私、渡部陽一が戦場カメラマンになったきっかけをお伝えいたします。 「戦場報道とは生きて帰ること」日々取材を敢行するうえで、この言葉を何度も唱え自らを戒めています。 戦場という危険な場所になぜカメラを抱え飛び込んでいくのか、ジャーナリストとして現地報道することにいかなる使命があるのか。戦場カメラマンとして世界中を飛び回るに至った経緯、取材先での体験などを記させていただきました。 戦場カメラマンとして現場に立つ想いが伝われば幸いです。 その他戦場カメラマンとしてのスタンスなどは、「戦場カメラマンを続ける理由」をご覧下さい。 「最初はただピグミー族に会いたかった。」 大学一年生の折、生物学の講義でいまだ狩猟生活をおくる人たちがアフリカ中央部にいることを知りました。 その部族はピグミー族(ムブティ族)と呼ばれ、平均身長150cmほどの小柄な人達で、上半身裸、弓矢や槍を持ちワニやサルを捕りながら生活をしているということでした。想像を越えるピグミーの話に強烈に引き込まれました。 自分自身でピグミー族に会って話をしてみよう、この目で彼らの存在を確かめてみたい、早速気の赴くままにアフリカへ向かう準備を始めました。そこには取材者という気概は無く、旅行者としてピグミー族のもとへ出向くつもりでした。 もちろんカメラマンとしての経験、技量はゼロ、全くの素人そのものでの出発です。当時、戦場カメラマンになろうという思いは脳裏にはありません。ただカメラで撮影することには興味があり、家族や友人を被写体にすることが時折ある程度でした。 「ヒッチハイクでジャングル横断。」 パスポートを取得し、アルバイトで貯めたお金を持ってアフリカのザイール(現在のコンゴ民主共和国)のジャングルへ飛び込んでいきました。当時は外国を旅することも手探りの状態であり、ましてジャングルで生きのびるための技術はありません。無知の功罪、まさにその言葉通りで、無謀極まる旅であったと思います。 ピグミー族の住む地域に辿り着くまでは、ジャングルの中で約2ヶ月の行程をかけなければならず、徒歩、カヌー、そしてジャングルを抜けるトラックにヒッチハイクさせてもらいながら、ピグミー族が住む森を目指して奥へ奥へと入り込んでいきました。 ジャングルの中は高さ20m以上の大木が生い茂っていて、太陽の光が足下に届かないほどに木々が覆いかぶさっていました。そこでは方角もわからなくなり、食糧も水も尽きてしまいました。すぐにジャングルを一人で越えていくことは自殺行為そのものであると気がつきます。それ故、偶然出くわしたトラックに乗せてもらいながらジャングルを横断していきます。「ピグミー族に会うために日本からやってきました。彼らの住む森まで乗せていただけないでしょうか?」運転手は笑顔で僕をピックアップしてくれました。 トラックには運転手とナビゲーター、さらに彼らの家族、途中まで同行する現地の若い男女が乗っていました。日本でいうダンプカーのようなドイツ製のトラックで、荷台にはたくさんの塩魚が積まれていました。そのトラックに乗りこんで約二ヶ月、彼らと共同生活をしながら旅を続けました。日中にトラックで移動して、夜はジャングルの中で野宿する日々、ジャングルの路は舗装などされているはずもなく、ぬかるみと巨大なクレーターのような穴が至る所にあいていて、トラックの進むスピードは歩いた方が早い程度のものでした。あまりにも進みが遅いので、先のことはいっさい考えないようにして日々の苦しみを乗りきりました。そして何の前ぶりも無く、ある事件に遭遇します。 「突然の銃撃。-少年ゲリラとの遭遇」 トラックが突き進む前方の森の中から、突然十数人の少年たちが現れました。目を凝らしてみると少年たちはAK-47カラシニコフという銃をかかえています。さらに槍や鉈をもっていて裸の上半身には帯状の弾倉の弾を何重にも巻き付けて、こちらに向かって怒声をあげていました。 トラックの運転手が「伏せろ!」と叫んだ瞬間、少年たちが突然、銃を乱射してきました。トラックに銃弾が何発もあたり、耳元を金属音が飛び交っていく。少年たちが銃を撃ちながらこちらに向かってくることに震え上がりました。その瞬間、死の恐怖に襲われトラックから転げ落ち、そのまま失禁、赤ん坊のよう地べたを這いずりながら、トラックの後部へ無意識のうちに逃げようとしていました。ただ体が恐怖で動かず、逃げることができない。少年たちがこちらに無表情のまま近づいてきました。 彼らは少年ゲリラ兵。1993年当時、ツチ族・フツ族の衝突によるルワンダ内戦がアフリカ中東部のブルンジ、ザイールを巻き込んで拡大していました。ジェノサイドと呼ばれる民族大量虐殺が発生、100万人以上の民間人が犠牲となり、国連の介入もその効力は皆無に等しいものでした。 アフリカの情勢が激しく動いているその最中、情報も持たずに現場に飛び込んでしまったことでツチ族・フツ族紛争の最前線にかち合ってしまったこと、自らの無知を悔いても既に手遅れでした。 少年兵たちは、私たちを取り囲み銃尻で撲り続けました。立ち上がれないほどに打ちのめされました。トラックの積荷の塩魚は奪われ、自分の荷物・カメラ機材も略奪されました。ただ運が良かったのは、こちらから現金を差し出したことで、殺されずにすんだことでした。命を奪われなかったことは幸運以外のなにものでもありません。 アフリカでの少年ゲリラの蛮行。ここでは連日至極当たり前にこうした事件がおこっていました。日本からかけ離れたアフリカの森の中で理不尽な行いが繰り返されている。恐怖と怒りに震えながら、この状況を伝えることができないか、その方法を模索することとなりました。 「職業としての戦場カメラマン。」 失意の念での帰国、その恐怖と怒りの感覚を引きずる日々が続きました。家族や友人に言葉で少年兵のことを伝えようとしても全く理解されることはありませんでした。あまりにも日本での生活とアフリカでの事件がかけ離れた位置にあり、認識できるほうが逆におかしいという状況でした。 素直に言葉で伝わらないのであれば、好きな写真を使って伝えることはできないか、カメラを手にして現場に赴き、自ら見たものを撮影して写真を持ち帰る、一枚の写真の力で状況を伝えることができるのではと考えました。そして写真の力にすべてをかけてみようと心を決めました。 その後、再びアフリカ、ザイールに戻ります。そこではピグミー族はもちろん、その地で勃発しているルワンダ内戦の状況を写真に押さえていくことに集中しました。病気や怪我の予防、現地での情報収集、同じ過ちを犯さないよう万全の準備を重ねての初取材となりました。 この時から私は戦場カメラマンとして世界を飛びまわることになります。ルワンダ内戦、ユーゴスラビア・コソボ紛争、イラク戦争、アフガニスタン紛争、コロンビア内戦、パレスティナ紛争、スーダンダルフール紛争など学生という立場でありながら、世界中の戦場、情勢が不安定な地域、災害地を飛び回るようになりました。そして写真を新聞社や雑誌社に売り、その資金で再び戦争取材に飛び出していく流れが出来上がってきました。 以上です
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本物か聞いてしまってすみません><
渡辺さん家のお婆ちゃんが大ファンなんです*!
渡辺さん人気だから偽者もいると思って・・・
渡辺さんもアメーバやってるんですね✩!
よろしくおねがいします(。><。)♡゛