ソウルメイトの思想 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

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本日はソウルメイト様のコメント集「ソウルメイトの思想」をお送り致します!
今回はどのような思想に触れることができるのか?

皆様もごゆるりと楽しんでくださいませ!




【ソウルメイトの思想】

『難民受入こそ非人道的』~みぬさ様
http://ameblo.jp/minusa-yorikazu/entry-12076715561.html

>「ユダヤ人を見なさい!祖国を失ってから二千年後にイスラエルを建国したではありませんか?百年経とうがシリア人はシリアに帰って頂くように支援するのが本物の人道支援なのです」

まさしく、その通りだと思います。

岡田英弘さんの中国人論によると、そもそも、「中国人」と総称できるような人間の集団が存在するのか、はなはだ疑問で、今日、中国と呼称する地域に存在する人たちというのは、優れて個人主義的で、同胞という観念を持たないそうで、血族以外は、足を引っ張り、蹴落としあう対象で、民族的な団結力に欠けるんだそうで、ハイエクやフリードマンの想定する人間観にもっとも合致するのは、あの人びとなのかもしれませんね。

ユダヤ人には、帰属すべき民族的アイデンティティがあるけれど、いわゆる「中国人」にはそれがない、ということなんでしょう。それはさておき…

普通の感覚を持った人であれば、自分な生まれ育った場所でつつがなく暮らしたいと思うでしょうし、経済的理由なんかで他国に移民せざるを得なかったら人でも、多少金なたまれば、祖国に戻りたいと思うものなんでしょうね。

日建の移民の一世の方たちなんかほとんどみんなそうだったようで、移民しなかった日本人以上に日本人のスピリットを保つ方がたくさんおられたようですね。

内戦や革命でその地域における統治主体が消滅して生命や安全を保つことができなくなった人たちを難民として一時的に保護することは、人道的にやらなくて済むわけにもいかないと思いますが、それでも、安価の労働力をという産業界のさもしい要望に応えてなんてのは、論外だと思います。

だいたい、あの地域に混乱と破壊をもたらしたことに責任があるのは、欧米諸国でしょうから、彼らがなんとかすべきだと思いますね。



『消費税の無い国』~みぬさ様
http://ameblo.jp/minusa-yorikazu/entry-12074469656.html

実に優れた考察だと思います。アメリカなるものの行動原理を快刀乱麻の明晰さでもって解き明かしていると思います。そして、それはそのままあらゆる国家において繁栄を享受したいと思うなら、なすべきこと、なすべきでないことをも明確にしていると思います。「財政赤字など知ったことか!とにかく、税金を巻き上げるな」これだけでも、経済は成長し、発展する可能性がきわめて高いんでしょうね。本当の“骨太の”というのは、こういう考え方を言うんでしょうね。



『VWと福山雅治』~みぬさ様
http://ameblo.jp/minusa-yorikazu/entry-12078678572.html


三橋さんも書いておられましたが、ドイツが窮地に陥った場合、たちまちネオナチを含む民族主義およびナショナリズムの主張を前面に掲げる勢力が急速に台頭してくるんじゃないでしょうかね?

まあ、民族というものの生態を考えた場合、それが正常な反応なんでしょうね。だいたい、まともな国民国家であれぱ、そうでないほうがおかしいでしょう。

トッドが主張するようにドイツ国民は、産業界、金融界を牛耳るきわめて強欲で利己的なエリートに巧妙に騙され、操作されているんじゃないかと思います。

かつて、日本人は、「エコノミック・アニマル」と揶揄され批判されましたが、今や「ドイツ人をみろ!あれだけ輸出しまくっていて、少しでもドイツ人の暮らし向きがよくなったか?働きバチだか働きアリだか知らんが、日本人に限ったことじゃないだろう!」と言ってやる番だと思いますね。

新自由主義およびグローバリズムの実践は必ず少数者への富の集中と一般国民の貧困化と国民経済の衰退をもたらすということがいよいよいあきらかとなってきたわけで、外ならぬ日本において、いかにすれば反転攻勢が可能なのか知力の限りを尽くして取り組むべき時にたち至っているんでしょうね。



『今すぐ始められる落選運動!』~ニャゴシャ様
http://ameblo.jp/trefle11216/entry-12077075496.html

安倍首相は「日本の成長を長年に渡って阻んできた岩盤のような規制をぶち破ることにより」経済成長と繁栄を取り戻すとかとも言っていましたが、日本の長期低落傾向が始まったのは、橋本龍太郎政権の緊縮財政路線からで、小泉、安倍政権のもとで加速されてきたことは、経済統計等から明らかで、公的支出が足りないだけの単純な話だと思いますけどね。

どうしたらいいかなんて足りない頭で考える必要すらなくて、積極的に財政支出すればいいだけのことでしょう。まあ、安倍政権のもとで日本経済が復活するなんてことは、ほぼ絶対に有り得ないと思いますな。



『ヤバい経営学』~カツトシ様
http://ameblo.jp/kattann2525/entry-12078221399.html

因果関係の誤認もしくは、錯誤というのは、人間の合理的思考に突きつけられた鋭い刃なんでしょうね。

現代科学は、合理的思考の最たるものだと思いますが、現代科学がもっぱら依拠する手法は、本来、複雑で多元的な現実世界の現象を要素に分解、還元し、それを再構成すれば、もとの現実とまったく同じものを再現できる、ということを信憑することによって成立しているのだろうと思いますが、人間の認識能力や知性には限界がありますから、現実のことごとくを遺漏なく認識し、把握し尽くすことが果たして人間に可能であるかどうかについて重大な疑問が存在するといわなければならないのだろうと思います。

そして、自分の知性に過度の自信を持つ者ほど、自分がいかに限られた認識能力や知性しか持っていないのかについて謙虚であることが難しいんでしょうね

思い上がったビジネス・エリート気取りのやつほど肝心なことがな~んにもわかってないのにわかったつもりになる、なんてのは、よくあることだと思います。

ビジネス・エリートや経営本の愛読者ほど新自由主義にやられやすいのは、そのせいなのかもしれませんね。



『「歴史とは何か」岡田英弘著作集より・後編~「国民国家」』~平松禎史様
http://ameblo.jp/tadashi-hiramatz/page-3.html

国民国家の成り立ちが戦争のためという一面があっにしろ、それだけにとどまるものでもなかったと思います。

国民国家というものには、その発生の起源がなんであれ、国家は、国民と見なすものを保護し、能う限りの力でもってその生存条件と生活条件の向上、改善につとめなければならない、というような理念が付加されてきたのではないでしょうか?

中世ヨーロッパにおける王制にしろ封建制にしろ、領民の私物化であったろうと思いますし、民というのは、支配され、収奪される対象ではあっても、支配層がその生存条件をより良いものにしたり、豊かにしようと思うような対象ではなかったでしょう。

国家は国民の生存と安全、生活条件の改良に尽力すべし、という観念は、国民国家においてはじめて正当なものとして受け入れるものとなったのではないでしょうか?

また、国民国家というものも、しょせんは人間が考案したもので、人間は、かならずしも国民国家を営まねばならないというアプリオリな法則があるわけではありませんが、国民国家を営んだほうがそうでないよりもより多くの繁栄と利益を享受できる、ということは、歴史的に検証済みの事実といえるのではないでしょうか?

三橋貴明さんや中野剛志さんに代表されるような国家が国民の生存や幸福の増進のためにできることはたくさんあり、それゆえにTPPのような国家主権を自ら放棄するような国際条約を結んではならない、というような主権も国民国家の意義と理念から導かれるのではないでしょうか?

そもそも、人類は、国民国家に替わりうるような現実的妥当性と有効性を備えた統治システムをいまのところ見いだししてはいないのではないでしょうか?

岡田英弘さんの「厄介な隣人、中国人」なんかを拝読しますと、中国人というのは、頼れる者は自分だけ、場合によっては、配偶者すら信じられない、というような人間観を抜き難く持っているんだそうですね。

司馬遼太郎さんなんかは、「中国の歴代王朝というのは、民にとって盗賊に等しいもので、民を益するということがなかった」なんてことを書いておられましたが、日本でも藤原摂関政治なんてのは、多分にそうで、しかし、たいていのまともな戦国大名なんかは、領民の面倒をきちんと見たようですね。

だいたい、鎌倉以来、武士と農民なんてのは、同根でしたでしょうし、長州藩や上杉家のように大幅な領地削減のために武士をやめて帰農せざるをえなかった人たちの意識は、「自分は今でこそ百姓だが、もとは武士だ」というものだったでしょうし、それが幕末、庶民によって構成された長州の奇兵隊をはじめとする諸隊の人的資源となったのだろうと思います。

べつに長州藩は「国民国家」ではありませんでしたが、長州藩の庶民の中には、お家の危急存亡にあたってその一身を挺してお役にたとうという人たちがいたわけで、のちの明治以後の日本国民の原型となった、といっていいと思います。

支配階級だけでなく、被支配階級にある者たちですらそういう意識が持てた日本人と中国人の差はことのほか大きいと言えるんじゃないでしょうかね?


歴史的考察に基づいて日本人を観た場合、支配階級と被支配階級が強固な身分制によって断絶していなかったことを挙げることができるのではないでしょうか?

そもそも日本において絶対王制のごときものはなかったと言っていいと思いますし、貴族制=アリストクラシーなんてのも源頼朝の鎌倉幕府の成立で早々に崩れてしまいましたからね。

で、その鎌倉幕府の御家人というのは何かというと、要するに開拓農民でありその代表者みたいなものだったわけでしょう?農民と武士なんてのは、もともとは同根で支配階級と被支配階級を画然と分離して固定してしまうなんてことはほぼなくて、武士と農民その他の庶民とは相互に替わりうるものだったと思います。

なにしろ、豊臣秀吉は、農民の出自ですし、阿波の大名に成り上がった蜂須賀家なんてのも似たようなものでしょう。

江戸幕府の大名の出自を問えば、そんなのはいくらでもいたと思いますし、その家臣の侍たちなら、大半がそうだったかもしれません。

そして、日本において圧倒的多数を占め、生産活動の主要な部分に担った農民の村落共同体を運営する仕方というのは、優れて『民主的』だったと思います。

日本人は、西洋人に教えてもらったから、民主主義を知ったのではなく、日本人の長い歴史と伝統の営みの中で自然と体得し、実践していたのが、「民主的」な合議であるとか、衆議を尽くすこと、そして、共同体の総意として定められたルールには、金のあるやつ、力のあるやつも自ら率先してこれを守るとということだったと思います。

日本人の民主主義や政治への参加は、明治以後に始まったものではなく、もっとずっと古くから実践されてきたものだと思います。

日本人における国民国家とは何かについて考え、言及する場合、これらのことは、とりわけ考慮に入れる必要があるのではないでしょうか。

「お天道様の下では、身分の上下はない」というような感覚は、日本人にごく自然と共有されていたのではないでしょうか。

また、戦国時代に加賀の国では、国人、地侍、百姓たちが一丸となって守護大を追い出して、「加賀一国は、百姓の持ちたる国」となっていたそうですが、「百姓の持ちたる国」に現代の日本人の国民国家の原型を見ることができる、と言っても言い過ぎではないのではないかと思いますが、いかがなものでしょうか。

(了)




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