第633号谷地城 | 城新聞

城新聞

-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.

{5481B479-8F4C-47B4-A23D-91EEAC9CF045:01}

1555年から1558年にかけて中条長昌によって築城されたと伝えられています。中条氏(ちゅうじょうし)はもともと武蔵七党横山党の一族であり、鎌倉幕府の成立に貢献した中条家長を祖とした名家で、北寒河江の領主としては5代に渡っ て統治していました。しかし、この長昌には嫡子がなく、国人領主であった白鳥氏が継承する形で城主と居城することになったと云われています。1582年頃、白鳥長久が城主として城郭を拡張。当時、本丸は東西120m、南北260mの規模で三重の堀に囲まれた長方形状の輪郭式平城であったそうです。白鳥長久は智謀に優れた名君として知られ、1570年、最上家の義守と義光親子が争った天正の乱を仲介役となったり、出羽探題を名乗り織田信長に名馬白雲雀を献上し、信長の歓心を得るなど外交政策により、最上氏に匹敵する勢力を持っていました。出羽統一を目論む最上義光は、 当初、義光は嫡子である義康と長久の娘を婚約させ懐柔を試みるも長久も警戒。そこで、1584年6月、義光は方針を切替え、重病と偽り、後事を頼みたいという口実で長久を山形城に招き入れ謀殺。すぐさま城主のいない谷地城を義光は攻城し、3日後に落城させたと云われています。その後、谷地城は最上氏家臣である斎藤光則が城主とし、山形城の支城としました。1600年、慶長出羽合戦では上杉勢の侵攻を受けた谷地城は尾浦城主の下秀久によっていったんは占領されたものの、関ヶ原において西軍が敗れたため、上杉勢は撤退。撤退の情報を知らされていなかった下秀久は約2,500人で谷地城に籠城。援軍もない中、下秀久は11日間、壮絶な徹底抗戦したと伝えられています。最終的に降伏しますが、最上義光は秀久を助命し、勝手知った荘内侵攻の先鋒に起用しました。秀久は尾浦城を攻略し、最上家臣として尾浦城主に復帰し2万石を与えたそうです。その後、谷地城は1622年までは蔵入地として機能しましたが、最上氏の改易に伴い廃城となりました。

{B4B19E82-C124-4C51-B3AC-A87ACFF11400:01}

現在は住宅地となり遺構は殆ど残っていませんが、写真にある三社宮の敷地が本丸跡とされ、ここに一部土塁跡が残っていました。ちなみに敷地内にある大銀杏は、白鳥長久が谷地城に入城した際に植えられたとされ、1866年に大火で焼失したものの、再び芽吹いて現在に至っているそうです。


【近隣の高校】


山形県立谷地高等学校


山形県の中央に位置し、「雛とべに花の里」、河北町にある伝統校です。卒業生 

は16,000人に及び地元の政財界をはじめとして全国で活躍されています。ユニークな授業として3年の体育の授業で8時間程度、社交ダンスを取り入れているそうです。講師には県内で活躍している一流の現役選手を迎え、サンバ・ルンバ・ ワルツのステップの特徴などを、指導しています。部活動も盛んで、昨年度カヌー部はインターハイで4種目優勝、国体では2種目優勝と全国の頂点に立つ強豪校で、高校では唯一の屋内カヌー練習場があり、設備も充実している環境です。