去年は不作に泣いた柿の木でしたが、今年はかなり実をつけて落ちずに育っています。

 

西宮市に住む姉夫婦にも十分に送れる。

これが全部色づいたら近所や知り合いにもプレゼントできる。

 

不作の年はムシの害で柿の実がドンドンと地面に落ちてしまうのです。

イヌの散歩にかこつけて畑に入り黙って柿の実を持ち去る近所の人がいたり、

散歩にかこつけてビニール袋を取り出して持ち帰るおじいさんがいたりします。

去年の出来事だけどね。

 

昔からこの土地に住んでいる人たちには、ある意味で土地のしがらみといったものが

あったりするのだ。

秋祭りで屋台を担がないといけないとか、粗大ごみの当番で腕章をして早朝5時から

ゴミ置き場に行かないといけないとか、町内の溝掃除にいかないといけないとか、

消防団に入らないといけないとか、老人会の役員をしないといけないとか、

といったように良くも悪くも色んな意味で町内との関わり合いが存在するのだ。

 

その土地土地の縛りのような人間関係が基盤になっていて、子供の頃からお世話に

なっているとか、昔からの知り合いであるといったような人間関係を基軸にして、

そこには恥の概念とか、親や子供の恥になるようなことはしないでおこう、

あるいは後ろ指をさされないようにしようとか、見栄を張るなどといった概念がある意味で

人の心を律していて、発する言葉であったり行動そのものを制御しているといった側面が

あるが、また一方でそういったものとはまったく無関係に生きているヒトビトというのも

いらっしゃるわけで、そういった方々の中には交流心理学を生み出したユダヤ人である

デビッド・バーンが唱えた心理学用語でいうところの

「 リトルプロフェッサー 」 と呼ばれているヒトタjチがいるのだ。

 

「リトルプロフェッサー」は日本語に訳すと 「 小さな教授 」 と呼ばれる。

要するに小利口というのだろうか、倫理的、あるいは社会通念上明らかに

間違っているのにもかかわらず自分の行動を正当化してしまうくらいの

知識と知能を持っているヒトタチがいる。

 

そんなヒトタチのことを心理学用語では 「 リトルプロフェッサー 」 と呼ぶのだ。

 

筆が遊んでしまい、いつもとは違った形で、わけのわからないことを書いてしまった

のかもしれない。

最後まで読んでくれた方には感謝いたします。

 

外国の話だったと記憶しているが、家からバス停まで歩くのがじゃまくさいので

毎日毎日、少しずつ少しずつバス停を移動させて最終的には自宅の前に持って

きた人の話を呼んだ記憶がある。

リトルプロフェッサーと呼んでいいのかどうかは知らないが、その人なりの正当化

できる理屈があるのだろう。

理屈とは言ってもそのヒトだけが唱える屁理屈に過ぎないのだが・・・

 

 

 

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