城 新 聞

-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.


テーマ:
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1468年、応仁の乱の戦功により中野の地を与えられ多胡俊英が築城したと云われています。戦国以降、鉄穴流しが行われるなどから当時の縄張りを留めていないようですが、西側の比高が無く、舌状地帯にあったように思われます。また、南東方面は現在田んぼですが、築城当時は沼地であったそうなので、小規模ながら攻めにくい縄張りといった印象です。3代目城主は「命は軽く名は重い」で有名な「多胡家家訓」の著者である多胡辰敬です。辰敬は経歴がユニークで、わずか6歳の時に京極政経に将棋の才能を褒められ、その評判で12歳の時に天皇か幕府かわかりませんが京都から招かれたそうです。しかし、石見に戻って25歳あたりから放浪の旅に出て、38歳ごろからようやく尼子氏の家臣として活躍するようになります。ちなみに山中鹿介とともに尼子氏再興に尽くし、その後、因幡鹿野初代藩主となった亀井茲矩は、外孫にあたります。そんなちょっと変わった辰敬ですが、1543年、59歳の時に、尼子晴久の命により刺鹿岩山城主となり、中野余勢城は弟の正国に任せました。1557年、多胡辰敬、正国兄弟は小笠原氏の守る井原雲井城を攻略。続いて川本温湯城を攻めて小笠原長雄を降伏させたそうです。その後、福屋氏が毛利氏に反したことから1559年、吉川元春らの毛利勢により余勢城は攻撃を受けます。しかし、正国やその軍師の沖弾正が撃退し、1561年に再び攻城された際は、敵陣に夜討ちをかけ、児玉興三郎はじめ多くの戦死者を出し、吉川軍はまた兵を引くことになります。苦戦を強いられた元春は同年12月、今度は、城側の重臣別所宗晴を調略にかかります。1562年1月1日、別所宗晴は多胡正国の息子である秀光を殺害し、城の裏門を開いて吉川勢を城に入れたため、決死の防戦もかなわず余勢城は落城しました。残った正国たち7騎は郡山城に逃れ、沖弾正は余勢城に火を放って自害。郡山城でも吉川軍を防げず、正国は兄のいる岩山城に落ち延びたものの、再び吉川元春軍に包囲され、多胡辰敬、正国ともども討死しました。その後、主君を裏切り、生き残った別所宗晴は、結局、元就の信頼を得られず、その後、殺されたという話が残っています。多胡氏は一説によるとバクチ打ちの名人の家系で、足利義満に仕えていた多胡重俊は「多胡バクチ」と言われるほどバクチ名人であったそうです。その後、重行、高重と続きますが、俊英の時にバクチを辞め、京極氏に仕えて前述の通り、応仁の乱で活躍したそうです。

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現在、城跡には当時の歴史を記した碑文が多数並ぶ、かなり奇妙な城跡公園となっています。近隣には、多胡氏菩提寺の西隆寺があり、参道の途中にある杉林は、かつての処刑場で、地元では恐怖のスポットとして知られ、通る時にこの坂を上ろうかどうしようか?と悩むことからドウショウ坂と言う名が付いた伝えられています。


【近隣の高校】
島根県立島根中央高等学校

島根県立川本高等学校と島根県立邑智高等学校の2校が統合され、2007年4月に開校しました。校名は東西にのびる島根県の中央部に位置していることから名づけられたそうです。島根県初の普通科コース制と総合選択制で、校舎は川本高等学校のものを使用。2014年に創立7周年を迎えました。


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