2005-11-11 23:40:53

TAKESHIS’

テーマ:映画

郷愁には 不条理なる憂いが 含んでいる 



 それにしても何故だろう、淋しい映画だ。いや、ただ淋しいんじゃない。心の中を風が通り過ぎる、そんなある意味虚無感。ニヒリズムが漂い、芭蕉の境地も匂う。
 例えれば、かつて私がプログレロックグループ、ピンクフロイドの問題作「ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン」(邦題「狂気」)を聞いた後の感動と寂寥感。
 同じ頃、別のシアターでは「Always 三丁目の夕日」が観る人すべての涙を誘い感動をもたらし、「ああ、懐かしき良き時代」という嘆息をつかせている。それは確かに完成された作品で、それ自体に文句はない。でも、いいのだろうか。作品にけちをつけたいのではない。最後まで読んでいただければ分かっていただけるのではないか。
 一方、この映画は、決して時代とか社会背景を大風呂敷広げて問題にしている作品ではないと思う。しかし、アメリカ兵の前で死んだふりをして息を殺しているタケシ、そして、ヤクザたちの抗争のような射ち合いシーンで敵も味方もすべて死に一人呆然と立ち尽くすタケシ。この象徴的なシーンがブックエンドのように、イントロとエンディングに仕込まれている。
 そして、その間の本を無秩序に並べたようなお話、二人のタケシと、現実と劇との錯綜、夢と現実との錯乱。あたかも、そのイントロとエンディングの間には一秒もない瞬間の出来事にも思える。この瞬間を、もしアメリカ兵の存在を重視するならば、戦後から今日までの日本にも見える。そして、そこで生きた人間の代表、それが二人のタケシではあるが、果たして、アメリカ兵は重要か。そして、タケシは本当に二人なのか。


 ちょっと暴言的に言うならば、北野監督は、「うるせえ」「じゃまだ」「うっとおしい」の三拍子で自由に映画を創り始めた。そしたら、あれれ、高い評価が得られてしまった。それが素直な気持じゃなかろうか。
 そしてその後、幾つも映画を撮りながら、もともとお笑い世界で培った人を楽しませる術も手伝って、彼は技術的にも感性的にも評価の得られる映画作りのこつを覚えていくとともに、その三拍子の根底に潜むものが何なのかを少しずつ自分の中で咀嚼できていった。
 前作「座頭市」で、そうして覚えた受け狙いを極め、エンタの神様的存在に崇められた。しかし、それは、せいぜい、延長にクロサワがいる。それ以上ではなかろう、ことは分かっている。だから、今回は、どうしても三拍子の根底に潜むものを自ら暴く心理的映像にチャレンジした。それがクロサワからの脱却? 「夢」に似ているともいわれているが。でも、彼からすれば、ごく自然な流れ。
 さて、今回の作品、批評が真っ二つに分かれているようだけれど、不思議はない。真っ二つの右と左。右の岸には、エンタの神様的作品を期待し楽しむ人がいる。そして、左の岸には、北野監督の作り手の立場で鑑賞する人。その二極分化が甚だしく生じたに過ぎない。実は、この右と左、監督の中にもある。二人のタケシは、そういう意味もあるだろう。

 また、片方はアイデンティティ、タケシは何者か、他とは違うぞ。そして、もう片方は、無名性、誰でもありえるタケシ、観る者に、あんたもタケシかも、と。そういう二面性。これは実は誰にでも大なり小なりある。そうした二面性を彼なりに描いた作品がこれだ。だから、手放しでエンタできない、懐かしき良き人生で済まない、影が見せられる。しかし、それだけだろうか。


 映画の中のワンシーン、この道をけっして真っ直ぐ行くな。そう言われたタクシー・ドライバーのタケシは、その道しかないので真っ直ぐ走る。そこから一層進む、夢と現実、空想と事実、虚構とリアル。
 転がる死体を避けながら車を進めるドライバーのタケシ。その象徴的なシーンとともに、射ち殺されたはずの連中が血まみれ姿で彼に何度も迫ってくる。
「うるせえ」「じゃまだ」「うっとおしんだよ」とピストルを連射する。連射しても相手は本物かどうかわからない。ラストの海岸シーンはなおさら淋しい。絶対の伴侶かと思いきや、平気で願える愛人(京野ことみ)。不確かな存在の確保。ただひとえに、彼の生き様を邪魔する女(岸本かよこ)は、愛情の裏返しの憎悪の象徴。そして、自分は果たして何者か。


 さてさて、こうして幾らネタバレ的シーンを言葉でつむいでみても、この映画は核心に迫れない。何故なら、これは映画たる映画だから。それを目指して、かつて様々な映像美学とともに、手法的実験もなされた。ダダやシュールやポストモダンと言われた時代。
 今ではVFXとかなどの技術面ばかりが取り沙汰され、そうした映像美学は難解だけで不可解と言われて久しい。
 そうだろうか。それは不可解、分からないのではなかろう。フォークソングが好きな人間にジャズを聞かせてもわからないと言う、ただ苦手なだけ、せいぜい、それくらいのことに過ぎないと思う。


 単純に言えば、生きることへの執着からもたらされる強迫観念的な強制連関、いわゆる「糸が千切れた首飾りを紡ぐ方法」でもある。それが、この映画の心理描写のずれた非連続的連続性。

 そんなことよりも、もっと大切なこと。そうした強迫観念的映像の連続が、イントロとエンディングのブックエンドの中に閉じることで、私には、果たして生きてきた人生を、こんなに淋しく閉じ込めてしまった、そのことのほうが大きく余韻に残る。
 日本は「もはや戦後ではない」などと言われ、しゃかりきに明るい未来を信じ、東京タワーをはじめ、超高層ビル群まで作ってきた。そして、幸せになるため、便利な三種の神器から、新三種の神器、さらなる技術も手に入れてきた。そして、それらは今や、ひょっとして私たちを脅かす武器にもなりかねない。
 しかし、今更、それを否定することもできないし、初めからやり直すことも現実では無理なのだ。せめて、死んで路上に転がる者たちを再度ひき殺さないよう、避けて通るしかないのかもしれない。
 戦後は本当に終わったのか。この映画には、息を潜めながら生きようとするタケシと、すべてを破壊しても生きようとするタケシの、二つの生きんとするタケシがいる。そこに私は、二面性を持って生きる日本人を見た気がする。
 まさか、それすらも、ひょっとして、現実でなく、錯覚で夢なのだろうか。そうかもしれないから、あまりにも全てが淋しく、空しいのかもしれない。
 手放しに懐かしき良き時代と言えるのは、今よりも、という比較論でしかないのかもしれない。そして、その時に覆われた時代の影を、私たちは余りにも過去に葬りすぎているのかもしれない。過去は過去でなく、過去を生きてきた者にとって、いつまでもそれは現在なのかもしれない。しかも、その引きずりは、今や全く無駄なものなのかもしれない。
 そして、さらに、これは、戦後という問題よりも、どんな時代にも付き纏う、人間が生きるという不可思議な努力の不条理さなのかもしれない。

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16 ■123サマ

>北野武が個人的に京野ことみの裸を見たかったから以外にないと思うんです。

 それは私には分かりません。彼女の最近の活躍では、劇団☆新感線の舞台「吉原御免状」で、胸をはだけて抱きつき、共演者が胸をもむ場面があるそうです。女優としての脱皮を図るために、彼女もしくは彼女合意のもとでの事務所の意向も含め、申し入れしたとも考えられなくもありません。
 ただ、私には、その経緯と作品そのものの出来とは関係ないと思いますので。

 また、そのシーンが余分か必要だったか、と言えば、観る側からすれば、これに限ったことでなく、必ずしも必要ではないとも思えるシーンはあるでしょう。
 ただ必要性で話してしまえば、極論、映像なんかいらない、にまで、行ってしまうのではないでしょうか。
 算数の集合という概念で必要条件・十分条件というの、習いましたよね。
 Aはキャベツである→Aは野菜である
 野菜という映画を描きたかった。そこでキャベツを使った。「Aがキャベツである」ことは「Aが野菜である」ことの必要条件ではありません。いわゆる十分条件なのです。私たち鑑賞者は、最低限そういうスタンスで作品を観る、必要性だけで論じては何もいらなくなってしまいます。
 ただ、さらに言えば、作り手は、「Aが野菜である」ためには、そこに最善の映像を考えると、「キャベツ」でなければならないと考え詰めることがあるんです。しかも、それは、どんなキャベツでもいいじゃなく、例えば愛知県の渥美半島のよく日光を浴びた瑞々しいキャベツ、その中から、これしかないという一つを選択する、そういう作業をするんですね。
 もし、映画作りの背景を考えるのであれば、誰の策略で脱がせたかというのも芸能ニュース的で話題としては面白いでしょうが、むしろ、観る側には十分条件であろうけれど、そうした作り手にとっての必然性を感じとる、そうした鑑賞の仕方って、観る側の鑑賞眼を養い人間性を深める意味でも重要ではないでしょうか。
 長くなりました、すいません。

15 ■度々おじゃまします

そうですね。
TAKESHIS'って興行成績はあきらめてる感じだし
北野武にタレントや監督としての実績があってこそ、作ることのできた作品だと思います。
だから自己満足を追求できたんでしょうね。。。

表現の上での努力を感じないシーンのひとつに京野ことみのヌードがあるんですが、
男女の関係であるとか、尻軽女であることって
裸にならなきゃ表現できないものじゃないですよね。
今回、京野ことみがヌードになったのって
北野武が個人的に京野ことみの裸を見たかったから以外にないと思うんです。
それが実現したのは、彼女自身の意思よりも大金を積まれたとか、
事務所の決定に従わざるを得なかったんじゃないかと思うんですが
その辺りどう思われます?
良かったら聞かせてください。

14 ■123サマ

>北野武の自己満足としか思えません。
ううん、でも、まず、自分が一番満足できるかどうかって大切ですね。ハリウッド映画、興行成績よくするために監督の意向を無視したプロデューサーの編集も多いって話です。

13 ■無題

人に何かを伝える…という努力を感じない映画でした。
北野武の自己満足としか思えません。
黒澤を意識しているのが見え見えでした。

12 ■Yin Yanさま

>これからが北野武のホントの勝負の
ような気がします。
はい、私もそう想います。
手法からすれば、この映画は単館上映される作品に近いかもしれません。

11 ■いい記事ですね

こんにちは。

>それは、せいぜい、延長にクロサワがいる~

同意です。
これからが北野武のホントの勝負の
ような気がします。
しかし、内容と意図は理解できますが
劇場公開作品でこういう手法を使わないと
この作品を撮れなかったのか?
という点に関してちょっと疑問も残りましたね。
ではでは。

10 ■mnb様

再度のコメント、痛み入ります。こちらこそ、よろしくお願いします。

9 ■はじめまして。

自分が思っていて書けなかったことが、見事に表現されてます。完敗。リンクさせてください。これからもよろしくお願いします。

8 ■lunatique様

>「フォークソングが好きなのにジャズを聴いている」
すいません、あまり的確な例えにはなってませんが。

7 ■uminomiti様

>人間の不条理さ・・。
>ん~考えさせられました。
不条理という言葉だけでくるんでしまうのも少し躊躇われたのではありますが。
いつでもお邪魔下さい。

6 ■mnb様

>明晰の看破
いえいえ結構試行錯誤のしどろもどろです。こちらこそ、お見知りおきを。

5 ■ravel様

ありがとうございます。
よろしくお願いします。

4 ■フォークとジャズ

TBありがとうございました。
この映画に関して、私は「フォークソングが好きなのにジャズを聴いている」状態に近かったと思いますが、タクシードライバーのシーンがなぜ挿入されているかは、こちらの記事を読んで少しわかったような気がします。

3 ■なるほど・・・。

こんにちは。TBありがとうございました。
映画をまだ観ていないのですが、益々早く行かなきゃ・・・と。
人間の不条理さ・・。
ん~考えさせられました。
またお邪魔させていただきます。

2 ■完敗

ボクがいいたくていえなかったを、明晰の看破してくれました。今後ともお見知り置きくだせえ。

1 ■TBありがとうございました

お邪魔します。
TBありがとうございます。
私もTBさせて頂きますね~。

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