会田誠展で考えた事(2)会田誠は現代アートの素朴派で技巧派、そして優れた入門編 | 美術作家 白濱雅也の関心事 

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会田誠の作品を概観して、過激なイメージとは裏腹に巧みで素朴という印象を受けた。
素朴というのはその視点や問題意識が日常的、体験的、等身大的でという意味で、意外性がありながらも共感しやすい。現代美術の難解さを揶揄する作品もあり、いわゆる観念的で難解というかつての現代美術の難点を回避している。


巧みというのは芸大の油画技法のコースで鍛えられた、その描画の技巧であるとともに、落書きやヘタウマ、工作的な稚拙なスタイルの使い分けなどのその展開手法の妙である。
この辺は、現代アート手法のオンパレードといってもいいくらい多様な表現を用いる。スタイルを限定しないというのがスタイルとも言え、日本でも柳幸典などこういうタイプの作家がいる。そんななか一貫しているのが前述の素朴な視点と皮肉的な提示スタイルである。


しかも本人は素朴で実直、謙虚な態度で「いやいや、そんなに深いことまで意識してないんですけど…」「僕なんかだめだめで…」というような姿勢がインタビューなどでは多々見受けられ、これはポーズではなく本音という印象を受けた。その人物像に日本人的に惹かれるものはあるのだろう。
会田誠本人は「美術は表面がすべて」をモットーとしている。コンセプチュアルに見える作品も深く考察しているわけではなく、批評側が勝手に深読みして価値づけているように思える。
もちろん本人の意図を超えたところに作品の価値があるという面は多々ある。しかし私は会田作品にそういう深い意味を感じないし、意図的にそういう深そうなテーマを掲げている単義的作品についてはテーマ性自体を吟味する必要がある。

深くはないが日本社会では見過ごされていたりタブー視されているような矛盾や暗部をテーマとして展開する。引用もコピーであり、多様な手法もコピーしていて、テーマとこのコピーの結合が会田誠の作品の真価である。オリジナルにこだわらず、既存のイメージを縦横につなげていくあたりは今日的である。

こうした視点の取り方に高度な技術と稚拙な工作の使い分け、古典的な引用と稚拙な図画の使い分け、卑俗なイメージと古典的で高度なスタイルの引用を結合させるあたりに絶妙な冴えをみせる。この手法も現代アートでは今では常套手段であって目新しさはないが、日本的な聖俗の巧みな結合の早い発見は会田の優れた資質でありオリジナリティと感じる。

引用、コピーについて私も分析している途上であるが、オリジナルを凌駕、刷新した場合にのみ価値が生まれて、それ以外は通俗的な面白さで消費されるしかない。異なるイメージを結合して「キメラ」を生み出す場合は生み出したものの質やキメラの存在価値を生む必要があると思う。このあたり後ほどもう少し検証したい。

視点が素朴であるので、現代アートとして難解さがなく、かなりわかりやすい。しかもエロ、グロ、ナンセンスなどを皮肉たっぷりで可笑しく、現代アートが獲得した、多様な展開手法であれやこれやと見せるので飽きさせない。そして権威的なものを揶揄するから痛快である。それでいて、古典や巧みな技巧なども見せ、通俗的な意味での芸術的満足も与える。こうした楽しみ方はテレビのバラエティやワイドショー、まんがやゲームを思わせる所もあって、なるほど、特に若い人たちやあまりアートに縁のなかった人たちが夢中になるわけだと感心した。
そう、この展覧会は現代アートのワイドショーなのだ。

つまり会田誠は現代アートの入門としては非常に優れている。(これは皮肉ではない)大衆時代の現代アートとして絵画では奈良美智、立体で村上隆が先陣を切ったが、現代アートのワイドショーとして先のふたりに続いているように思えた。(続く)

(一部分校正、改稿しました)