歓びを歌にのせて
テーマ:映画言葉より 心の共鳴 音にあり
この映画を観る一ヶ月前に、ヘンデルの「メサイア」のコンサートを聴いた。だからだろうか、この映画が単に感動的な映画でした、では済まない映画、二重にも三重にも考えさせられる映画、緻密な組み立てもなされている。
音楽の素晴らしさを取り入れた合唱映画、それはこれまで数々あったけど、その踏襲なのではなく、むしろ、これまでの映画とは別なる思い、ある意味一石を投じる覚悟のある映画だと思える。
天才指揮者として名声を得た主人公ダニエルだが、過密なスケジュール、求めても得られぬ苛立ち、そして彼の肉体と精神はすでに限界だった。そして、すべてを捨てることを決意した彼は、幼少時代過ごした小さな村の廃校を買い上げ住まう。ここで静かに余生を送ろうとするのだが、地元の聖歌隊を指導することになる。
一見音楽を愛するものたちのサクセスストーリーにも見える。だから、例えば、有名な「天使にラブソングを」あたりと同列並びにされかねない。でもまったく違うのだ。なぜなら何のことはない、テーマが違うのだ。確かにプロットはよく似ている。さらにモチーフが同じ合唱だ。ところが完全に異なるのはサクセスストーリーではなく、この映画は救いの映画なのだ。
サクセスストーリーには中身が何であれ、勝ち組になる仕組みが仕込まれている。しかし、この映画の主人公ダニエルは小さな頃いじめられながらも音楽に秀で、その後世界的な名声を得るわけだから音楽の分野で勝ち組に既になっているはずだ。
勝って何になる、目指したいのは、心を開く音楽なのだ。が、彼は、心臓障害で過密スケジュールの音楽家業から足を洗う。そして身を落ち着ける場所はかつての故郷。名前を変えているので誰にも分からない。有名な指揮者がなぜ辺鄙な村に。そこから物語は始まるのだ。
村の聖歌隊のメンバーたちの生活が私たちに明らかにしてくれる、主人公の村人たちとの心を通じたやり取りと共鳴。そう共鳴、共感なのだ。それが音楽なのだ。クライマックスのコンクール会場で用意されたエンディングはその聖歌隊が一等賞をとるシーンではないのだ。
彼は村の教会の牧師から聖歌隊の指導を依頼される。聖歌隊メンバー一人一人の生活に彼は少しずつ関わっていく。
映画を観られた方ならもう感じてられるであろうが、明らかにイエスキリストとその取り巻きと連中とイメージが重なる。私はたまたまメサイアを聞いていたせいか、より強く感じられた。
さらに、もうひとつ、9.11事件とその後に対するメッセージだ。この映画はスウェーデン映画であり、国民の5人に1人が観て絶賛したそうじゃないか。この映画は監督の歌(メッセージ)であり、国民が共鳴、共感した。とすれば、スウェーデン国民も同じ意見だ、と言うことにはならないか。
例えば聖歌隊の指揮者であり指導者であることに、雇った張本人の牧師が嫉妬する。人気を掻っ攫われたように。牧師は彼を解雇する。すると、メンバーの一人でもある牧師の妻は、「あんたのしていることはイエスを十字架に貼り付けているようなものだ」と言う。メンバーはみんな教会を離れ、ダニエルについていく。
そして、コンクールへ。優勝して「やったあ」っていう爽快感のあるエンディングではない。そうじゃないのだ。9.11事件後のアメリカ式やり返しの論理では何も解決しない、この映画はそう語っているように思う。
また、聖歌隊一人一人のさまざまな家庭や自身の障害などの問題を乗り越えて共鳴に導くイエスのようなダニエル、彼自身、音楽家としての名声は得たとしても、ずっと駄目人間だったのだ。そう、最愛なる母を亡くしてから人を愛することができない。
みんなを救う救世主という図式だけでなく、みんなから救われる、愛に包まれる、双方向の救いの映画なのだ。朋に痛みを分かち合いともに感じあう、こんな映画は観たことない。
共感のエンディングが劇場内にも共鳴する。













1 ■同感!
>双方向の救いの映画なのだ。
まさにそうですね。
9.11やキリストとの関係は私も同意権です。