Cloverfield | 空想俳人日記

Cloverfield

我が視界 他人事ならぬ 曠野かな 



 日本での上映より一足お先に観させていただきました。と言っても、この「クローバーフィールド」という映画、観た直後は、まさか日本では興行されないだろうなと高を括っておりました。それがネット調査で本国でも上映されることに、あっとオドロキです。
 というのも、映像の拘りでもあるカメラワーク。おそらく撮影者の自己満足で取られた素人のホームビデオの上映会にいやいや付き合わせられ、気分を悪くした人ならお分かりでしょう。三脚なしの手持ちによるぶれぶれ映像に、頭痛や吐き気、悪寒が襲う。まさに、その撮影方法を逆手に取った手法なのですよ。
 しかも出だしのホームパーティさながらの中身が延々と続くのに、辟易されないだろうかという心配。東京への栄転配属が決まったロブのためのサプライズ・パーティですけど、ハンディカメラは、ここだけのシーン撮影と思うなかれ、なんですね。ようは、この気持ち悪いカメラワークこそが、この映画の味噌なんですね。途中で正当なカメラワークに変わると思うなかれ。
 そして、突然の振動と大音響がニューヨークに。何事か、といって、そのカメラが始終回り続けます。外へ飛び出してみれば、自由の女神の首が吹っ飛んでくる。マンハッタンにかかる橋が真っ二つ。簡単に言ってしまえば、日本映画のゴジラのマンハッタン襲撃版と言いましょうか。、実際「ゴジラが原爆やその恐怖のメタファーであったように、現代の恐怖を象徴したモンスターを登場させようと思った」と巨大モンスターの起源について明言されています。
 ところで、私たちは。ゴジラ映画を絶えず第三者の眼で眺めてきました。ゴジラでも人間どもでもない眼。空からでも地上からでも、どこからでも自由なあらゆる場所から眺めてきました。しかし、この映画は、ハンディカメラを持っている一人称の眼なのです。ですので、モンスターの正体もよく分からないのは当然。この眼だからこそ、もう他人事ではない、映画を愉しむための眼ではないんですね。
 そしてさらに、その一人称である人物は結局・・・。このエンディングも極めてアメリカ映画らしからぬ、です。日本にかかる一般的なハリウッド映画として本作品が日本で上映された時、ホームビデオを見せられ胸糞悪いラストを叩きつけられ、大いに戸惑いよろめくハリウッドファンが出てくるんじゃなかろうかと、ついつい危惧しちゃいます。
 まあ、そういう他人事は同でもよろしく、私自身には最高の映画でございました。これこそ、他人事でなく、私事として私の舌を充分に唸らせてくれた絶妙なる味わい深い作品でございました。

 ちなみに、本作品は、エンドロールが始まるまで、一切のサウンドトラックにBGMはありません。でも、エンドロールでの音楽を耳にすると、おおお、日本映画のゴジラがオマージュなるかな、それがひしひしと伝わってきますので、エンドロールでいきなり席を立たれないことを願います。