2010-03-19 07:11:08

義経 下巻

テーマ:

義を経ても 朝は頼めず 彼方彼岸へ



 司馬遼太郎の「義経」下巻をやっと読み終えた。随分前に上巻 を読み終えてはいたが。それを読んで、下巻に入らぬ前に、ここに記したこと。
「普通は上下巻とも読み終わって感想文を書くものである。何故なら上巻 だけなら途中だからである。でも何故に上巻 だけで今書こうとする?」と。 
 理由は3つ述べたが、詳しくはこちらを。で、その3つの最後の言い分がこうだった。
「私は義経が上巻で見えてしまったからでもある。否、つまんない奴、という意味ではない。ある意味、戦略家というか権謀術屋の気質はあろうが、時代の推移の中でグロテスクな人間関係の裏腹を利用する政治家ではない。今でいえば、企画は立てられようが、経営者にはなりきれない。そんな義経が、対する兄なる頼朝と違って見えてしまったのである」と。
 そんな3つの理由で、私は上巻 だけで、ここに義経が主人公であるはず(物語のタイトルも彼なんだぞ)でありながら、下巻がなんとなく、主人公の彼も時代の中で流され残務処理的な人生に抗いながら流される、そんな姿が見えてきてしまったとした。
 しかしである。申し訳ない。これは下巻を読まねばならない。義経をもっと知るためには、政治、いわゆる政的な感覚に無頓着でありながら、自らの生き様の根幹を全うするがために、絶えず戦略を巡らした、それは上巻 だけでも汲み取れるが、その実際が下巻に気持ちをそそられるに足りうるくらいの生々しさが描かれている。
 例えば、一の谷の戦い。誰もがワクワクして読まざるを得ないであろう、その義経の天性の戦略思考。そして、平家を壊滅させた壇ノ浦の合戦。これまでの先手必勝とは異なり、用意周到に学んでから人を集め攻め入ることなど、彼の優れたステージにおける立ち振る舞いと、もうひとつは、何のことはない情に絆されて感動して生きる人間臭さ、それは女性への愛情の深さも含めてだが。
 世は、頼朝も法皇も情よりも政を制すること、女にしても確かに義経はスケベかもしれないが、頼朝や法皇、あるいはそれに類する人々は、女の性を政治に利用する蔑み。よほど、義経の方が、人として対等であったと思う。
 義経の最後の描写はあっさりしている。そして、悪は滅びたとし、その後は描かれていないが、名実ともに「いい国創ろう鎌倉幕府」となるわけである。
 前の上巻の感想の際のブログにも書いた。そは「実は文明開化からではなく、さらに武士道のはじまりから、ある意味では蛍も寄らぬ退化の歴史が始まってしまってしまっていたのかもしれない」と。その想いがより一層強まったのは、この下巻のおかげであり、日本の政治が朝廷を抑えて幕府が権力を握ってから、その体質は今だに何も変わっていないことがひしひし分かる。簡単に言えば、今の政治家は、頼朝たらんと欲している。
 これだけ、父の敵とか、兄の頼朝を慕っての義経の行動に対し、何もせずして、自らにとっての一番の功労者である身内を自害させることで、幕府政治という、朝廷を維持しながらの日本独自の政治社会を築いた。それが頼朝である。義経がいなければ何もできなかった頼朝は、一番の功労者を敵にまわすかもしれないとして、弟を葬る境地に陥れた。これこそ、政治における善であると。そして、明治に文明開化があったにせよ、この政治の善は、未だに変わっていないのだ。日本の政治家は、何もせず、義経のような存在に行動させ、ヤバイと思ったら義経を犠牲にしたように、自らの保身のために一番の側近を自害させる。これがまさしく日本である。日本の政治である。
 おそらく司馬遼太郎は、これが言いたかったのだと思う。最後はあっさり述べながらも、まさしく、これを言うがための辛らつな一文を刻んでいる。
「悪とは、なんだろう。ということを一様に考えざるをえなかった。後世に至るまで、この天才のみじかい生涯は、ひとびとにその課題を考えさせつづけた」
 この後世とは、今の世もそうであることを忘れてはならない。そして、ひとびととは、今の政に携わっている人々を示してもいる。そして、義経であることよりも頼朝であろうとしている、そんな現代の人々に、「それでいいのか。義経を殺してまでも自らを保身するのが政なのか」と、この「義経」という書は問うているのだ、間違いない。
 一の谷や壇ノ浦で活躍する義経をただ眺めながら、彼の業績のいいところだけを利用し、それ以外の徳にならない部分を抹消したいがために、その成果だけ頂戴して、成果を生んだ人間を危険人物として排除する、まさしく、現代の政治家こそ、頼朝である。そして、彼は幕府を作った。だから、誰も義経にならず、頼朝になりたがる、政治家は。
 この書は、そんな政治家、頼朝みたいな奴はいらん、鎌倉から始まる幕府という新たな体制の創始だとして画期的だと位置づけても、今の世、そんな文明論、体制論など要らぬ。もっと、自らの手を汚す人間は尊ばれなければならない、これまでの進化の概念とは違う人種が必要なのだと。最近の人々に分かりやすくいえば、こうだ。「事件は会議室で起きているのではない。現場で起きているのだ」ということ。
 それが誰かと言えば、この書で明らか、新しい人間ではなく、もっとこころのままに動きながらも抹殺された義経ではないのかと、歴史は改めて教えてくれている。それを司馬先生は言いたかったのだ、と思う。これも簡単に言えば、警視庁で言えば、キャリア層ではなく、ノンキャリアなる存在。違う言い方をすれば、相変わらず学閥を重視する行政トップ官僚集団よりもよりも、二流大学上がりで現場上がりのNPO的グループ。
 だからではなかろうか。そんな始めは何処の馬の骨かも分からぬ義経が、いつのまにか相応ならぬ立場になり出る杭打たれての結果は最も拠り所にしたい存在からキャリアアンカーを奪われての自害。それはないよね、それだけで終わらせたくない。だからなのだ、彼は大陸に渡り、日本ではなしえなかったことをチンギスハーンとなって一つの国になしえ理想の国モンゴルを建設した、そんな伝説が誕生したのだと思う。現実が荒めば荒むほどロマンは生まれやすい。
 現実ではありえないにしても、義経に対して、そんなロマン溢れる伝説が出来上がったのも、その時代から、日本における政がいかに善を悪とし悪を善ともするインフラができてしまったかという嘆きがあることを象徴しているとしか思えない。いかがなるかな。


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