城 新 聞

-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.


テーマ:
photo:01

1470年、応仁の乱で大内政弘が西軍の将として京に出陣中、政弘の伯父である大内教幸が東軍に通じ、「道頓の乱」と呼ばれる反乱を起こしました。吉見氏など石見の国人もこの乱に呼応したため、大内領国の守りに就いていた大内氏の庶家でもある重臣、陶氏7代目弘護が、防備のため若山城を築いたと云われています。陶弘護は大内教幸を見事に破り、反乱を鎮圧。後年、宴の席で吉見信頼に刺殺されたそうです。そんな大内氏の信任篤い重臣の陶氏でしたが、1550年に陶隆房が、主君大内義隆と対立。隆房は、謀叛に備え、城の大改修を行います。そして、翌年、陶隆房が若山城にて挙兵。山口を襲って義隆を自害に追い込んだのち、義隆の甥である大友晴英を豊後国から迎え大内義長として擁立します。自身は晴賢と名を改め、大内氏の実権を握ります。しかし、1555年、領土拡大を図り、安芸国へ軍を進めた陶晴賢は、「厳島の戦い」で毛利元就の奇襲によって大敗し、自害。若山城を守る晴賢の息子、長房は、晴賢によって殺された杉氏の一党杉重輔が挙兵して攻められ自刃。さらに同年より毛利氏の防長経略が始まり、1557年、陶長房亡き後は陶氏の遺臣が若山城を守っていましたものの、この年に毛利氏の侵攻を受け最終的に落城。大内氏を滅ぼして防長二州を制圧した毛利氏により廃城となりました。


photo:02

連郭式の中世山城で、標高217mの山頂の本丸を中心として、東側に伸びる尾根に二の丸と三の丸、西側に伸びる尾根には西の丸と蔵屋敷が配されていたそうです。各所に空堀と竪堀があり、特に本丸の北東側には畝状竪堀の跡が多数現存してます。山陽道や瀬戸内海を望む交通の要衝に位置しており、海からの攻撃を防ぐため、二の丸から本丸に連なる部分に壇床と呼ばれる段々状の曲輪がありました。現在は、かつて陶氏家臣の登城に使われた道筋が「陶の道」という名で地元に知られ、2004年に日本ウオーキング協会「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれています。山麓から城跡へと向かう道脇には地元の小学生たちが書いたと思われるたくさんの木札がぶら下げられていました。


【近隣の高校】
山口県立新南陽高等学校

1980年に進学を目指す生徒のために設立された単位制普通科高校です。現在も卒業生の進路としては進学が大多数で、私立大学(四年制)や専門学校に進学する生徒が多いそうです。8年目を迎えたやまぐちエコリーダースクールは、学校周辺の清掃活動をはじめ、地域や自治体との連携を図る中で、7年連続して県教委の認証を受けて環境問題、エコ活動等を全校を上げて取り組んでいます。ちなみに毎年、年明けに「凧揚げ大会」「カルタ取り大会」が開かれているそうです。


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