2010-07-21 12:17:20

ジェンダーで見る映画『クレイジー・ハート』

テーマ:ジェンダー視点メディア作品評

はい、読者の皆様いかがお過ごしでしょうか。

今日は“ジェンダーという視点で観る映画作品評”です。

作品は6月12日に公開されました『クレイジー・ハート』です。

原題:『Crazy Heart』/2009年アメリカ/111分/配給:20世紀フォックス映画

主演男優・主題歌ともにアカデミー賞2部門を受賞した作品でもありますね。

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【あらすじ(Synopsis)】

かつて一世を風靡し、“伝説のシンガーソングライター”とまで評された主人公バッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジス)。独り身で壮年期を迎えた現在の彼は、地方巡業のしがないステージで自身の昔のヒットソングを歌い、過去の栄光にすがりつくように日銭を稼ぐ毎日を送っている。彼の愛弟子であるトミー・スウィート(コリン・ファレル)がトップシンガーとして日々トップステージで活躍するのとは対照的に、バッドの方は、もはや新曲を書くモチベーションすらも失ってしまっている。地方巡業の日々の中、バッドは何かが欠落してしまっているとは感じていても、なかなかそんな自分と向き合うこともできずにタバコとお気に入りのウィスキー“マクルーア”で気を紛らわす毎日を送っている。そんなある日、とある巡業先でバッドはインタビューをしに来た地方新聞紙のジャーナリストのジーン・クラドック(マギー・ギレンホール)と出会う。この瞬間から、止まっていた彼の人生の針は、彼女との出会いをきっかけにまた動き出す。ジーンとのふれ合いの中、ひとつ、また一つ、と欠けている何かを取り戻してゆくバッド、はたして彼は全てを満たし、かつての自分を取り戻すことができるのだろうか・・・。

ジェンダー視点物語構造

  さて、前回の『ブライト・スター』では、男性をモチーフにした女性が主人公の物語でしたが、今回の『クレイジー・ハート』は最初から最後までジェフ・ブリッジス扮するバッド・ブレイクで一貫しています。そういう意味においては非常に骨太、といいますか、分かりやすい物語構造です。そのバッド・ブレイクの物語に抑揚を与えるのがマギー・ギレンホール演じるジーン・クラドックという女性登場人物。つまり、「Boy meets girl」の典型とも言える流れだと言うことになります。分かりやすく典型的な物語構造に新鮮さを感じられずに、よくある話、と一刀両断してしまっているレビューをよく見かけますが、見慣れた構造の中に隠されたエッセンスを読み取ることができれば、アカデミー賞をとったことにも得心がいくのではないかと思います。

  では、少しジェンダー視点に特化して物語を見てみましょう。主人公のバッドは壮年期を迎えた男性です。しかしそんな彼も今は、過去の栄光は色あせ、酒・煙草におぼれる毎日。糊口をぬぐうために地方巡業をこなしていても、ミュージックに対して真摯に向き合っているわけではありません。しかし、そんな彼をかろうじて生かしているのは、「ミュージシャン・シンガーソングライター」としてのアイデンティティとプライドと言えます。どんなにボロボロの状態でも、巡業のステージだけはこなすという彼にとっての最後の砦があるのが、作品序盤で分かります。しかし、心身ともにいつ崩壊してしまってもおかしくない、何もかもが欠乏している、そんな状態です。


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  物語の構造、進行や抑揚はそのままバッドの男のアイデンティティの揺れとシンクロしています。「To be a musician, or a man himself」この挟間で彼は揺れ動きます。「男であること、一流のミュージシャンであること」この両者は一見関係がないようにも見えますが、実は根底ではバッドのアイデンティティを保つ上で非常に重要な要素であるのです。どちらを満たす上でもジーンという女性の介入が物語のキーになってきます。彼女がまずミュージシャンとして落ち目になっているバッドをジャーナリストとして刺激を与えます。次に一人の女性として、ほとんど失いかけているバッドの男性性を刺激します。ミュージシャンとしてのアイデンティティと男性性が刺激を受けることで、バッドはこれまで自らが省みてこなかった父性というものと対峙することを意識します。母子家庭のジーンとその一人息子と触れ合うことで疑似家族を体験したからに他なりません。ジーンを愛すならば父になるという条件がそうさせるわけです。


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  男ととしてのアイデンティティが満たされ始めると、ミュージシャンとしてのアイデンティティが回復を見せ、これまで不能になりつつあった作曲家としての才能が蘇り始めるのです。売れっ子の愛弟子トミーとの久し振りのセッション=男同士が男を認め合う行為、によっても刺激を受け、彼のミュージシャンとしてのアイデンティティは満たされてゆくのです。

  さて、これで“Happily ever after”とは行きません。ミュージシャンとして作曲活動に没頭してゆくと、ジーンに止められていた酒にまた入り浸り始めます。それが祟って、ジーンの息子を迷子にしてしまうという大失態を犯してしまい、彼女が世界一大切にする息子の世話をする父として失格とされてしまうのです。つまり、ミュージシャンとしてのめり込めば込むほどに家庭的な父としてのアイデンティティは希薄になってしまうのです。かといって、家庭や女性とのふれ合いから離れ、男くさい関係の中だけでは以前のようにミュージシャンとして落ちぶれて行ってしまう。ここにこの物語の、バッドの、最大のジレンマが提示され、物語をクライマックスへと導いて行くのです。ミュージシャンとして、男(父でもあり一人の女性のパートナー)としてのアイデンティティとは、二律背反的状況ではその両者を両立させるのは難しいという壁にあたってしまいます。その浮き彫りとなった課題とジレンマにぶつかったバッドは苦悶します。そして最終的に彼には結局何が残されるでしょうか。トップアーティストが抱えるジェンダー的苦悩と悲哀が強く描かれた作品です。


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【ジェンダー的テキスト分析】

  今回は2点に注目してみます。ひとつはギター、もう一つは距離。


  ギターはミュージシャンでシンガーソングライターであるバッドの商売道具でありますが、ひとつのテキストとしてギターを見ますと、アイデンティティの象徴的存在であります。心理分析的には男性の象徴でもありますし、バッドのミュージシャンとしての象徴でもあります。また、バッドとギターとの物理的距離はそのままアイデンティティの強弱を表象していると言ってもいいでしょう。ギターを握りしめて「いじる」時、バッドはまさにミュージシャンであります。男としては男性の象徴を抱えて自慰に耽るとも受け取れますね。

  もう一つの距離は、ジーンとの距離です。ジーンとの物理的距離はもちろんバッドとジーンとの関係を表象するわけですが、興味深いのは、バッドを軸として見た場合にギターとジーンとがまるで磁石のS極とN極のように決してくっついたり、交わったりしないところです。ギターがバッドに触れる距離もしくは弾いている状態のときにはジーンがバッドと密接に身体を寄せていることはありませんし、その逆もまた然りです。

  女性であり、一児の母であるジーンがバッドにとっては男性や父性のアイデンティティのバロメーターであるとすれば、ジーンとギターが並び立たないという描写は、そのままバッドにとってミュージシャンと父親や夫とは両立しないという情報が表象されていると言えるのではないでしょうか。つまり、物語の構造を如実に体現していると言えるでしょう。


  あまりに孤独でもダメ、かといってあまりに男が満たされてしまってもダメ、そういう微妙なアイデンティティのバランスがあって初めてトップシンガーソングライターであり続けられる、そんなバッドなのです。一流のミュージシャンの性なのでしょうか。それとも・・・


(東京・TOHOシネマズシャンテ、シネマート新宿ほかにて公開)

公式HP: http://movies.foxjapan.com/crazyheart/

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