ミュンヘン
テーマ:映画ミュンヘンも マンハッタンも ターゲット
なぜ今ミュンヘンなんだろうか。もちろん時間が経たなきゃ描けない時代を左右する事件は、いつか歴史が判断するまで待たねばならないかもしれない。しかし、そんなことは、ここでは言いたくない。
娯楽大作を生み続けるスピルバーグは、これまでも、そうした社会問題を抉る作品も描いてはきた。私自身、「カラーパープル」にしても「シンドラーのリスト」にしても、「ボクにも娯楽ばかりじゃなく、そうした社会は映画も作れるんだよ」そんなスタンスでしか観てこなかったように思える。特に「シンドラーのリスト」に関しては、ううんまいった、などとも思った。
そういう風に世間も納得したのではないか。しかし、この「ミュンヘン」はなぜか少し違うように思えた。なぜ今さら「ミュンヘン」だ。そして、この映画を監督自身、本当に進んで撮りたかったのだろうか。
今回は相当、私の憶測だらけのコメントになりそうだ。ご容赦いただきたい。
ずばり、この映画は素材が「ミュンヘン」なだけだ。監督が重い腰を上げたであろうきっかけは間違いなく、9.11の同時多発テロとその後のイラク攻撃だと思う。これまでも、いくつもの映画が、9.11を意識して作られてきた。スピルバーグは、できれば避けて通りたかったのかもしれない。しかし、娯楽大作だけでなく、いくつかの社会派映画も作ってきた彼にとって、避けては通れぬ問題。しかも、世界の中でアメリカ映画そのものを左右するほどの力を持った影響力を持つ巨匠スピルバーグが9.11に対していつまでもノーコメントではいられなかった。
ではなぜ「ミュンヘン」か。たまたまテロ事件が起きた舞台が、世界の祭典オリンピック。テロに鈍感な私たちも、その世界の祭典で起きた騒動には衝撃をもたらした。ユダヤ民族がホームとして建国したイスラエルに対するパレスチナ、アラブ等の心情を私たちはどれだけ実感しているかは別にして、平和がゆえに世界の民族が一堂に集まってスポーツの祭典が開かれるオリンピックはリアル感がある。もっとも適した素材だったのではないか。
さて、物語は、イスラエルの選手団を襲撃したパレスチナゲリラのテロ・グループに報復するため、国から暗殺チームのリーダーに抜擢される主人公アヴナー。「なぜこいつがリーダーだ」と仲間にも言われるほど、われわれ観客も、こんな普通の一般市民的な人間がそんなんやれるのか、そんな風貌だ。仲間とて、暗殺のプロとは思えない連中がほとんどだ。はじめは、映画そのものの店舗までがのらりくらりしている。おいおい、こいつらに人殺しができるのかよ。ところが一人殺り、そして二人と、それが、いつのまにか殺人者にふさわしい風貌に変わっていくのが不思議だ。映像もそれにあわせたように、刺激的なものに変わってゆく。
重要な人物が登場する。ルイという情報源となる男。彼は偏った思想で加担はしない。だから、特定の政治団体などには関わらないと言う。彼が重要な人物と言うより、彼の背後が重要なのである。あるとき主人公が目隠しをされてルイのパパに会う羽目になる。
そこは大家族。なに、マフィアか? はじめは思うが、その大家族のご邸宅の庭で無邪気にはしゃぐたくさんの子供たち。その純真な笑顔がクローズアップされる。この子供たちのために、スピルバーグは娯楽大作を作っているのだ、そう閃いた。この大家族が象徴的なものに見えてきた。ここはホームだ。それは、監督にとっては、ユダヤ民族の祖国ではなく、アメリカという生活舞台かもしれない。そして、主人公も、妻がいて子供が生まれたホームがある。それはまさしく家庭であり、家族だ。そのホームのために今の仕事を引き受けたはずだ。少々自虐的かもしれないが、同じ穴の狢かもしれない、そういう自嘲さえ感じられる。なぜなら、それがアメリカの幸福獲得のために進んできた道であり、それは監督自らも・・・。スピルバーグの苦難と葛藤が見えてきた。
主人公の仲間たちが逆に殺されていく。そのきっかけとして登場する女性、誘う女。彼の変わりに他の仲間が彼女に殺される。彼女自身、実は主人公と五十歩百歩の存在、おそらくなんら思想もなくお金目当てで殺しを請け負った人間。しかし、殺された仲間のために、彼女を殺害する。この殺人は、もはや、他の国からの使命での殺人ではない。単なる報復だ。
それから、仲間が何人も殺されると、主人公はいつしか自分も、そういう恐怖感に駆られる。お役目が終わってからも、彼は絶えず死の恐怖に晒される。愛する妻子がいるホームに戻ってもだ。
その最たる場面が妻とのセックスシーン。彼の頭には妻のことなど一切ない、パレスチナゲリラに殺されるイスラエル選手たちの殺害シーン。実際にその場を体験したわけではないのに、まざまざと脳裏に蘇る。冒頭にこのシーンがないだけ、迫力がある。妻とのセックスという愛の交歓としては最悪の状況だが、死への恐怖に対しあたかも拭い去るよう一生懸命生きようともがくが如く激しいセックスを繰り返す。セックスそのものは大いなる生の瞬間でもあるとすれば、この生死の背中合わせとも言えるシーンは、主人公の、さらには監督の思惟のぎりぎりな限界状況を表しているのではなかろうか。そして、そんな彼をも理解して「アイラブユー」とささやく妻。それが真のホームではなかろうか。
さらに、ラストには、ニューヨーク・マンハッタンの風景。誰もが、ああ、と9.11を思い起こす。同じ悲劇が繰り返される予感に満ちているシーンだ。同じ悲劇とはもちろんパレスチナゲリラに対しイスラエル政府が報復に出たように、9.11テロに対しアメリカがイラク攻撃に出た、という繰り返し。
その予感に満ちた景色を背景に、そこでは、お国からかつての上官が主人公アヴナーのもとへ。アウアホーム(我らの国)へ戻らないかとの誘いに、アヴナーは「No」と言う。これがスピルバーグの答えだ。さらに彼は、遠来より来た客をもてなそうと、マイホーム(我が家)で食事でも、と上官を招待する。それこそ、ユダヤ民族の真の心ではないかと言うように。しかし、相手からは「No」が返ってきた。
答えは確かに見えた。ただ、それを述べるだけでは答えたことにはならない、そんな監督の思いが全編から伝わってくる。だから単純なYesかNoかだけに終わっていない、そうした監督の心のゆれや葛藤がいたるところに感じられる。あちこちにスピルバーグ自身が隠れているように思える。そういう意味で極めて私小説的でもあるように思えるのは私だけだろうか。
とにかく、スピルバーグは、映画界の中でももっとも中心にいる人である。そうした立場からしても、コメントを避けることは黙認することにもなってしまう。そういう意味での精一杯、渾身を込めてイラク戦争への思いを自らの生まれや立場も投影した、非常に重要な作品ではないかと思う。











1 ■こんばんは
TBありがとうございました。
この映画はスピルバーグにとっては贖罪の意味があるのかもしれません。
9・11の後、スピルバーグはブッシュ政権による報復に支持を表明してるんです。
それが結局、インチキがボロボロ出てくるイラク戦争やスペンイン、ロンドンやバリの報復の連鎖となっているわけで、へたな政治家以上の政治的影響力のあるスピルバーグとしては、ここで安易な支持表明の贖罪として、2005年現在の本意を映画監督本来の作品として示したのではないかと思います。