毛皮のエロス~ダイアン・アーバス 幻想のポートレート~ | 空想俳人日記

毛皮のエロス~ダイアン・アーバス 幻想のポートレート~

眞写し 心開いて 目を閉じて 



 スタンリー・キューブリックの「シャイニング」における双子の少女に象徴されるように、もし彼の創作意欲にダイアン・アーバスの魂が潜り込んでいるとすれば、遺作となった「アイズ・ワイド・シャット」にニコール・キッドマンが起用されたことが痛く納得できる、そう肯かせるに及んだ、元来の映画鑑賞のスタンスとは極めて異質な面白い作であった。
 私はダイアン・アーバスを詳しくは知らない。別に知っていなくても、この映画、ユニークな作品であるが、実はマン・レイからシンディ・シャーマンに到る写真家たちも、むずむずさせる作品を撮っているから、ないがしろにはできない。絵画と違って、写真は誰が撮っても同じ、なんて思うのは大間違い。なんせ、何を撮るかにおいて、私は、シャム双生児、同性愛者、小人、巨人、精神病院の収容者といった人々を扱った写真をかつて鑑賞した記憶があるが、その時は、なんでこういう被写体ばかり選ぶの、とも思った。中には単純なポートレートなる写真もある。そこに写る人には笑顔がない。「はい笑ってえ、チーズ」の方のが不自然かもしれない。不自然とは、ノーマルではない、ということだ。
 そして、それら鑑賞した作品群の中で、おそらくどこかで出会っていたであろう一人が、このダイアン・アーバスじゃなかろうか。名前が突出して記憶にないのは、私にとっては、そういったフリークスが被写体であることはなんら特別ではないのだ、異質ではないのだ。
 ただ、この映画で知りえたのは、記憶の底の混沌から範疇として引きずり出した彼女の名前とともに、片方では商業ベースのいわゆる広告フォトグラファーでもあったこと。もちろん、アシスタントでしかなかった彼女のお師匠さんアラン・アーバス(タイ・バーレル)は旦那であり、彼の見様見真似からのことからしれない。旦那にとっては結婚当時18歳の彼女は清楚な奥様であり、2児のよき母親でしかなかったかもしれない。でも、ファインダーを覗く夫婦二人のシャッターチャンスは、かみさんの手腕であるようなシーンもあったのは、なるほど、面白い。
 それにしても、私にとって異質ではないことが、この映画で明らかになったのは、2つのホームパーティの比較である。
 冒頭のヌーディストのコミュニティはちょっと置いといて、そこへ到る回想の始まりに開催される彼女の両親が主催の毛皮にまつわるファッションショー。そこに登場するモデルと身に纏う動物の生身から奪った抜け殻だけの毛で創られた毛皮。それが世の経済価値観念でも高いものであるが故に富裕層が集まり繰り広げられる異形なる動物のなれの果ての品評会。商業フォトグラファーである旦那も養子に来てよかったね。その中で、どうも気分が優れないダイアン。襟もとまで正しくきちんと留めたボタンが鬱陶しい。
 後に毛むくじゃらの階上の隣人ライオネル(ロバート・ダウニー・Jr)と知り合ってから彼女が主催したホームパーティ。集まったのはフリークスたち。まさに陽気なフリークショー。今度は気分を害するのは旦那の方。はじめはポーカーフェイスで応対はしているけど。
 2つのホームパーティ。果たして、どちらが異常? フリークたちの明るさ、和気藹々さよりも、骨抜きの中身なき毛皮に夢中になるノーマルとされる人々の方が異様に見える、狂って見える、そう思うのは私だけ? この天秤ばかりの上の価値観が、映画そのものの批評を二分することにもなっているように思える。
 そして、旦那とのコミュニケーションゲーム。「秘密を私に聞かせてよ」と言う。でも、お互いが日常生活から食み出さないところで行なわれている。彼女にしては何故かもどかしい。旦那にとってみれば、貞淑なはずの妻の監視の意味でしかない、そんなゲーム。彼女がまだ中身を知らぬ覆面男性に一目惚れするのは、そのシークレット性への開示欲求かもしれない。
 もっと言えば、私たちの日常は、ある意味、絶えず覆面を被ってみんな生きているようなもの。人間だけではない。人々が住まうこの街、この世界も袋を被ってる。包装紙を身に纏っている。そんな覆いを掛けられた現実の中の真実とは何か。彼女の欲望はその覆い触れ、それを剥がす方向に向かう。普通の人々は見てはいけない、関わったら損だ、と覆いを剥がさない。むしろ我が目を蔽う。フリークたちにも。私は見てない。知らない、と。
 彼女は、ファインダーを覗く。階上の隣人の玄関の穴を覗く。彼女にとって、写真を撮るという行為は、そういうことなのだ。少しずつ覆いを剥がしていく、毛皮を引き剥がす、そして、そこに生身を発見する。
 毛むくじゃらさんのライオネルの写真を撮りたくて彼の部屋を訪れたはずなのに、実際に彼に対して初めてシャッターを切ったのは。その時間の経緯を考えてみよう。ここで、ちょっと置いといた冒頭のヌーディスト・コミュニティを膝の上に戻してみよう。もう、その場面に感動した人は分かっていると思う。撮影許可の条件に「あなたもみんなと同じように裸にならねばならない」と言われたこと。そして、ある一人の女性を被写体と見つけたダイアンは、首から下げた二眼レフカメラをいきなり構えず、首から下ろしベンチに置く。そのカットシーンは印象的。ほうらね。そして、あの台詞。
 Why don’t you tell me a secret? すると、相手は「あなたから聞かせて」と。
 ポートレートのジャンルで新たな地平を拓いたと言われるダイアン・アーバス。彼女にとって、この世界はおそらく海の中とは変わらないブルーで息苦しい世界だったのかもしれない。その象徴が、むしろ相手役である毛むくじゃらライオネルの壊れゆく肺に見て取れる。
 彼は死を待つよりも彼女の立会いのもとに海の中へ行動する。彼女は一度は追うものの、後を追うことはできなかった。野獣のような姿をしたライオネル。まるで人魚のように青く清楚なダイアン。一見、彼女の方が人魚のようだけれど、ライオネルの方が人魚だったのかもしれない。
 そして、彼女自身は人魚になれず、地上に残って生きることしかなかった。それは、カメラを片手に、仕事としての商業写真のようなキレイな包装紙で中身を隠すことでなく、息詰まった現実という配水管の中から人毛と紐解く鍵を見つけ、その正体を、中身を、真実を覗き、その瞬間を一枚の窓の中に記し続けるほかなかったのだ。
 ダイアン・アーバス、1923年3月14日ニューヨーク生まれ。18歳で写真家アラン・アーバスと結婚し、ファッション写真家として出発。その後リゼット・モデルに学び、作家活動を開始、倒錯者へと被写体を移す。フリークたちが具有した精神的外傷を彼女は共有し、彼らを「貴族」と呼ぶ。1967年、ニューヨークの近代美術館の「新しいドキュメント」に出品し評価を得る。1969年に離婚、その2年後の1971年7月に大量のバルビツル酸塩を飲み、自ら手首を切って死去。