2010年03月21日(日)

なんたる本末転倒な愚策

テーマ:日記
 養育、教育とは何ぞや?その問いかけも虚しく、子供手当、高校無償化なる、国民を見下した方向性無き思いつきの見切り発車で、浅はかな愚策を施そうとしている。

 いかに経済的に家計が苦しい時代と雖も、現金にて直接世帯にそれを配するとは、あまりに馬鹿馬鹿しく、道理が通っておらぬ。
 給食費や修学旅行等の費用が払えないという世帯が出るくらいなら、それらを少しでも軽減するよう自治体や学校に助成するのが政ではないか。高校無償化も、高校は現在、義務教育ではない。なれば義務教育である小学校、中学校、または要望の多い育児施設の充実化を最優先にするのが筋であろう?また、中学校で自分なりの夢や道を見出し、その方向を目指す少年をも惑わすのか?

 実行しようと目論む他の法案と並べ見れば、裏に何か崩壊を意図させる要素あるのではと臭わせる。現にあらゆる想定の一つとして、未決の外国住民に対する扱いに闇シンジケートが蠢こうとしているとも聞く。また、合わせて、先に参議院議員選挙を控えた、党利による国民へ恩の押し売りを為すための下心ありなバラマキ施策と捉えられても当然であろう。
 養育、教育の根本はいつの時代にあろうとも、その根本は躾と人格形成にある。バラマキでどうにかしようというのは前代未聞、まったく愚の骨頂である。

 とりあえず、これ以上これらの最低な愚法案に関して、常識の範疇において細かく論ずるまでもなく、ただ無駄に時間を費やすのみなので、ここからは教育に関する問題点に対して真剣に直視して考えてみたいと思う。



 この国の教育は戦後、3R(Revenge,Reform,Revive)をキャッチフレーズに5D(Dis-armament,De-militarization,De-centralization,Dis-industrialization,Democratization)・3S(Sex,Screen,Sports)を進めるGHQにより日本解体をもたらされ、その一環として教員組合の結成を指令、日本を骨抜きにすべく、それらの活動により今日に至るまで教育界に巣喰いながら抑制、その時代その時代において子供達はそうした政争の中で翻弄され、巻き込まれ、育てられてきてしまった。

 そうした組合が忌み嫌う「日章旗」、「君が代」、「道徳教育」によって戦時体制がもたらされたという発想は実に筋違い甚だしく、的外れであることは明白。「日本国憲法第9条によってこの国は守られ、それが今日、日本の抑止力となって平和を維持している」などと真顔で語る楽観妄想主義者達には付き合っている暇はない。発想が下手すれば彼等の生徒以上に未発達である上に、また、昨今の政治献金不祥事などからしても、教育云々そのものを語らせるのも、教壇に立つ資格は全く無しであろう。



$晉風舘 blog-渋沢栄一

 実は、日本の教育の在り方に対する懸念というのは、明治新学制度発足以降、文明開化、いわゆる大正デモクラシーを経て、既に抱かれ続けていた事で、渋沢栄一氏によって晩年であった昭和初期にもその著作に於いて指摘されていた。

 
「現今でも、高等教育を受けた青年の中には、昔の青年に比較して毫も遜色もない者がいくらもある。昔は少数でも宜しいから、偉い者を出すという天才教育であったが、今は多数の者を啓発するという、常識的教育となっているのである。昔の青年は良師を選ぶということに非常に苦心したもので、有名な熊沢蕃山のごときは、中江藤樹の許へ行って、その門人たらんことを請い願ったが許されず、三日間その軒端を去らなかったので、藤樹もその熱誠に感じて、遂に門人にしたというほどである。その他、新井白石の木下順庵における、林道春の藤原惺窩におけるがごときは、みなその良師を択んで学を修め、徳を磨いたのである。
 しかるに、現代青年の師弟関係は、全く乱れてしまって、美しい師弟の情誼に乏しいのは寒心の至りである。今の青年は自分の師匠を尊敬しておらぬ。学校の生徒の如きは、その教師を観ること、あたかも落語師か講談師かのごとく、講義が下手だとか、解釈が拙劣であるとか、生徒として有るまじきことを口にしている。これは一面より観れば、学科の制度が昔と異なり、多くの教師に接するためであろうが、すべて今の師弟の関係は乱れている。同時に教師もまた、その師弟を愛しておらぬという嫌いもあるのである。
 要するに青年は良師に接して、自己の品性を陶冶しなければならない。昔の学問と今の学問を比較してみると、昔は心の学問を専一にしたが、現今は智識を得ることにのみ力を注いでいる。昔は読む書籍そのものが、悉く精神修養を説いているから、自然とこれを実践するようになったのである。修身斉家と言い、治国平天下と言い、人道の大義を教えたものである。
 論語にも「その人となりや孝弟にして、上を犯すことを好む者は鮮し、上を犯すことを好まずして、乱をなすことを好む者はいまだこれあらざるなり」といい、「君につかえてよくその身を致す」といって、忠孝主義を述べ、且つ仁義礼智信の教訓を敷衍しては、また同情心、廉恥心を喚起させるようにし、また礼節を重んずるようにし、あるいは勤倹生活の貴ぶべきことを教えたものであるから、昔の青年は自然と身を修るとともに、常に天下国家のことを愁い、朴実にして廉恥を重んじ、信義を貴ぶという氣風が盛んであった。これに反して、現今の教育は知育を重んずるの結果、すでに小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学、大学に進んで、益々多くの智識を積むけれども、精神の修養を等閑に付して、心の学問に力を尽くさないから、青年の品性は大いに憂うべきものがある。
 一体現代の青年は、学問を修める目的を誤っておる。論語にも「古の学者はおのれがためにし、今の学者は人のためにす」といって嘆じてあるが、移してもって、今の時代にも当て嵌めることができる。今の青年はただ学問のために、学問をしているのである。初めより確然たる目的なく漠然と学問する結果、実際社会に出てから、われは何の為に学びしやというがごとき疑惑に、襲われる青年が往々にしてある。「学問すれば誰でも皆偉い者になれる」、という一種の迷信のために、自己の境遇生活状態をも顧みないで、分不相応の学問をする結果、後悔するがごときことがあるのである。ゆえに一般の青年は、自己の資力に応じて小学校を卒業すると、それぞれの専門教育に投じて、実務的技術を修むべきである。また高等の教育を受くる者も、まだ中学時代において、将来は如何なる専門学科を修むべきかという、確然たる目的を定むることが必要である。浅簿なる虚栄心のために修学の法を誤らば、これ実に青年の一身を誤るのみならず、国家元氣の衰退を招く基となるのである。

(昭和2年刊『論語と算盤』/渋沢栄一 現代教育の得失 より引用)


 まったく現代に於いても遜色なき文章である。ということは、教育に関して、もちろん例のGHQによる戦後教育云々による影響も確かにあれども、それ以前より、この当時から現代のような問題が既に存在しており、日本人自身が今日までそれらを省み、その根本を改めてこなかった怠慢が大きいのではと?

 そのあたりの事を含め、学校教育に関し、次回、安岡正篤先生の著書から引用して書き記したいと思う。

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)/渋沢 栄一

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