ざっとわかりやすく説明したいと思いますが、あまりにも複雑なため、長くなりそうです。。。
まず、「アラブの春」が2010年12月18日にヂュニジアで起きたジャスミン革命からアフリカやアラブなどに飛び火していったことを覚えておられる方は多いと思います。
それまでの政府に反対するといった民主化運動ですが、これは2005年ぐらいから少しずつ動き始めていました。
この「アラブの春」ですがシリアにも大きく影響を与えました。
シリアの権威主義体制は、1963年のアラブ社会主義バアス党(以下、バアス党)による革命から始まる。
「先代」のハーフィズ・アサドが大統領に就任した1971年までにシリアの支配政党としての地位を固めた。
このアサド親子二代にわたる体制を基礎として、2000年に大統領に就任したアル・アサドは独裁政治を徹底的に行うことになる。
彼は1人でも反体制派がいればそのたびに厳しく弾圧した。
そんなシリアですが、中東地域のなかでも特に多様な宗教や宗派を抱える国の1つであり旧ユーゴスラビアのような国でもありました。
こうした様々な差異を乗り越えるためにバアス党が掲げたイデオロギーが、アラブ・ナショナリズム(アラブ民族主義)。
これに対して快く思っていない国がありました。これについては、終わりの方で説明します。
さて、シリアでの話に戻りますが、このような政府体制を快く思わない多くの人々が3月23日に南部の都市ダルアで民主化デモを行いました。
この時は、こんにちで見られるような武器を使った争いではなく「非暴力」的なデモでした。
そして4月15日には首都のダマスカスでも、アサド政権の打倒を叫ぶ声が高まり、抗議デモの側にも治安部隊や政権支持者に対する暴力の行使が見られるようになった。
その結果、国軍・治安部隊と反体制武装勢力との暴力の応酬が始まり、「血のラマダーン」と呼ばれた8月には激しい弾圧が敢行された。
現在、シリア正規軍はもちろん秘密警察や諜報機関など総力を挙げたデモ徹底弾圧を行い、非武装の市民 特に女性や子供、老人に対して戦車や重火器、武装ヘリ、爆撃機また狙撃兵を用い攻撃。
国連や欧米諸国、アラブ連盟加盟国はアサド大統領に対して即ちに市民への攻撃を中止するよう再三勧告していますが、アサドはこれをことごとく無視しました。
国連安保理でアサドの退陣と市民弾圧中止命令を決議しようとしましたが、常任理事国であり、シリアと友好関係にあるロシアと中国が拒否権を行使しました。
なぜ、こういうことになったのか????
アサド政権についているところは
イラン、レバノンのヒズボラ武装組織、ロシア、中国
反政府勢力についているところは
欧米諸国、イスラエル、アラブ連盟加盟国
このグループを見て気づくことはないでしょうか???
反米国家と親米国家です。
シリアは中東地域を舞台とした国際政治の覇権争いの要に位置しているため
反米国家と親米国家による「代理戦争」といえます。
1978年、エジプトはイスラエルとのキャンプ・デーヴィッド合意を結んでいます。
その一方で、1979年、イランはイラン・イスラーム革命を成就させ、それまでの親米・新イスラエルという考えを反米・反イスラエルという考えに。
その結果、イスラエルとの戦争状態にあったシリアは、エジプトに代わる新たな同盟者として、イランへと接近。
つまり、エジプトを中心としたアラブ諸国がイスラエルに対峙する構図から、イランとシリアの戦略的同盟関係がイスラエルとその最大の支援国であるアメリカの覇権拡大を阻止しようとする構図に変化。
イラン・イラク戦争(1980~88年) とレバノン戦争(1982~85年)でも、シリアとイランの関係は深まってきたと言われています。
こうした中東地域の対立構図の変化は大国の外交戦略にも強く影響した。
とりわけ、イスラエルとアメリカの覇権拡大を望まないロシアや中国が、イランとともにシリアへの支援を強めた。
レバノンのシーア派イスラーム主義組織「ヒズボラ「神の党」の意)」 の戦闘員がシリア国内で反体制勢力との戦闘に従事しているが、彼らはイランの仲間である。
そして、サラフィー主義者という過激派が入り込んできたことも、内戦を長引く原因の1つであることも忘れてはならない。
「サラフィー主義」←ここで少しだけでも目を通して頂けると助かります。
そして、今ではISがシリアで勢力を広げ、多くの市民を攻撃したりしています。
最初は、ただの市民による反政府デモだったのが、これを利用した諸国や武装勢力との「戦争」の場所になってしまったのです。
ですので、「内紛」または「内戦」ではなく、本来のシリア国民の願いを無視した「戦争」です。
#シリア #Syria #中東 #戦争