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本日はソウルメイト様の寄稿コラムをお送り致します!

今回は『貨幣が過剰性を生み出しす③前編』~ソウルメイト様の後編となります。

 

ソウルメイト様の最後の〆の文章を読んで気づいたのですが、ソウルメイト様が善悪を超えて、人そのものが好きであるからこその気持ちが行間ににじみ出ているがゆえに、ソウルメイト様のご高察はいつ拝読しても気持ちいいんだなと。

 

それでは皆様もじっくりとご覧くださいませ!

 

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『貨幣が過剰性を生み出しす③後編』~ソウルメイト様

 

 

経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ (講談社現代新書) 経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ (講談社現代新書)

 

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こう考えれば、「欲望」は「過剰性」によって生み出される。そしてひとたび「欲望」が生み出されれば、財貨は「希少」になる。相互模倣の「社会的財」を求める欲望が強まれば強まるほど財貨は「希少」となる。貴重品はますます貴重なものとなる。

あらかじめ財宝やきらびやかな衣装や豪邸やらに対する欲望があって、そこに希少なものとしての貴重品があるのではなく、地位や名誉や虚栄といった相互模倣の社会的価値が形成され、それが「貴重なもの」を生み出すのだ。ここに「希少性」の概念が生まれる。「希少性」は、「過剰性の原理」のなかでこそ生み出されているのだ。

しかもそうなると、相互の欲望が競合するこの希少な財貨を手にするには多額の「貨幣」が必要となるだろう。「貨幣」こそが、ジンメルのいう「距離」を測るものとなる。欲望は、それを手にするのに障害があるからこそ発生するのであり、この障害、つまり「距離」が大きければ大きいほど欲望は大きくなる。だからこそ、上層階級の贅沢品といった階層的シンボルは、この「距離」が意識されればされるほど、大きな価値を持つことになるのである。

と同時にまた、実は「貨幣」こそがこの「距離」を生み出すことに注意してもらいたい。

貨幣を手に入れなければほしいものは手に入らない。したがって、模倣的な欲望によって他者と同様のものを手に入れたいのなら、より多くの貨幣を手にしなければならない。かくて「貨幣」こそが、自分と対象との間の「距離」を生み出す。

いいかえれば、「貨幣」こそが「欲望」を作り出すといってもよい。「距離」の大きさは「貨幣」によって測定されるとすれば、より多くの貨幣を必要とする対象ほど「距離」が大きくなるだろう。同時に「欲望」もより強度になるだろう。そして結果としてここに「希少性」がもたらされるのだ。

かくて資本主義の動因の一つのカラクリが明らかとなるだろう。

それを改めて述べておこう。

まず人間の象徴作用のなかから「過剰性」が生み出される。すなわち「ポトラッチの原理」である。それが「模倣的競争」を生む。「模倣的競争」はいっそうの「貨幣」を必要とする。「貨幣」によって距離ができると「希少性」が生み出される。すると、貴重なものはますます「希少」となり価値が高まる。かくて「欲望」は膨らむ。この「欲望」を満たすために、よりいっそうの「貨幣」が必要になる。そして「貨幣」=「所得」を生み出すために生産が拡張される。かくて人は経済成長へと強制される。

ここでわれわれは一つの重要な結論に達することになろう。それを次のようにいっておこう。

「過剰性の原理」と「希少性の原理」は対立するものではない。そうではなく「過剰性の原理」が「希少性の原理」をもたらすのである。

また、経済の拡張をもたらすものは、無限の欲望を満たすために希少な資源を使って生産を拡張する点にあるのではなく、「過剰性」の処理のなかからもたらされる。

貨幣は「ゼロ・シンボル」としてもっとも「過剰なるもの」であった。その「過剰性」が、欲望を生み出し、それが「希少性」を生み出すのだ。

そこで、自給自足ではなく、商品交換の経済において、生活の必要物資の調達も市場経済の原理に委ねられる時、ここに「希少性の原理」持ち込まれる。市場原理という一点において、必要物資に対する「欲求(necessity)」と「欲望(desire
)」の区別はもはや意味を持たなくなってしまうだろう。経済成長のなかでは「贅沢品」もいつのまにか標準的なありふれた「必需品」として標準化されていくのだ。贅沢で高価なブランドものも、いつのまにか標準的なありふれた必需品になってしまうのである。

こうしてすべてが市場経済という「希少性の原理」の統率のもとに置かれ、画一化されてゆく。あらゆる財貨が同じように市場という巨大な平面に並べられてゆく。

かくて表面的に見れば、資源の希少性こそが市場経済に与えられた条件であるかに見えるのだが、この市場経済の希少性をもらすものは、実のところは貨幣に示される「過剰性の原理」であることを忘れてはならない。

さてところが、ここに「過剰性の原理」がもたらすもうひとつの大きな問題が発生する。

もしも「欲望」が、その対象の入手困難さ、すなわち「距離」によって生み出されるものだとすれば、人はそれを手に入れるためにまずは「貨幣」を確保しなければならない。ここに貨幣を貸借する市場が出現する。金融市場である。

だがその貸し出される貨幣はどこから生み出されるのか。それは「節約」によってである。

では、節約という理念はどこからでてくるのか。近代社会では、「ハウ」のような霊力にかわって、ウェーバーが述べたように、カルヴァン派のような絶対的ではかり知れない神が登場する。その意志をおしはかるための世俗内的禁欲がやがては合理的な労働と節約をもたらす。

労働の成果は浪費されたり破壊されたりするのではなく、新たな投資のためにとっておかれるのである。禁欲の倫理が媒介となり、ここに「貨幣」という「過剰性」は、「節約」の手段となる。「貨幣」は霊力を持った何かではなく、将来へ備える合理的で倫理的な正しい行いと見なされるようになる。

「貨幣」の資本への転化とはそういうことであった。「貨幣」は過剰の記号として蕩尽される霊的な富ではなく、近代的合理主義の精神のもとで、いっそう大きな富を生み出す資本へと転化した。「過剰性」がいっそう大きな「過剰性」を生み出すのである。「禁欲」と「節約」が「過剰性」をいっそう膨張させることになる。それを可能とするのが資本であった。

これが資本主義と呼ばれるシステムの本質なのである。

ところが、「過剰性としての貨幣」の論理をつきつめてゆけば、「過剰性の拡張」はまったく新たな局面を生み出すことになる。

「過剰性としての貨幣」とはもともと具体的なモノのような有用性へは対応していない。その意味でそれは「浮遊する記号」であった。だからそれは最終的にモノへは還元されず、決して「有用性の原理」へと送り返されることなく、直接によりいっそうの「過剰性」へとつなげられたのであった。その極端な姿が「投機」である。金融市場の発達がそれを可能とするのだ。

したがって次のようにいうことができよう。金融市場とは「過剰性」が相互に交換される世界である。貨幣という「意味内容を持たない記号」は、様々な証券や金融商品やデリバティブというこれまた「意味内容を持たない記号」を生み出し、この象徴作用はさらにシンボルを分裂させ、有用性の原理をいっさい介することなく、現代の錬金術を可能としたのだ。

かくて、本来は「禁欲」と「節約」の精神が支配するなかに、投機という純粋に利得目的の刹那的快楽主義が持ち込まれることになる。合理的な「禁欲」は、巨額の資金の瞬時の「蕩尽」さえ招きかねない一種のギャンブルへと転化するのである。金融市場の錬金術は、まったく新たな「過剰性の処理=無限増大」の原理を生み出したのだ。

ここでは「過剰性」はさらなる「過剰性」を追求し、自己増殖を目的とする。かくて未開社会のポトラッチの「ハウ」や「マナ」は、変形されて、現代の金融市場の投機的バブルへと行き着いた。現代の金融市場とは、未開社会のように「過剰性」が蕩尽もされず、また成長へもまわらず、自己自身を持てあましている断末魔の姿といっても過言ではないであろう。──


人間はその内面に“過剰なるもの”を生み出してしまうエネルギーと衝動を内在させているがゆえに、“過剰性”は不可避的に生みだされてしまう、という佐伯教授のご考察は、深くて強力な説得力をもつ、とわたしは思います。

人間は、社会性を生得的に強く備えていますが、社会性や集団性だけをいうのであれば、ミツバチやアリだってそうでしょうし、サルやチンパンジー、狼などにも社会性や集団性というものは強く宿っているでしょう。しかし、これらの動物が宗教や芸術、貨幣のようなものを生み出した、という例はないようです。

人間だけが、高度な文化、芸術、宗教などを生み出しましたが、そういうものは、必ずしも生存に必須なものかというとそうではなく、その意味で「過剰なもの」といいうるものでしょう。そのことと、人間だけが高度な言語を用いることと無関係ではないと思います。 

人間が、外的世界においてピラミッドや教会や寺院といった壮大な建造物を生み出すとともに、内面において複雑で高度な観念体系を生み出してきたことと高度な言語を操ることには密接な関係があると思いますし、言語と貨幣との間にも非常に似通った、近接した機能や働き、意味の連関を見ることができると思います。この分野は、汲めども尽きぬ示唆や洞察の宝庫なんだろうと思います。ぜひ、読者のみなさまにおかれましても、この分野の参究に加わることをおすすめしたいと思います。

そして、経済活動──交換などの取引や何か価値あるものを産み出そうとする行為は優れて人間的な行為であって、それは、単純に欠如や不足を満たすということに尽きるものではなく、もっと深くて高度な意味に満ちた豊穣なものを生み出すものであると思います。経済学というものを、そういう人間にかかわる多様で多元的や知見の光によって逆照射するることによって、よりいっそう本質的な姿を浮かび上がらせることができるのではないかとも思います。

 

 

(了)

 

   

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