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本日はヤン様の寄稿コラムの日です!

 

戦史を紐解いて規制緩和がもたらす悲劇について思索を巡らすヤン様の才能たるや恐るべし!

 

水島社長よ見よ、これが戦後保守を凌駕する、次世代型保守のエースの姿だ!

 

それではヤン様コラムをどうぞ!

 

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『戦史から考える規制と環境決定論【ヤンの字雷】』

 

 

 

 

 

 

規制緩和について、歴史、戦史から考える

 世の中「規制緩和だ、国家戦略特区だ、自由貿易だ」とやかましいことこの上ない最近の20年。歴史好きの私としては何をどう考えたってバカバカしい話としか感じないのですが、なぜバカバカしいと感じるか?という理由を今日は解説差し上げたいと思います。

 戦史、歴史という観点からの解説になりますが、それを通しまして歴史とはいかに示唆と教訓に富んだものであるか?なんてことを、少しでもお伝えできたら嬉しい限りです。

クラウゼヴィッツの見た中世から近代の戦争

 クラウゼヴィッツといえば泣く子も黙る、近代戦争の考察の第一人者であり、民主主義といえばトクヴィル!というのと同じくらいの大古典であります。戦争を語るのにクラウゼヴィッツを知らなけりゃ、モグリといわれても仕方ないのです(!!)

 そのクラウゼヴィッツの未完の大著、戦争論の解説書を十数年前に読んだことがあります。

※クラウゼヴィッツの戦争論そのものは、言い回しが非常にまどろっこしく難解で、はっきりいいますが難しすぎます(笑)興味がお有りでしたら解説書を読むのをおすすめします(笑)

 

 さてこの戦争論。ある意味でトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」と同じような感じでして、最初は戦争の歴史の考察、そして実際の戦争に必要なこと、さらには外交(政治)と戦争の関係まで考察が及ぶ大著ですが、本日は「規制緩和とかの新自由主義的政策」についての「戦史」なので、戦争論のご紹介はここまで(笑)焦点を絞りましょう。

 

 クラウゼヴィッツはプロセイン王国の軍人で、かのナポレオン戦争にも参加していたそうです。つまりは近世から近代に移り変わる時期に軍人をしていた人間ともいえます。(時代区分については諸説あるので、脇に置きます。近世は一般的に馴染みがないので、以下中世と表現します。解説本ではそう表現されていたような(笑))

 

 さて中世、近世といえば近代以前、つまりは絶対王政や封建制の時代でございます。基本的に貴族が幅を利かせておりまして、当然ながら貴族同士の戦争が起きます。

 クラウゼヴィッツはこの時代の戦争を「制限戦争」と呼んでいました。貴族同士の一騎打ち、生け捕りにした貴族は身代金で返却するなどの「諸々のルール」が戦争にあった時代です。

※もっとも異なる宗教の戦争などはこの限りではありませんが。

 

 つまり戦争が規制されていた時代といえるでしょう。

 

 そしてクラウゼヴィッツは近代に入ってからの戦争を「無制限戦争、総力戦になるだろう」と予言しておりました。この予言は見事に第一次世界大戦、第二次世界大戦で当たったわけです。

 つまり戦争が「過激に規制緩和されてしまった」のです。その原因は何か?グローバリズムでございますよ(!!)

 結果として制限戦争よりも多くの命が、技術進歩の影響もありますが失われることになりました。

※技術的な規模は違いますが、例えば十字軍などの宗教戦争は無制限戦争に近く、そしてたびたび悲惨な結末を多くの人にもたらしました。

 

 そしてさらに(!)驚くべきことにクラウゼヴィッツは、総力戦に対してのゲリラ戦まで予言していたのです。ベトナム戦争がその諸端ですし、さらにはISISなどの”テロ”もこれに分類されます。

※ISISは地域平定し始めた時点で、負ける戦であったのかもしれません。

 

 さて中世の「制限戦争」、近代の「総力戦」、現代の「ゲリラ戦」で何か思い当たりませんか?そうなんです(!)(まっとうな)保守の勢力図と見事にリンクしている気がするのです。

 中世はそもそも「制限戦争」「規制緩めない」だったので保守もリベラルもなかった。近代の総力戦時代、第一次グローバリズムに入ってコールリッジ、エドマンド・バークなどの傑物を生み出して思想戦(総力戦)をし、そして現在は保守はゲリラ戦をせざるを得なくなっている。

 ゲリラ戦とは強権的な戦争ではなく、自主的な戦争といえますので、つまりはレジスタンス化した賛同者(庶民。大衆ではない)が割といる状況というわけです。

 

 クラウゼヴィッツの戦争論のこの予言は、戦争の観点から「近代化」という「文明の過剰(コールリッジいわく。※1)」を捉えたもの、といえます。

 そして文化を大事にする保守というのは「近代化、文明化、合理化、効率化、進歩的概念の敵」であるとするならば、真の保守が総力戦を経てゲリラ戦へ移行するというのは、不思議な事ではありません。

 そしてその戦いに「高尚な思想家」だけではなく、いまや庶民も加わっている。アメリカのウォール街を占拠せよなどの運動、イギリスのブレグジット、アメリカのトランプなどはその現象の1つでしょう。

 

 制限戦争から総力戦へと「規制緩和」した「近代文明的グローバリズム」は「良いものなのか?」と、それが我々に問われていることなのです。

※1 文明と文化を「異なるもの」と最初にしたのがコールリッジといわれています。文明とは「効率的、合理的、平等的」などの進歩的概念、対して文化とは「非合理的に見える慣習や習俗、常識や伝統」というわけです。

環境決定論的な日本の戦国時代

 日本でも戦国時代とか応仁の乱に端を発する時代があります。かなり長い論考にここまででなっているので端折っていきましょう。

 室町幕府はなぜ、前半にあれだけ安定した統治が出来たにも関わらず、後半に入ってあれだけ乱れたのか?という問に一つの回答を示すのが「気象条件」です。

 つまりはあの時代は小氷河期に入って、稲作の収穫量が減少し、従って領主は領民のために他の領土を我が物にせざるを得なかったというわけです。

 

 このように「環境によってアイディンティティが変わること」を「環境決定論」といいます。グローバリズムでルサンチマンが渦巻くのも、各国の政治が稚拙になるのも、私は経路依存性と環境決定論で説明がつくのではないか?と思います。

 

 では他領土を奪いに行くとはすなわち「グローバリズム(大域主義)」です。中国の南沙諸島、アメリカのTPPや米韓FTAなどもこれで説明が可能です。

 しかし(!)グローバリズム自体がアメリカの1970年台からの戦略であり、つまりグローバリズムな環境とはアメリカが生み出した産物です。

 戦国時代の「気象条件の変化」などという「どうしようもないもの」ではありませんでした。

 

 クラウゼヴィッツのところで見たように、「戦争すら規制緩和するとえらいことになる」のに、そして「戦争とは政治の延長である(クラウゼヴィッツ)」とするならば、政治で過激な規制緩和や自由貿易をしたらえらいことになるのは明白でしょう。

 

 もしも人の本能が動物と同じく争うことであるとするならば、それを止めることが出来るのは人の”理性”と”叡智”なのです。

 そして理性や叡智は「文化」「伝統」「常識」と呼ばれる、人の「知恵」を受け止めるものです。

 ところがグローバリズム・新自由主義は文化、伝統、常識、慣習を次々に破壊していきます。

 

 とするならば(!)

 大変に当たり前の結論で申し訳がないのですが、こうなります。

 

「グローバリズム・新自由主義や闇雲な規制緩和・構造改革をすすめる奴らは”知識人の皮をかぶった野蛮人”である!」

 

(了)

 

 

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