リバティーン
テーマ:映画放蕩の 存在と無なる 自由なり
私は彼を知らない。17世紀に実在したという英国の放蕩詩人ロチェスター伯爵。おそらく、まず知る人はいなかろう、この手の実在人物は葬り去られる運命にあるみたいだから。それが今になって陽の目を浴びるというのはグレアム・グリーンのおかげか。
私は放蕩詩人ということで、ボードレール、はたまたランボーを思い出した。映画の中の劇中劇からは、かの有名なフランソワ・ラブレーの名著、ふぐりだらけの「ガルガンチュワとパンタグリュエル」あたり。いかん、フランス文学しか思い浮かばない。まてよ、英国ではオスカー・ワイルドあたりは?
それにしても、なんとまあジョニー・デップにぴったしこん、よく似合う物語。最近ではディズニーで特異な地位を得た「パイレーツ・オブ・カリビアン」や、彼と同じくアウトロー的なはずのティム・バートンによる「ネバーランド」や「チャーリーとチョコレート工場」で、いわゆる一般大衆からも愛されるようになっちゃった彼。彼自身、それが思う壺なのか、思わぬ誤算なのか知らないが、アウトローなる役者稼業を生き甲斐としていたはずの彼にしては、この作品はまさに本領発揮、水を得た魚じゃなかろうか。でも、最近の彼のファン、例えば村上春樹を「ノルウェイの森」からファンとなった方々が「ダンス・ダンス・ダンス」あたりで、「これは村上さんの作品じゃない」と豪語するのと同じ反応を、この作品でするのかもしれないから、乞うご期待(何を期待しとるんじゃい)。
もともと、この作品、ジョン・マルコヴィッチが舞台で演じていた作品なのに、彼自身が主人公をジョニー・デップに譲ったところをみると、相当ジョニーは当たり役、ジョンもえらいやっちゃ。けど、きっと心の中では嫉妬しとると思うよ(それが国王チャールズ二世の役作りに功を奏してたりしてね)。「危険な関係」「シェルタリング・スカイ」から「愛のめぐりあい」「ジキル&ハイド」などなど、思い出しても有意義なる人生。ま、一歩退くのもよかろうて(でも、はりあっちゃうのよね)。
それにしても久しぶりの骨太映画、なんてどっかに書いちゃったけど、骨太というよりも、観る者を骨抜きにする作品。ってのも、最近の映画、ただひとえに自己温存の愛すべき映画ばかりが生まれている。自己温存の襖をぶすぶす破らんとする作品、余りお目にかからない。どうしてだろう。
かつてイタリアにパゾリーニ、フェリニーニありき。そして、英国においてはピーター・グリナウェイ。グリナウェイは何処へ行った。
うららあ、この作品の音楽、ナイマンさんじゃないの、だからグリナウェイ思い出したんか。若き監督さんローレンス・ダンモアの周りを見れば、キャストにしてもスタッフにしても、グリナウェイさんと関わった人たち、多いみたい。そうした連中のキャリアが新進監督をバックアップしているなんて素敵じゃありませんか。
さて物語を具体的に話そう、なんて野暮なことはしない。でも、主人公ロチェスター伯爵に関わる三人の女性をちょっと垣間見る。
芝居小屋で観客のブーイングを浴びていた若い女優エリザベス・バリーに目を留め、彼女の隠れた才能に気づいて演技指導を申し出る、その相手役サマンサ・モートンへの賞賛は言わずもがな。それにもまして、私は、妻と娼婦が好きだなあ。ロザムンド・パイクとケリー・ライリーね。娼婦は彼の放蕩の日常だ。そして、その裏返しが妻だ。この妻がいい。娼婦の方もそうだけど彼女も「プライドと偏見」に出てたね。キーラの姉役。何がいいって、主人公が性病にかかって死期が迫っているときの彼に対する迫真の演技。こんな奥さん、なかなかいないぞ。
しかし、こういう映画も最近なかなかお目にかかれないように、こういう放蕩詩人って、現代には生まれないんだろうね。なんでだろう。って、全ての人々が、あたかもロボトミーの如く教育という名のもとに飼育され金太郎飴になっているっつうことは、日本では既に高度成長期の頃から巷で風評されていることだから、今更ああだこうだ言ってもしかたないだろうけど(ちと表現がきついかな)。
では、片や、社会そのものが当時のイギリス王政復古の時代からすれば、えらく健全になったということか。いやあ、そうではなさそうだね。人間の欲求はいつの時代も不変のようだ。ただ、社会そのものの形態が歴史的検証故か変貌を遂げているのだ。そうした変わらぬ欲求から見れば、かつてのこの17世紀は、あからさまに全てが上から下まで同じであった。して、今や情報技術進展による管理社会のおかげ、明るい社会であろうとすることが前面に押し出され、それが全面に見えるだけ。昨今の戦争も情報コントロールでさもゲームのよう、生々しさは見えない。下から見ても、そうした見えない実情は、なくなっているのではない、雲の上に隠された世界。まあ、それも歴史を学んで得た知識による賢者の創意工夫たる所以。仕方なし(これも、ちと厳しい見解かな? なんか、この映画のおかげで、日頃不透明なものが透けて見えて困っちゃう)。
でもね、こういうリバティ-ンなる人物、所詮は芸術至上の文化が花盛りにならなければ生まれないかもしれない。しかも、どうやら全てに優秀でありながら、さらに、そこから飛び抜けて生まれ出でる逸材らしい。ということは、私もあなたも関係ないから安心すればいいかもね。傍から見てる分はいいけど関わり持ったら、さぞや大変だわ。
自由人とは、劣等感覚やら社会的抑圧やらなどからも懸け離れて自由であろうとする。故に、自由人は、社会的範疇、医学や科学、経済や経営、法律や文学、そうした全てのジャンルからも解放される。逆言えば、そうしたジャンルの範疇からも見離される。自由であるということはそういうことだ。何者にも所属しないということだ。
こういうのが自由人なら自由人ご免被りますであれば、何かに所属した方がいい。何でもいいから所属しなされ。国に属す、会社に属す、起業家グループに属す、学校に属す、サークルに属す、家族に属す。三角関係に属す(これも所属か?)。とりあえず、自分の周りで一番近いものに属す。
そう、その方が楽だ、自由じゃなくても。属せば人が放っておかないでくれるから。主人公の彼だって、放って置けばいいのに、マルコヴィッチ演じる国王が放っておかなかった。
だからこそ、反発するのだ、主人公は。彼だって、死期が迫った最後、神に属そうとしたではないか。まあ、神が大嫌いな人間以外の猿や犬にしてくれるかもしれない、そう彼は思ったのかもしれないが。
間違えちゃあかんのは、彼が最も忌み嫌った人間という生き物、その人間で一番人間らしかったのは彼自身かもしれないということ。
そして、そんな彼を自由人として理解したくてもしきれない妻。そして、一番自由に思えながらも身と心が自由にならない娼婦の彼女。そして、もう一人、おかしな言い方かもしれないが、演技指導という一見ビジネスライクな付き合いから始まった女優の警戒心。突き放さねばならない、自分も巻き添えに食らう、そういう意味で、最も彼のことを無碍にしながらも一番理解していたかもしれない唯一の人、もう一人の自由人。その人の愛が伝わってくるのは、私だけだろうか。
こういうの傍にいたら大変だけど、映画ではどんどん出会いたい。だから映画はやめられない。ジョニー・デップ、マルコヴィッチへ、拍手拍手の大喝采。エンターテイメントだけでは終わりたくない、二人の、主人公に匹敵する人生観がひしひしと伝わってきた。「これでも私のことが好きか」と語りかける主人公に涙が滲む。好きにはなりたくない、しかし、好きだという気持を否定できない自分がいることに気づいた。












1 ■ご期待に添えず(1)
shisyunへ
観て来たばっかりのホヤホヤ。
いやあ、素晴らしかった。
確かにジョニー・デップはハマリ役!
まだそれほどジョニー・デップ主演の映画を観ていないのに、
早くも彼の最高傑作を観てしまったような感じ。
だからもうちょっと、お楽しみをあとに取っておきたかったような。
shisyunが、『ハッピーエンド』でチョン・ドヨンの演じる妻に寄り添った気持ちがわかったぞ。
> でも、最近の彼のファン、例えば村上春樹を「ノルウェイの森」からファンとなった方々が「ダンス・ダンス・ダンス」あたりで、「これは村上さんの作品じゃない」と豪語するのと同じ反応を、この作品でするのかもしれないから、乞うご期待(何を期待しとるんじゃい)。
ご期待に添えず、残念じゃったね。
> 娼婦は彼の放蕩の日常だ。そして、その裏返しが妻だ。
ああ、そうかあ!
わしは、娼婦の役はいらんのじゃないかと思っていたが、なあるほど!
(げげっ、1000文字以内でコメントを書けと怒られた)