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2012-02-13 05:05:13

shin-1さんの日記

テーマ:人間牧場

○見事なダルマの夕日

 よく言えば夕日博士、悪く言えば夕日馬鹿の自称愛称を持つ私ですが、これまた日本一と自認する双海町の夕日でも、誰もが見たいと憧れる夕日はそんなに年中見える訳ではありません。ましてやダルマの夕日となると幾ら注意をしていても、年に数回しかめぐり合うことは出来ないのです。

 一昨日と昨日の2日間、サイコーダイガクが初めて企画したモニターツアーがありました。私は夕方から30分ばかり、食後のお話を頼まれていたので、会場となる潮風ふれあい公園に出かけるべく、少し早めに家を出ました。私が作った2005年版の夕日の時刻表によると、2月11日の日没は17時49分なので、17時45分頃双海町のシンボル本尊山が夕日で赤く染まった姿を背中に感じながら、シーサイド公園の第二駐車場へ車を止め、急いで公園内の道をカメラ片手に階段式護岸へ降りて行きました。


shin-1さんの日記
(美しい双海のダルマの夕日)


 「おっ、間に合った!」と思って見た西の空には、綺麗な夕日が水平線近くまで降りていました。沈み行く夕日を目と手持ちデジカメのファインダーで見ながら、何枚か連写するような形で撮影しました。そのうち水平線に夕日が沈み始めると、まるで天体ショーを見ているように海に夕日の裾が広がってワイングラスのようになり、ダルマの夕日となりました。今は殆んどの人が携帯電話を持ち、その携帯電話にカメラ機能がついているため、「わ~綺麗!という声を連発しながらカメラに収めていました。

 この日は国民の祝日である建国記念日で、休日ということもあって、シーサイド公園は寒い夕暮れ時ながら、沢山の人が夕日を見るため残っていましたが、他人事ながらダルマの夕日をお客さんに見てもらって、少し得意げになっていました。本当はこの夕日を先日磯田昌三さんが愛媛新聞の単眼複眼に、マナガツオ大漁の写真を投書したように、私も送りたいとも思いましたが、心にブレーキがかかってしまいました。


 1年365日、雨嵐の日であろうが天気であろうが地球の自転の悪戯で、天動説による錯覚によって太陽が昇ったり沈んだりしながら、朝を向かえ夜を迎えるのです。夕日が沈む時間は太陽が水平線にかかって完全に見えなくなるまでの時間は、2分1秒と短いものです。その2分1秒を凝視しながら納得しました。

 少し高台にある潮風ふれあい公園でモニターツアーに参加した人も、夕日の鑑賞をしていたようで、皆さんも口々盛んに夕日の美しさを褒め称えていました。この日はサイコーダイガクのメンバーである浜田久男さんが夕日の話をしたようでしたが、ツアー客は夕日を見るのに夢中になっているので、話が耳に届いたかどうか、浜田さん自身も少し不安顔に見えました。

 潮風ふれいあい公園はシーサイド公園に比べ少し奥まった位置にあるため、この時期は最後木々が邪魔をすることがあり、ツアーの指導をしている前田さんのツイッターに写った写真を見せてもらいましたが、ダルマの夕日はシーサイドの方が一枚上だったようでした。

 思わぬダルマの夕日のプレゼントに身も心も染めて、いい一日の終わりとなりました。


  「わあ~綺麗 口々言いつ 西の空 夕日見ながら カメラ収める」

  「滅多には 見えないんだと 説明し 得意げになり 夕日を誉める」

  「ああ今日も いい日だったと 心染め 夕日見送る 明日の朝日に」

  「一度しか 来ないお客が 何故こんな ダルマの夕日 見える幸運?」

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2012-02-12 08:03:43

shin-1さんの日記

テーマ:人間牧場

○落語ならぬ落伍熱演

 昨日はサイコーダイガクの実験事業であるモニターツアーが双海町内で行なわれました。ツアーのプログラムを公開して公募したところ13人の人が応募したそうで、遠くは関東や香川県など県外からの参加もあったようでした。ふたみシーサイド公園へ集合した一行は中型のバスで移動し、下灘駅を「見学したり袋田さんのホダ場でシイタケの菌打ち作業やシイタケ収穫作業を体験したりしたようです。

 夕方になると宿泊する潮風ふれあいの館に会場を移し漁師さんの指導でヒエイという一見グロテスクですが冬に美味しい魚のさばき方などを教わって、鍋物を作ったようです。その途中の午後5時30分頃浜田さんの指導で日本一と自認する夕日の見学会を行ないました。昨日は冬としては珍しい穏やかな天候に恵まれ、高台に位置するふれあい公園から見える夕日も事の外綺麗かったようで、皆さん満足の手合いでした。


 私は夕食準備の最中にふれいの館に到着し、松本さんと簡単な打ち合わせをしてから、これまた簡単な準備をしました。私の役割はツアー客のために落伍をすることを頼まれていたのです。私の落伍は落語ではないため、まあまちづくりの四方山話と言ったところです。

 例によって年輪塾小番頭の松本さんがラジカセで出囃子をかけ、拍子木を打って私を招き入れてくれました。座布団2枚を重ねた高座に座り、お客さんはお世話役も含めて30人程度が畳の植えに座布団を敷いてまさに寄席風の設えです。

 後にめくりを置き、三崎町の塩崎さんから貰った裂き織りのちゃんちゃんこを着て、扇子に日本タオルだけというシンプルな出で立ちです。演目は色々考えていましたが、結局は夕日徒然草のつまみ食いといった感じの話となりました。


shin-1さんの日記
(みんなの前で落伍演じる私)

 ツアー参加者を笑わせながら、双海町の魅力を面白可笑しく反すことは容易なことではありません。じゃこ天の話や菜の花の話も他愛のない話ですが、私の口にかかれば何とやら、まあ何とか役目を終えました。昨日は東越という集落に伝わる民話を話しました。今は離村して集落に住んでいる人もいない東越に本当にあった面白い話です。「東越に亀さんという流行の好きな人が住んでいました。ある日のこと隣の郡中という町に電気が点いて明るくなったという話を耳にしました。何でも丸いガラスの玉を天井から縄で吊るしただけで明るくなるというので、そのガラスの玉を買いに行こうと思い立ち、三秋峠は追いはぎが出るというので、通り穴や離れ山の海沿いにそって歩き、やっとの思いで郡中に着きました。町の中を歩いて格子越しに店の中を見ると、噂どおりどの家も天井から縄のようなもので吊るしたガラスの玉が美しく光り輝いていました。亀さんは店の中に入りご主人に、『あのガラスの玉はなんぼするのか』と訪ねました。店の主人は亀さんの風采が田舎者に見えたのか、電球一個が50円なのに100円だと吹っかけました。それでも亀さんは欲しくて仕方がないので、『90円に負けるのなら買う』と大見得を切りました。主人はそれでも差し引き40円の儲けですから、『仕方がない売りましょう』と笑いを堪えて電球を新聞紙に包んで渡しました。亀さんはいい買い物をしたと大事に懐へ入れて帰りを急ぎましたが、来た道は汐が満ちて通れないため、三秋の山道を帰りました。(途中追いはぎに出会った面白い話は顛末は省略)、亀さんは帰り道すがら灘町の町衆に『これが噂の光る玉』とみせびらかして東越まで帰り、集落のみんなを寄り合いに使うお堂に集め、『エヘン、これが噂の光る玉電球というものだ。私は今日郡中まで行き全財産をはたいて買い求めてきた。これからこの電球を吊り下げるので世紀の一瞬を見させてやる』と豪語したのです。荒縄で縛った電球を天井から吊り下げましたが、『もう点くもう点く』と幾ら待っても点きません。亀さんは再び「電気というものは周りが暗くならないと点かない』と説明をしたものの、回りが暗くなっても一向に点く気配はありませんでした。それを見ていた亀さんの言動を胡散臭いと思っていた鶴さんがやわら立って、「水は高い所から必ず低いところへ流れるものだ。電気も低いところから高い所へ流れるはずがない』と反論し、結局はみんな落胆して帰ってしまいました。恥をかいた亀さん言動も鶴さんの話も今なれば可笑しな話に聞こえるのですが、電気も通っていないのに電球を幾ら天井から荒縄でぶら下げても点くはずはなく、そんな悠長な時代の笑い話として今も語られているのです」。


 私の落伍は40分そこそこで終わりました。時には手持ちの扇子で木になるカバンを叩いて効果音を出し、時には笑いを誘うような下ネタを話いて笑いを誘いました。ツアーというと食べたり飲んだり見たり体験したりしますが、少し知的エネルギーを入れることを忘れてはならないと思い、ツアー客が気がつかない側面を少し後押しさせてもらいました。夜の居酒屋交流会では皆さん他のそおお話だったと一応に好評な反応を示してくれました。今朝は松本さんと冨田さんにお願いして、潮風ふれあいの館から翠小学校まで歩くウォーキングの途中なのでわが家でお接待をしてはどうかとおせっかいをやきました。ポンカンとお菓子だけのささやかな接待でしたが、ツアー客の皆さんとのとても楽しい交流が出来たように思いました。息子家族も交流に参加して同行した三つ子の赤ちゃんも加わり、今日は天気もよくいい雰囲気でした。


  「落語かな いや落伍です 私のは 町の話題を ちりばめながら」

  「落伍ネタ 思いつくまま 笑い取り 客の反応 上々でした」

  「ツアー客 わが家接待 ささやかに 三つ子同伴 孫も浮き浮き」

  「落伍する 奥の深さを 感じつつ 自分流儀を 終始貫く」


2012-02-11 15:36:34

shin-1さんの日記

テーマ:人間牧場

○小学校への出前授業

 一昨日に続いて昨日も地元由並小学校へ出前授業に出かけました。前日は4年生でしたが今回は6年生です。6年生といえばあと2ヶ月ほどで小学校を卒業し中学校へ進学する最上級生なので、担任の中尾先生がどんなことを伝えて欲しいのかを考えながら話そうと思いましたが、結局妙案が浮かばず、とりあえず愛媛大学名誉教授の讃岐幸治先生から、昨年いただいた二宮金次郎の銅像と、大阪梅田の古本屋で買った大学という古書、それに井伏鱒二のジョン万次郎漂流記をカバンにしのばせ、学校へ出かけました。

 私の話は10時30分から始まりました。前日の夜中尾先生が私の家に見えられ、私の生い立ちや半生を年表にしたいので見て欲しいと原案を持って来られました。6年生の教室の黒板にはその年表と世界地図がかけられていました。


 さあ出前授業の始まりです。私は何を思ったのか開口一番、進化論で有名なチャールズ・ダウインの話をしました。「強い者が生き残るのではない。賢い者が生き残るのではない。その時代に適応したものが生き残るのである」という言葉は、学校で勉強が出来たり、力の強い人だけが成功するとは限らないので、自分の能力に自信がなくても頑張れば必ず道は開けると話しました。

 私にとって一番思い出深いことは、私の母校下灘小学校の校庭の隅にあった二宮金次郎の銅像の台座に、小学校2年生の時上がっていたのを、そこを通りかかった校長先生に見つかり、校長室へ連れて行かれて正座のお仕置きをされました。校長先生が私に、「お前は何であんな所へ登ったのか」と聞かれたので、「二宮金次郎が何の本を読んでいるか知りたかった」と答えました。実話はその時校長先生は「馬鹿たれ!、あそこにはいろはにほへとと書いている」と一喝されたのですが、校長先生の名誉のために少し脚色をして、「お前は偉い!」と誉めてもらい、校長先生は二宮金次郎の教えである陰徳、倹約、積善について教えてもらったと話しました。私の人生にとって陰徳、倹約、積善という3つの言葉はその後の人生に大いに役立ちました。


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 もう一つの話はジョン万次郎漂流記の話です。貧乏な家庭に育った私は、本を買えなかったので小学校の図書室で沢山の本を読みました。その本の中にジョン万次郎の生涯という一冊の本があり、私は本が擦り切れるほど何度も何度借りて読み返しました。ジョン万次郎は小さい時漁に出て大時化に遭い、無人島鳥島まで流されましたが、他の4人と共に助け合って生き延び、アメリカの捕鯨船に助けられました。ホイット・フィールド船長に見出されハワイからアメリカ本土に渡って学校に入り勉強をしました。そして鎖国していた江戸末期の日本に帰り、捉えられながらも明治維新で活躍し、咸臨丸で再びアメリカへ渡ったり、日本政府の役人として日本の発展に貢献した人です。

 私が小学校5年生の時、担任だった武智先生が私の誕生日に、新聞紙に包んだ「ジョン万次郎漂流記」という一冊の本を、私にプレゼントしてくれたのです。私はその本を大切にして、自分の人生の生活設計に「30歳になったらアメリカへ行く」という明確な目標を立てました。その結果第10回総理府派遣青年の船で本当に建国200年のアメリカへ、30歳の時行けたのです。


 アメリカで見た世界地図に日本が真ん中になかったことや、夢はドリームではなくターゲットであること、また人間の潜在能力は氷の沈んだ部分のように無限にあるのだから、読む・聞く・見ると同時に、書く・喋る・実践するをことを行なえば、潜在能力が浮かび上がるから頑張るようにと結びました。

 講義が終って子どもから幾つもの質問が出ました。その一つ一つに答えながら自分の過ぎ越し人生を振り返りながら語りましたが、話を聞いてもらった子どもたちの心をいかほど揺さぶることが出来たかは疑問です。でも教壇から見る限り子どもたちの目はとても輝いているように見えました。

 校長室で校長先生と子どもの代表3人を交え、給食を食べながら色々な話をさせてもらい学校を後にしました。


  「前日に 続いて出前 授業する 子どもの心 揺さぶられたか?」

  「中学へ 間もなく入る 六年生 態度しっかり 頼もしきかな」

  「子どもには 大人の言葉 使えない どうすりゃいいの 少々迷う」

  「いい話 だったと子ども 率直に 答えてくれて ホッと一息」


2012-02-10 08:35:45

shin-1さんの日記

テーマ:人間牧場

○マナガツオの大漁

 18歳から25歳までの7年間、漁師をした経験のある私は、回帰意識が蘇るのか海や船を見ると何となく心が安らぎ、浜から大漁の話が届くと一攫千金を夢見た漁師時代を思い出し胸がときめくのです。
 先週の日曜日の朝刊単眼複眼というコーナーに、地元に住む磯田昌三さんが一枚の写真とキャプションを投稿していて、昔の思い出が懐かしく蘇りました。

 私が漁業をしていた頃の下灘は、まだ今ほど漁港の整備されていない古い時代でしたが、漁船は200隻近くいて、通称板漕ぎという漁法の底引き網が盛んに行なわれていました。学問的にはオッタートロールといって網口開口板というベニヤ板一枚程度の板を利用して網口を広げて網を引くのですが、漁業効率が良いことから乱獲を危惧してその後禁止漁具となったのです。しかし効率の良い漁法を身に付けた漁師は、国や県の指導にもかかわらずその後も利用し続けたため大きな社会問題に発展したのです。結局15馬力エンジン、5トン未満漁船での小型底引き網の許可を付与することで一件落着し正常化、現在に至っていますが、この頃が浜は一番活気のあった時代で、皮肉なことに正常化と共に漁村は少しずつ衰退の一途を辿っているのです。


shin-1さんの日記

 私もそんな混乱期に漁師となり、これも皮肉なことに青年団活動と漁師の重労働の板ばさみで体調を崩し、漁師を断念して役場に入り公務員になったのですから、何がどうなっているのか人生は分からないものです。私と同時期に漁師になったのは戎井康晴さんと豊川忠敏さん、それに従兄弟の若松利光さんの3人でしたが、その3人は今も漁師をしていて、若松利光さんは下灘漁業組合長となって活躍しているのです。私もやがては組合長になりたかった夢は従兄弟が引き継いでくれているのです。

 私が漁師をしていた頃は魚も豊富に取れ、、浜に活気があっていわゆる漁業が儲かる時代でした。転職した役場の職員の給料等笑い話のような少なさで、漁師仲間から「お前なんぼもらっとるんぞ」などと笑われたものでした。それでもそのような言葉を私に浴びせた漁師仲間が儲けて蓄財をしている訳でもなく、私のような安月給だった人間が餓死した訳でもないので、世の中は何とかなるものだとしみじみ思うのです。


 私の親父は、先の見えない瀬戸内の漁師の日和見的な生き方に限界を感じ、母親と叔父を乗せて伊豆半島沖まで県外出漁した男です。私もその親父を越えたいと宇和島水産高校に入り愛媛丸で珊瑚海まで遠洋航海に出かけました。しかし親父を越えたいという夢も果たせず母も叔父も既に亡くなり、親父のみが生きているのですが、もう親父を超えることはもう出来ないのです。

 私は漁師時代に何度か大漁で満船の美酒を味わいました。船が沈むほど魚が取れたのです。磯田さんが投稿したマナガツオが船いっぱいに並んだ写真を見てとても懐かしく思いました。先日から数度、下灘の漁師さんからマナガツオのお裾分けが届き、刺身や塩焼き、吸い物等に料理して美味しくいただきながら、若き日を思い出しました。そのマナガツオを食べながら妻が、「お父さん、今度生まれたら漁師になりたい?」と唐突に聞きました。体の体調を崩して初志貫徹できなかった悔しさもあって、心のどこかに「もう一度漁師がしたい」という捨てきれない夢もありますが、多分今度生まれて来た時は漁師をしていないかも知れないとさらりかわしました。

 

2012-02-09 13:45:59

shin-1さんの日記

テーマ:人間牧場

○わが家のネズミ騒動

 ネズミといえばネズミ小僧や夜市で売っているハツカネズミ、ネズミ算、ネズミと猫くらいしか思いつかない、私は古いタイプの人間ですが、この一週間ほどわが家では、夜な夜な出没するネズミで少々過敏なネズミ騒動となっています。元々の発端は息子たちのダイニングでネズミが走るのを、息子嫁が見たというので大騒ぎになりました。息子嫁を気遣った息子は、早速ネズミ除けのセンサー等をホームセンターで買ってきて、コンセントに差し込んだりして予防線を張っていました。その効果があったのかこのところ影を潜めていました。

 ところが一昨日の夜、今度は私たち夫婦の台所に移動して何やらゴソゴソし始めました。ネズミが大嫌いな妻は息子嫁以上に大騒ぎで、息子の力を借りたり、これまでにも効果のあったペタンコという粘着剤シートを買ってきて、置き始めたのです。しかしネズミもさるもの心得たもので、そのペタンコをかい潜り、今度はこともあろうか台所の柱の隅を少しかじり始めたのです。


 今朝は息子と妻がネズミ退治のことで何やら話していましたが、妙案も浮かばず結局ペタンコの数を増やしてそこら辺にやたらと設置しました。ご承知のようにペタンコは、誤って踏みつけると靴下がくっついて取れなくなるため注意をしなければなりません。わが家には只今ネズミ以上にいそしい4歳と2歳の孫がいるので、それはもう大変なのです。

 今日は息子嫁と孫は友人たちとこどもの城へ、妻は仕事へ、私は由並小学校の子どもたちに話すためそれぞれ出かけ、午前中家を留守をしていました。お昼に私と妻が相次いで帰宅しました。妻はネズミがペタンコに捕まっていたら気持ち悪いと、台所へ行くのを拒んでいたので私が行きました。すると台所の向うの居間に置いたペタンコに小さなネズミが一匹ひっかかりもがいていました。しめたとばかりにペタンコを二つ折りにして外へ出ないようにガムテープで止め、外にあるゴミ箱の中へ捨てて一件落着となりました。


 この一匹以外にもネズミは隠れているのかどうかは分かりませんが、とりあえずホッとしたネズミ騒動でした。私たちが子どもころは夜になると天井裏を、忙しく走り回るネズミの音をよく聞いたものです。またネズミ捕りという金網で出来た道具に食べ物を吊り下げ、中に入って食べ物を食べると入り口が閉まり、御用となったネズミを水の中につけて溺死させて処分したりしました。時には猫要らずという毒の入った留剤を置いたり、猫にネズミを取ってもらうことだってあったのです。

 わが家は田舎ゆえ、時には家の中へカエルやコウロギ、ゴキブリが迷い込んでちょっとした騒動になることもあり、ネズミは今までにも何度か侵入し御用にしたこともあるのです。まあそれだけ自然が豊かだと思えばいいのでしょうが、私は別に怖がらないものの、息子嫁と妻はもう大変です。

 これからも、ネズミ騒動は一騒動も二騒動もあるものと思われますが、文明の利器を使って駆除したいと思っています。


  「時ならぬ ネズミ騒動 妻と嫁 眠られないと 言いつつ安眠」

  「ペタンコと センサーつけて ネズミ駆除 間抜けなネズミ 一丁上がり」

  「田舎では よくある話 話題にも ならないネズミ わが家時々」

  「リフォームの 柱かじられ 憤る 息子悔しく 妻は怖くて」

2012-02-08 06:27:44

shin-1さんの日記

テーマ:人間牧場

○振り子の原理

 このところ忙しくて、同じ敷地に住む親父の隠居へは中々足が向きませんでした。昨日の朝、世界遺産白川郷への長い旅を終えて、けだるい疲れを癒すように、ストーブをつけた自分の書斎で、昨日までの資料の整理をしていると、親父が窓際に立って何やら話しかけているのです。窓を開けると「今日は何日か?」と聞くのです。聞けば自分の隠居の壁に貼っているカレンダーの文字が小さ過ぎるので、大きい数字のカレンダーが欲しいらしいのです。前日息子が私の書斎にある大きな日めぐりカレンダーを持って行ったようですが、これは大き過ぎるし日めぐりはめくるのを忘れるから使い勝手が悪いというのです。そこで私が今年の正月から使っているカレンダーを持って行くと安心したようでした。

 親父の掘り炬燵に足を入れ、久しぶりに親子水入らずで少し長話をしました。親父は最近体力の衰えや、足腰の不具合を口にするようになりました。自転車に乗るのももう限界だとか、毎日訪れる人も少なく少し寂しいようでした。家族には出来るだけ親父の隠居へのぞくように頼んでいますが、頼んだ張本人の私がこのようにのぞけないのではいけないと、深く反省しました。


 歳をとるとトイレが近くなるようで、一昨晩は少し間に合わなかったと述懐しました。昨年末96歳で亡くなった妹の義理のお父さんが使い残したパンパースを、妹がかなり沢山持って来てくれたようですが、使い方も分からず多少恥ずかしい気持ちもあって人にも聞けなかったようですが、昨日は恥ずかしながら息子の嫁に使い方を教えてもらい、使ったため安心して眠れたようです。

 少しからだの不具合が生じると、一人暮らしの寂しさがこみ上げてくるのか、「わしも歳だし、わしの仲間もみんな死んでしまって寂しい。施設にでも入ろうか」などと、昨日はいつになく弱音を吐きましたが、「じいちゃん、施設へ入ったらこの家には帰れんのよ」というと、「それもそうじゃのお」とあっさり意見を引っ込めましたが、私もそろそろ親父の下の世話を、してやらなければならないかも知れない思い始めました。かく言う私も67歳の高齢者ですから老々介護と言ったところでしょうか。

 昨日は親父も私と話して安心したのか、振り子の話をしました。親父は家が貧乏だったため学校へもろくに行っていません。それでもどこで勉強したのか人生のつれづれに私に色々なことを教えてくれています。


 昨日の話しは振り子の話で、振り子はご存知のとおり行ったり来たりの運動を繰り返します。私はこれまでまちづくりの話をする時、振り子を否定するような話をしてきました。ああでもないこうでもないと、まるで振り子時計のような議論ばかりしていては前に進むことは出来ないので、むしろはずみ車の原理で進めるべきだと解いてきたのです。ところが昨日は親父がいきなり、「振り子はどんなに辛いことがあっても、辛かった分だけ喜びもある」というのです。行きがマイナスなら帰りはプラス、その長さや分量はほぼ同じだというのです。「若い時の苦労は買ってでもしろ」というのは、苦労の量だけ福が待っているそうです。

 なるほどと納得しながら親父の話を聞きました。食うものにも事欠く赤貧洗うが如き親父の人生に比べれば、私のこれまでのの苦労など、取るに足らないものです。だから振り子の原理で言うと、私は親父以上に幸せになれないのです。幸せになりたいとと願う心の何と欲張りなことか、もうそろそろ今の幸せに満足する謙虚さが必要なのかも知れません。


  「振り子より はずみ車を 良しとした 考え少し 改め生きる」

  「人生は 振り子のように 行き戻り 苦労多けりゃ 同量幸せ」

  「学校で 学びもせずに 何故こんな 論理が言える 親父は偉い」

  「老が老 介護するよな 時代なる 俺の介護も いつか息子が」


2012-02-07 06:30:02

shin-1さんの日記

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○左手は本心かも知れない

 「毎日三枚のハガキを書いたら人生が楽しくなる」という半田さんの言葉を信じて、毎日三枚のハガキを書いていますが、私の元へはお陰様で毎日沢山のハガキが届いています。届いたハガキの価値はどれも一緒なのでしょうが、全てを手元に置くことはできないので、適当にセレクトして小さなファイルに差し込んで保存しています。これもハガキを楽しむためのテクニックとばかりに、沢山の思い出深いハガキの中でも特に、私の生き方に大きなインパクトを与えた半田さんから届いたハガキや、竹下千鶴子さん、河野兵市さん、玉井恭介さんなどの特徴あるハガキに加え、あの有名なマルチタレント永六輔さんから届いた三枚のハガキは特に、木になるカバンに忍ばせて持ち歩いているのです。

 5日前の2月2日、知人谷岡和美さんの娘扶美さんが左手で書いたというハガキが届きました。知らない人は「右手が利き腕なのに何で?」と思われるかも知れませんが、実は利き腕でない手で書くと、とても楽しい文字が書けるのです。私も何度か書いてみましたが、まるで別人の書いたものと見まがうほどの文字が書けて驚きました。

 私にはがきの効用を教えてくれた広島県向島に住む半田さんは、自著本「はがきはうれしい活力素」の18ページに「新しい世界の発見」という小見出しで次の文章を書いています。


shin-1さんの日記
(谷岡扶美さんが左手で書いたという素敵なハガキ)


 「そして、最後の楽しくハガキをかく工夫としての三番目なんですけども、それは自分の眠っている能力を刺激して書くということなんです。私は利き腕でないあえて左手で書き、絵も左手で書いているんですけども非常に楽しいんです。今まで40年間書いてきたんです。けれども、どうも右手というのは、世の中は建前と本音社会というあるんですけども、右手というのは非常に建前を重んじるというか、すぐに実力以上の上手な字を書きたくなるんです。何かいやらしい字になるんです。ですけども、左手で書くとその字を一生懸命書くだけで上手に書こうという意識が全然なくなる訳です。そうして、素直に書いた一生懸命書いたものは、書いた後も気持ちいいし、多分貰った人も、その方が気持ちいいんじゃないかと、そういうふうに思います。

 何事でもですけど、たてまえのつきあいというのは、疲れて長続きしませんような気がします。人生を変えることともつながるんですけども、今まで使わなかった手を使うことによって、自分の眠っている能力が、自分でも気づいていなかった能力が段々と出てくるというのは、ありうることではないかと思います。

 そういう意味で皆さんがまだ今まで使っていない能力を沢山持って折られると思うのです。意識して左手にこだわることはないんですけども、今まで使わなかった能力、あるいは学生時代に使っていたけれども、何十年もの間使うのを忘れていた能力、例えば絵を描くことというか、そういったことをやってみると、非常に又新しい発見があって、それこそ心ときめく、そういうことになってきます。~後略~。


 谷岡扶美さんが書いた文字の左上にはこれも扶美さんが書いたという見落としそうなイラストもありました。扶美さんはこんな絵を書いて、時には仲間と共に個展を開いているそうですが、扶美さんの絵はピカソと同じような抽象画なので、私のような古い人間にはとても理解できにくい現代風というより未来風な絵なのです。一度郡中ひな祭りの展示会場で個展を見ましたが、とても素敵な絵でした。

 半田さんが言うように人間は誰しも、人によく見てもらいたいと思う見栄のもうなものを持っています。そのような人間の見栄を見抜くにはそれ相応な修行が必要でしょうが、長くつき合える人は、得意も不得意もありのままの姿を、全てさらけ出せるような人だと思うのです。

 同じ日に同じ私の話をいっぷく亭で聞いた人から、同じ2月2日に植岡由美子さんからもハガキをいただきました。和美さんと由美子さんの了解も得ずに、つい嬉しくなってブログで紹介することにしました。私の話を参考にして、(白紙に線を書き85才、目標は歩くこと体重管理)という言葉がとてもさわやかな印象でした。


shin-1さんの日記
(同じ日に届いた植岡由美子さんからの嬉しいハガキ)


  「相次いで 届いたハガキ 活力素 私負けじと 返信ハガキ」

  「左手で 書いたハガキも 味がある イラスト添えて 未来風いい」

  「それぞれの ハガキ味添え オンリーワン 顔を浮かべつ 便りしたため」

  「二人いた 私の話 共鳴し ハガキ差し出す 嬉しいじゃないか」



2012-02-06 22:25:00

shin-1さんの日記

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○世界遺産五箇山と白川郷を訪ねる

 この2日間、世界文化遺産で名高い五箇山と白川郷の合掌造りを訪ねました。前日は朝一番の飛行機、今日の帰りは最終便の飛行機だったため、夜遅く自宅へ帰って来たため、今日は少し旅の疲れがあるので、テーマを起こすだけにして休みます。お休みなさい。


 「若松さんについて思うこと」、そんなタイトルで親友の松本宏さんからメールが届きました。それは先日松山市伊予鉄会館で行なわれた飛び出す公務員の研修会に参加した山口県の河野和祥さんからのメッセージでした。


 山口県の河野和祥と申します。

○先日松山市で開催された首長連合首長サミットに参加しました。

 参加に当たって、ゲストコメンテーターとして出席された「人間牧場主若松進一氏(愛媛の元祖飛び出す公務員・元双海町職員)」に大変興味がありましたが、お会いしたことはなく、このため、事前に観光庁の「観光カリスマ」から情報を得ました。

 私が思うに次のような《キーワード》が浮かびました。

 ・当事者意識(物事を成した全ての人に言えることです。)・常に問題意識・発想力(こだわり)=智恵と知識

 ・熱意・人間性(信頼力)・語らい力(共有)・立ち止まらない情報発信力・・・・HPからの印象です。

○若松さんの挨拶(聞いたままに抜粋

 ・首長:金出せ、口出すな、責任を取れ

 ・議会で「赤字が出たらそうするか」の質問に対し、「黒いボールペンで書く」(議事録掲載)

 ・人にものを示すのに自分の背中で、毎日道の会苦の砂浜の掃除

 ・町を売る、目だって何ぼ、名刺の裏が「白」はだめ、受け取らない。

 ・名刺の裏が「白」の人と言われ、威張って手を挙げました。ただし非常に少数

○交流会の時、「名刺の裏は白ですが」と言いながら名刺を受け取ってもらいました。

○交流会の時、坂出市の福田さんから2月中旬に若松塾長の「地域づくり交流会」が長門市に来るという情報を

  得、小番頭松本宏さんと打ち合わせをしました。

○松本さんの名刺の裏を見てハタッと、「主たる自分(今の仕事)とともに、もう一人の人間(役割)を持てというこ

  とを感じました。

  長門市での再会が楽しみです。


 まあ今回の飛び出す公務員集会では、色々な人から色々な反響があって、さすが飛び出す公務員集会だと感心しました。自称元祖飛び出す公務員としては、面目躍如といったところでした。はてさて2月18日と19日に、わが年輪塾のつわものども15人近くがが、西瀬戸経済圏交流集会で山口県へ乗り込みます。金子みすず記念館の館長さんや、島根県の南さんたちも加わり、楽しいいプログラムが用意されていて、清水塾頭や松本小番頭が決め細かな準備を進めてくれています。


2012-02-05 04:29:47

shin-1さんの日記

テーマ:人間牧場

○夕日や夕焼けを見ると血が騒ぐ

 私の人生にとって夕日や夕焼けは、家族と同じようなウエイトを占める大きな存在だとしみじみ思うのです。下灘駅で東京から「明るい農村」の取材に来たNHKのディレクターから、「夕日が綺麗」と言われて、自分の潜在能力の底に潜む、幾つもの夕日の思い出がリンクして浮かび上がってから、私の心に何か分からないポジティブなスイッチがONとなったのです。

 以来日本全国を駆け巡り、どれほどの夕日を見てきたことでしょう。時には夕日に見とれて見境もなく興奮したり、時には次のバスもないのに海岸のバス停で降りて沈み行く夕日を眺めたばかりに、後続のバスもなく夜道をただひたすら歩いたこともありました。でも何故か心は夕日でほのぼのと満たされていたのです。


 役所を辞めた私のホームグランドも、今では地元よりむしろ県庁所在地の松山や全国各地となっていて、私が最も愛している双海の夕日を見る機会は随分少なくなっていますが、旅先で夕日を見ると何故か双海の夕日のことを思い出すのですからお許しを願いたいと思っています。

 先日も松山での仕事が終わり、先日亡くなった松前の伯母の家に立ち寄り、帰宅途中の伊予市で家並みの向うに沈む夕日を見ながら、自家用車を運転していましたが、夕日夕焼けをじっくり見たいと思い、伊予港まで迂回しました。もう少し時間があれば五色浜の松並木や常夜灯付近まで行ってみたかったのですが、残念かな長い長い外防波堤の上に落ちる夕日となりました。


shin-1さんの日記

 それでも気になるカバンの中に忍ばせているデジカメを取り出し、何枚か写真を取りました。そういえば双海町も伊予市と合併しているのですから、双海の夕日も伊予市で見る夕日も、伊予市の夕日なのだと納得しながら、少し寒くなった外気にコートの襟を立てながらしばし一人で物思いにふけりながら鑑賞しました。

 双海町では今頃の夕日は西の端に沈むため、高野川辺りでないと海に沈む夕日は拝めないのですが、伊予市だと存分に楽しめるようです。少し暇でも出来たら五色浜の松林や常夜灯辺りから見える夕日も鑑賞したいものです。

 今日から私は岐阜県白川郷の世界遺産合掌造りの、ライトアップを見る旅に出かけます。私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループ恒例の世界遺産を巡る旅の一環ですが、夕日に映える世界遺産も是非堪能したいものと期待をしています。白川村へは先月講演に出かけたばかりですが、違った見方をしたいと思っています。


  「夕日見て ワクワクドキドキ ジーンと来る 私の心 浮き足立って」

  「この夕日 二度と見られぬ そう思や 愛おしくなり 迂回してまで」

  「夕日には 何度パワーを 貰ったか 感謝をしつつ じっと眺めて」

  「合併を したのですから わが町の 夕日も伊予市 レッテル直す」

2012-02-04 09:37:38

shin-1さんの日記

テーマ:人間牧場

○欠点は裏から見た長所である」

 明治・大正の小説家で「不如帰」で有名な徳富蘆花が、「欠点は裏から見た長所である」という言葉を残しています。その言葉通り人間には完璧な人は殆んどおらず、自分では長所と思っていても、人から見れば欠点だったりするものです。

 私には子どもが4人いますが、同じ環境や同じ境遇で育ったはずなのに、性格はまるで違うのです。それは親が同じ環境や同じ境遇だと思っていても、子どもの生活環境は微妙に違い、特に人間環境はまったく違うことに気付くのです。子を持つ親にとって子どもの健やかな成長は誰しも願うことですが、青春時代は自分の人生を決めるであろう職業を見つけなければなりません。私たちの若い時代には、一度決めた仕事は離れることなく永久にするという風潮がありましたが、今の若者は見切りが早く、もっと別の道があるのではと思うのか、転職を繰り返すようです。


 看護師と助産師の資格を持つ長女や建築士の資格を持つ長男は、資格を持っているがゆえにその資格の範囲内で仕事を続けていますが、次男は一度自分の決めた会社に就職したものの、何を思ったのか勤めていた会社を退職し、看護師の資格を取る看護専門学校に進んで資格を取得し、今は松山日赤病院に勤めています。三男は大学を出て光センサーの会社に就職していましたが、入札問題で会社倒産の危機に見舞われ退職、社会人枠で警察官を志望し、今は警察官として働いています。

 4人それぞれ今は落ち着いた仕事をしているようですが、それぞれの子どもから転職の話が持ち上がった度に、親として子どもと真剣に向き合い、欠点と長所を見極めながら、欠点をカバーして長所を伸ばすような助言をしてきました。お陰様で今は何とか自分の長所を生かして仕事に励んでいるようで、妻も私もホッとしていますが、いつ何時娘や息子が迷える子羊になるかは計り知れないのです。


 子どもが大きくなってくると、何となく子どもは親に似るもので、長所が似るのはいいのですが、似て欲しくない私の欠点まで似ている姿を見ると、はてさてどうしたものかと思わず苦笑いするのです。特に昨年5月から同居している長男息子の息子、つまり二人の孫も遠くから見ると何となく長男が小さかった頃とよく似た行動をしているようで、親・子・孫三代に渡って血の連鎖が続いているのですから驚きです。

 あえて欠点は言えませんが、孫二人も次第に自我が目覚め、早くも反抗だってするのです。孫の性格も徳富蘆花が言うように「欠点は裏から見た長所である」としっかり受け止め、いい子どもに育ててやりたいと思います。

孫たちは毎朝「おはようございます」と、台所に設置している仏壇に向かって手を合わせていますが、せめて人間の値打ちが頭だけではないことを考え、温かい心の持ち主に育って欲しいと願っています。


  「欠点は 裏を返えしせば 長所なる 分っちゃいても 腹が立つときゃ」

  「妻が言う 娘あなたに そっくりと 俺の子だから 当たり前だろ」

  「四代が 一緒に暮らす この家は 声まで似てて 恐ろしいこと」

  「あらためて 徳富蘆花の 言うことを 納得しつつ ブログ文書く」   

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