山口 十朋亭 | 幕末明治&史跡好きのRinkoの何か。

山口 十朋亭

続きまして。

大内氏館跡、龍福寺から歩いて数分。

こちらは幕末の志士達のゆかりの地ですニコニコ





十朋亭(じっぽうてい)。

入口は小さくて見過ごしてしまいそうですが、看板や幟が目印ですねニコニコ

住宅地のなかにポツンとあるような印象でした。






十朋亭は、醤油製造を生業にしていた萬代家の離れとして建てられたものです。

幕末期、藩庁が萩から山口へ移された際、藩の重役や役人たちの住居が足りず、豪商・豪農の屋敷や離れが住居になったんだそうです。

十朋亭もそのひとつなんですね。






こちらが離れの建物。

周布政之助をはじめ、桂小五郎久坂玄瑞、などなど、錚々たるメンバーもとい志士たちが起居していたんだそうです。

入口入ってすぐのところに展示室がありまして、ゆかりの志士の書や解説などが展示されていました。






そしてそして。

イギリスに密航留学していた伊藤博文井上馨が、長州藩と外国と戦争を止めさせるために帰国し、旅装を解いたのがここ十朋亭なんですね。




藩庁へ行って藩主や重臣を説得しようとするわけですが。

その頃、博文もとい俊輔さんはまだ身分が低かったのでその場に同席はできなかったらしいです。

でも後々、特別にという扱いで許可されたみたいですが。




明治初年に施行された戸籍法では、俊輔の戸籍は萬代家の寄留扱いとなっているそうです。

本籍で発生するいろいろな手続きの代行を萬代家に頼んでいたんですって。

明治維新以降も親交が続いていたんですね。





伊藤博文・井上馨 大杓子」というものがありまして。

明治28年に、萬代家の6代目・利七さんが山口町長と共に広島へ慰問に訪ねたときのお礼として、伊藤博文自作の「厳島」の漢詩が書かれた大杓子が送られてきたそうです。

明治29年、自身の還暦祝いで井上馨が帰郷した際、5代目利兵衛さんがお祝いの席を設けた時に、この大杓子の話が出て、それならばと自作の漢詩を書き添えたんだとか。

人の贈り物に書き入れちゃう聞多さん、マジ漢前にひひ








写真を取り損ねてしまったのですが。

明治初期に吉田松陰の兄・杉民治が十朋亭裏で塾を開いていたんだそうです。

その建物も残っていましたよ。





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