社会のモデルだからだ。
ならば、報復死球を観て、子供たちが何を思うのかをこそ、問題にすべきである。

報復行為は、お金のためならばルールを度外視しても構わないという歪な価値観のあらわれ、唾棄すべき蛮行そのものである。
よって、報復死球の横行を容認する今のプロ野球、ルールを破って恥じることを知らぬ愚劣な人種の競演など、わが幼き息子に観せる気など起きるはずもなく、早急な体質改善が望まれる。
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2005-05-24 16:07:52

<歴史認識>

テーマ:社会問題
あいかわらず中国は先の大戦における日本の所業を断罪しているが、問題の解決を厄介にさせているのは、両国間の歴史認識に大きな隔たりがあることだ。
そもそも、歴史認識とは国策に深く関わるため、自国や他国で教育される歴史が正しいものであるかどうかには大いに疑問の余地がある。
教育は国策の手段足りうるからだ。

そこで必要になるのが、新たな歴史研究である。
だが、国益優先の前には、正義が踏みにじられることもしばしばだ。
国の力をもってすれば、証拠隠滅や証拠捏造など造作もないことであり、当事国間のみで歴史の共同研究を行っても、成果をあげることは期待できまい。

よって、こうした研究には、先の大戦に直接関わらず、両国に利害関係をもたない第三国の介入が必要ではないだろうか。
歴史認識のすり合わせは戦いの一種であり、審判なくしては決着がつくはずもない。
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2005-05-24 16:07:13

<WHY?>

テーマ:社会問題
国を愛せ!国旗国歌を尊べ!親兄弟を愛せ!他人を敬え!命あるものを尊べ!
日本のすぐ隣には、国旗も国歌もこの上ないほど尊ばれていながら、国民が愛されていない国がある。
ご近所には、敬うべき親から虐待される子供がいる。
他人は、いつ凶器で襲いかかってくるかわからない。
毎日の食卓には、多くの命が皿に盛られ、余れば無造作に捨てられる。
なぜ愛さねばならぬのか?
なぜ尊ばねばならぬのか?
必要だと主張するなら、理由を述べよ。
唯物論を信奉する輩に、それのできたためしはない。
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2005-05-24 16:03:52

<誠の努力とは>

テーマ:社会問題
どれほど競争否定の教育を行っても、社会は競争原理の働く資本主義体制下にある。平等などという幻想を植え付けられても、社会にでてしまえば、個々の社員から、個々の企業にいたるまで、明々白々たる格付けがあるものだ。

今日、ニートが急増している背景には、格付け社会に馴染めぬ若者の平等意識があるのではないだろうか。
あくせく努力することに意味を見出せず、競争に打ち勝つことに意味を見出せぬ横並び意識が、現実社会を前に、とまどいを与えずにはおかないのかもしれない。
競争を悪のごとく刷り込む没個性礼賛の現代教育が、若者の無気力思考を生み出してきたといえるだろう。
彼らの多くは、自分の適性を知ろうともせず、適職を求めて彷徨っているようにみえる。
己の適性など、競争に打ち勝つ努力をしてみなければ、どこにあるのかわかるはずもないのに。
競争を否定してきた教育のありようが、こうした歪を量産してきたように思わずにはいられない。
闘うことは悪ではない。葛藤するのはカッコ悪いことでは決してない。

一方、巷には努力したのに報われなかったと嘆く御仁がいる。往々にして、この手の輩は、己の運のなさ、あるいは社会の不平等のゆえ、夢に破れたと思い込んでいる節がある。
例えば、トップアスリートを目指していて挫折したとか、一流のアーティストを目指していて挫折したとかいう手合いだ。
現実的に考えて、成功する確率が極端に低いそれらの道を選択するのは博打である。
そうした道は、はじめから努力に報いる堅実さに乏しく、博打の敗北を社会のせいにするのはお門違いもはなはだしい。
また、社会がばくち打ちの補償を行うのも間違っている。博打の尻拭いを堅実な人間の血税で行ういわれはないからだ。第一、博打に保証などあってはなるまい。
博打には、努力だけではなく、余人の追随をゆるさぬ格別の才能と、幸運を呼び寄せる特別な術も心得ていなければならぬものだ。
ならば、敗北は学びの不足と自己認識の甘さが招いた結果に過ぎまい。

一般的に、博打にうってでる人間の多くは、勉学を厭う手合いが多い。
しかし、彼らの中で成功するのは、例外なく、謙虚に学び、成長できる人間である。
これは学業成績の良し悪しをいっているのではなく、己を知り、これを高めて行ける人間であるか否かが、勝敗を分かつということをいっているのである。

努力には、好機と適性、そして目的に応じた創意工夫が必要なのだ。
壮年期を迎えてトップアスリートになろうと努力することを努力とは呼ばない。
また、100m走のスプリンターになろうとする人間が、相撲取りになる訓練をいくら積んでも、それを努力とはいわない。
あるいは、相撲取りの体格に恵まれた人間が、スプリンターになる努力を積むことが報われるとは到底思えない。
それゆえ、若い頃から競争を嫌って己を知ろうともせず、学ぶことを厭う人間の努力は、誠の努力ではありえない。
「がむしゃら」は努力を意味するコトバではないからだ。
もっとも、「がむしゃら」はチャンスを得るためには必要だ。得られたチャンスをものにするために、誠の努力が必要だといっているのである。

競争に身を置いて己を知り、そこから謙虚に学ぶことで価値ある努力、誠の努力を生み出せるのだ。
チャンスの宝庫である若者時代には、様々な競争の中に身を置くことが肝要であろう。
競争に全身全霊を傾けるのは己を知る好機となり、資本主義社会を生き抜くための礎を築く上で必要不可欠であると私は思う。
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2005-05-24 16:03:07

<現代教育の誤算>

テーマ:社会問題
現代教育は、従来の詰め込み型の教育に対する反省から、ゆとり教育の名のもと、教える内容を大幅に削減し、競争を否定することで、子供たちの向上心や、学問の意義を崩壊させてきたのではないだろうか。
近年、文科省は事実上、ゆとり教育の失敗を認めた形で、指導要領の変更を余儀なくされた。
結局、競争や知識の詰め込みが間違っていたわけでなかったことを、ゆとり教育の失敗が証明してみせたのだ。

本来、競争によって優劣をつける行為は、個性発揮の場を設けることであり、多様な個性を容認する価値観のあらわれであるということができる。
よって、これを否定することは没個性崇拝を助長するものであり、競争や詰め込み教育が現代教育のかかえる病の主原因ではありえない。
では、現代教育は何を間違えていたのだろうか。
私はそれを唯物論的価値観のもとで説かれる平等、自由、博愛に見出している。

平等思想は幻想である。
なぜなら「自然」に平等が存在しないため、我々の抱える現実には、最初から平等などありえないからだ。
にもかかわらず、全ては潜在的に平等のはずという幻想のもと、もともとありえないものの中に、見た目の現実を無理やり押し込めようとするから、社会に歪が生じるのではないだろうか。
また、自由が大事というが、互いが互いの自由を際限なく主張すれば、利益分配に関わる法整備を厳しくせざるを得なくなり、結果的に、我々の自由は狭まるだけである。
博愛の精神などといっても、不細工を愛すことができぬように、愛せぬものを無理に愛することなどできようはずもない。

我々の抱える見た目の現実において、平等、自由、博愛を説くのは偽善であり、欺瞞である。
ところが、社会にはこれを絶対視する価値観が優勢だ。
これが、我々の社会に巣くった病の原因であるだろう。

だがその一方、我々が皆、等しく霊的存在であるという自覚がなされるならば、そこに神の御前における平等、霊的存在としての自由、互いの霊性を認め合う博愛が成り立つことだろう。我々の本質が霊的存在であるという自覚のあるなしで、平等、自由、博愛のもつ意味は全く異なってくる。
こうした自覚があってはじめて、社会の歪が正されるのではないだろうか。
間違っていたのは競争でも詰め込みでもなく、唯物論であったのだ。

唯物論:宇宙の諸現象の本質は主体を離れた客観的な物質であって、人間の精神も物質としての頭脳の機能の一つに過ぎないという説。
狭義ではマルクス主義を指す。 三省堂 新明解国語辞典

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