崖の上のポニョ | 空想俳人日記

崖の上のポニョ

魚かな 人間かな 関係ない



 宮崎アニメは、ほぼ全作観ているはずだけれど・・・、何を隠そう、劇場鑑賞は本作が初めてである。何も隠してないけどね。
 見終わった直後、マジに呟いていたよ、「どうなの?どうなの?」と。そして、物差しにラピュタやトトロを持ち出していたな。理屈屋さん、素敵な理由が素敵を作るから理由が欲しいのよね。そして夜、枕元に海の女神現れ囁く。物足りないのは正当化する言葉かね。それが見つからないものだから、海の魚に水道水なんてって、晩ご飯が三分待つインスタントラーメンなんてって、そんな常識家さんの批判になるん?
 しかし、一夜明けた朝のだるい頭に、いきなりのこと、ポニョが海の上を駆け巡るシーン、ぽにょっと浮かんだ。なんだなんだ、あの元気は。そうか、元気一杯のもとは、宗介なんだなあ。
 いや、それなりに分かりやすいから、言葉になる。地上に君臨する人間と海の生き物。その間に、すぐにVS。その伏線だと思うけど、五歳児の宗介の両親、海が仕事場の耕一と地上の弱者の楽園のはずの施設の対比。そして光による交信、会話。BAKA、BAKA、BAKA。。。地上の弱者の楽園も、隣り合わせの高齢者施設と幼稚園。
 ここまではナットクだけど、あとは曖昧? ほんとに曖昧なの? 昨今、コトバに置き換えてソリューションなる問題解決型が望まれている社会傾向がある。しかし、そんなソリューションって、逆にどうなのどうなの。自分で答えを見つけられないから、他人任せの人任せで、それらが得られないものへの曖昧というレッテル。この「崖の上のポニョ」だって、そんなレッテルが貼られるかも。それが賛否両論の種? 私の見終わった直後の「どうなの?どうなの?」も、他力本願なる「もっと問題解決してよ」という欲求?
 でも、翌朝にいきなり脳裏に甦ったポニョの海の上を駆ける姿。これって、ラピュタやトトロの空翔けるシーンとなんら変わらない。いや、むしろ、もっと能動的で、勇ましい。ほら、宗介とポニョだって人間VS魚。地上VS海。えっ? VS? なんで、すぐにバーサスにしたがるんだろう。それは、しがらみがあるからじゃないかな。私たち人間は海を汚している、という大前提。社会的な立場で、何をか語るにも問題解決の根底に対立を置いてしまう。だから、いろいろなソリューションを与えて欲しくなる。
 宗介とポニョはVSじゃなかろう。そんな大前提のしがらみが、まだない。そして、この映画で脳裏に焼きついたのが、CG3Dの世界に一見反発を食らわすような手描きの味とセル画の世界。そして、地上にまで満ち満ちる海水の世界、進化から反逆を食らわしたような古代デボン紀の世界と生き物たち。いやあ、美しいではないかな。しかも、そうした中で、登場人物たちは、そうしたひっくり返った世界を受け入れようともしている。
 そこまで思うと、宗介の母リサが、もと人間でありながら人間を憎んでいるフジモトのかみさんでもあるグランマンマーレとの密談が、私たち観客にも敢えて知らされないのは、なかなかユニークではないか。もちろん、ポニョを人間の子として受け入れてくれるか否かの会話ではあると思うけれど、もっともっと違う話し合いがされているかもしれない。それは地上と海との共存、人と魚との共栄、などなど。思い過ごし?
 私が時々思うこと、イルカやクジラって哺乳類だよね。でも、海に生きている。これを陸に上がらなかった、そういうふうに言うことも出来るけど。例えば、かつて地上で生きた人間たちが生まれ変わったとき、同じ人間よりも海で生きたい、そう思ったことでイルカやクジラが海の哺乳類としている、そんなふうに思うことがある。そんな思いを逆転させれば、ポニョが何もしがらみのない自分と同じ人間の宗介を出会いとともに慕うのは、けっして不思議なことではない。だから、あそこに描かれている曖昧で不可思議な世界は、けっして曖昧でも不可思議でもない。ごくごく当たり前であって、なんでも問題視してバーサスを設定しソリューションを望む現代人のほうが、曖昧で不可思議な生き物かもしれない、そう思えてくる。
 どうして私たちは素直にポニョのように海の上を宗介に向かって走ることが出来ないのか。それは、たぶん、ありえないことよりもありえることを信じ、ありえないことには、それなりのソリューションを得られるコンセプトとか理屈があると期待するからじゃないのかな。もっと、私たちは、宗介やポニョのしがらみのない心に戻らなければならないんじゃないのかな。
 草葉の陰で手塚治虫氏もほくそ笑んでいる気がする。いや、嫉妬してるかな?