「5↓」story05・雨がはじまる(3)
テーマ:#5・FTFF sideY 窓に雨がぶつかる音。テレビコマーシャルの音。アルコールのにおい。スナック菓子と燻製珍味の塩辛いにおい。それとは別に、誰かの甘い香り。
何だろうこの香り。いい香り。
顔も手足も、ほかほかと温まっていた。うつ伏せに覆っていたテーブルを硬く感じていたのに、今はそうでもなかった。ふわふわと、気持ちよくなっていた。
暗くなり明るくなり、そしてまた暗くなりを繰り返す視界。閉じたまぶたの裏が一瞬明るくなるのは、意識が現実に戻っている時。
そしてまた、すぐ画面は黒くなる。この場所とはまったく関係のない画が頭に浮かんでいく。なぜか、朝に乗っていた特急の車内の画が。
紺青のシャツを着た奥村が隣に座っている。車内のワゴン販売の女性に声をかけ、サンドウイッチとコーヒーを買っている。ジーンズのポケットから、財布を取り出している。いい感じでくたびれた、こげ茶の革財布を。
山本と詩織が一緒に住んでいるアパートに来ていた。
明治館でしばし立ち往生したあと、急きょ二人の家に邪魔することになったのは、詩織の強い誘いから。あのとろんとした笑顔で「ぜひ来て」と言われてしまっては、断るわけにいかなかった。
時期的に少し早くとも、ごちそうになった熱々の鍋はおいしかった。あらかじめ酒屋で買っておいたアルコールとつまみもおいしかった。
そして奥村は、相変わらずよく喋っていた。
「おい」
と肩を揺すられる。乱暴ではなくそっと。
ふたたび明るくなってくる視界。とろけた世界からまた、現実へ戻されていく。
「おい、小笠原。そろそろ起きれ?」
奥村の声だ。
唇をひらいて「うん」と返そうとしても声が出ない。うつ伏せになったまま頷くしか出来なかった。
「小笠原さん、もう完全にオネンネ?」
オネンネ、と言ったのは山本だ。奥村とは違う、トーンの低いやわらかな声。
「うん、もう寝ちゃってるよこのオバサン。だって飲んでたもの、この人。一人でワイン一本あけちゃったよ? なに考えてんのこのオバサン。ひとんちで。この人、まったく遠慮というものを知らないよね。山本はさあ、俺らをホテルまで車で送ってくれるっつうから、一滴も飲んでないと言うのにねぇ。申し訳ないねぇ山本君。きみはお酒が大好きなのにねぇ山本君」
台詞の合間合間に、バリボリと小気味いい音が流れてくる。
奥村が、喋りながらポテトチップスでも食べているのだろう。
「奥村さあ、その、心のこもってない言い方。してその態度。お前ってほんと適当だよね」
バリバリものを噛む音がやみ、ククッと笑い声があがる。
ぼつぼつと、雨水が窓を叩いている。その窓から、かたかたと震える音。風も吹いているのだろう。
強い雨はあの時から、明治館に居た時からずっと、降り続いていた。
「あらら。詩織もすっかり寝ちゃってるべや」
「あー詩織弱いから。コップ一杯で真っ赤になっちゃうし、すぐ眠くなっちゃうんだわ」
「女性陣はダメだねぇ。あーあ、この人たち、おんなじ格好で寝ちゃってるもの。だっらしねぇなあ酔っちゃって」
「いいんでしょ酔っちゃって。俺、酒に強すぎる女ってダメなんだよね。飲んで、ほわっと酔っちゃって、こんな感じになっちゃった方が可愛いでしょ」
「あー山本君はそうなの。そっちのほうなの。へえー」
「うん、まあ。それよか」
煙草、いい? と山本の声。
カチリ、ライターが点火する音。
「小笠原さんはもう少し寝かしといてやれば? まだ九時前だし。ホテルなんか何時に帰っても大丈夫なんでしょ? チェックイン済ましたんだし」
「まあ、そうだけどさぁ」
二人の会話を耳にしながら、ふわふわする意識で考える。
詩織。
ほのかに漂ってくる甘い香りは、彼女からだったのだ。そのやわらかな香りに紛れこんでくる煙草のにおい。
正方形のテーブル。右に奥村。左に詩織。真向かいには山本。
確か、そういう位置関係だったはず。
「奥村は全然飲んでないなぁ。お前、さっきからコーラばっかりガブガブと」
「だって俺こそ弱ぇもの。もしかしてこの中で一番弱いんでないか? 詩織よりさらに弱い」
バリバリとポテトチップスを噛む音。奥村だ。
「明日は? どうするの奥村たち」
「あ? まあねぇ。明日も雨らしいからねぇ。観光ってのも、満足に出来ないでしょ。どうせ駅前のあたりでもぶらついてんでないの?」
「悪いな。明日も車でいろいろ案内してやれれば良かったんだけど。突然仕事入っちゃって」
「あーいいいい。いいんだ全然。今日かなり助かったわ。部屋もすぐ見つかったし」
「お前、すっげえ即決だったもんな」
「……なー」
誰も見ていないであろうテレビコマーシャルが、だらだらと流れ続けている。テレビは確か、こちらのすぐ後ろ。いままでずっと背中に浴びせられていた、コマーシャルの音声。
どうしようと思う。
ここにきて目が冴えてきてしまった。いま、ここで起き上がってしまっても、いいものだろうか。
テーブルにうつ伏せになったまま考える。顔を、腕や髪の毛で隠したまま。
こちらが起きていることには気づかずに、二人は続けていく。
「奥村明日、札幌に帰るの何時?」
「ああ、昼二時のやつで帰るわ。あんま遅くなんないように」
「ふうん」
山本が吐く、セブンスターの煙のにおい。近くからすうすうと流れてくる穏やかな寝息はきっと、詩織のものだ。
(なあ)
突然、小声になったのは山本のほうだった。
(あ?)
つられて奥村も、声をひそめている。
(ほんとに、二人とも寝てるの?)
(寝てんでない?)
ドキリとした。
右肩に奥村の手が置かれて、心臓はさらに弾む。
「小笠原」
「………」
「よーおこちゃん? 陽子?」
肩を軽く揺すられて困ってしまう。こんな風にされたら、ますます起きあがれなくなってしまうではないか。
伏せた顔は、自分の腕や髪に隠されたままだった。それでもぎゅっと目を閉じ、変わらない呼吸を繰りかえしてみせる。
誰かの顔が耳元に近づいてくる気配。ふわりと、独特のにおい。奥村のにおい。
こんなことを囁かれた。
「今日ちょっとあなた、化粧濃いよ」
なんだと。このバカ。
と心では文句をつけながらも、笑いを堪えるのに必死だった。呼吸の調子を変えてはいけない。向こうには見えずとも、表情も変えてはいけない。
逆に笑ったのは奥村のほうだった。耳元で、プッと吹きだすのが聞こえてくる。
(ホントに寝ちゃってるっぽいよ)
小声で、けれどのん気な口調で言う。奥村の顔がだんだんと離れていく気配。今度は反対側から「詩織、詩織」と山本の声。
彼女のほうも、動く様子はないらしい。
(寝てんだろうねぇ)
男二人が声を殺すように笑っている。
窓を強く叩く、雨の音。






