第14回「市民の戦争体験を子供へ語り継ごう!」 | ほっこり 知恵袋

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第14回市民と介護を考えるカフェ「オリーブの木」は、夏休み特別企画として「市民の戦争体験を子どもたちへ語り継ごう!」を開催しました。
戦後71年、戦争体験を語ってくれる人も減少しています。なぜ体験を語り継ぐことが重要なのか? 戦争によって多くの犠牲を強いられてきた国民は、過酷な状況のなかでも必死に生き延びてきました。家族を守るために。私達の「いのち」が今、つながっていることは、過酷な時代を逞しく生き抜いてきた国民、家族に他ならならいのです。歴史を振り返りながら、どう生きるべきか考えてみたいと思います。
平和は、過去の歴史によって作られています。「死」を身近に感じながら生き抜くことは、「どんなことがあっても生きることを諦めない。」信念が必要だと感じました。


四人の発表者の語り
①長崎原爆被爆者の語り
府中市原爆被爆者の会、きすげ会 副会長より「原爆被爆と戦後」
原爆被爆体験は、5歳のとき。長崎の教会にいたときに被爆。教会の防空壕に入り、一命をとりとめる。家族は奇跡的に一命をとりとめたが、父親を重い原爆症、白血病で一月後に亡くす。母親も足に硝子の破片が突き刺さったまま、とることもできずに長年過ごす。多くの遺体を火葬するための手伝いをした。父親の遺体も同じく処理した。戦後、生き延びるために、母親は子連れのまま再婚した。経済的に恵まれていたが、妻を亡くした男性と再婚。再婚先にも、同じく子供がいた。自分よりも年上の兄弟たちには、いじめられることもあったが、辛くても母親の気持ちを思うと愚痴もこぼさず、ひたすら耐えた。経済的な支援を受けられたので、勉強もさせてもらえた。15歳のときに、「生」と「死」の狭間で経験した記憶から、「いのち」を支える仕事に就きたいと思い、看護師になる。義父が他界してからは、自分が手に職をもち、一家を支えることになった。

長崎での病院勤務時で辛かったことは、被爆者が結婚を断られることが多かったこと。健康な子供を産めるのか、検査をして、検査に以上なくても、断られるかたが多く、差別されていたこと。就労の面も同じことがあったそうだ。結婚し、上京して、子供を育てながら仕事を続けた。離婚もしたが、母親が子育てに協力してくれた。病院勤務後、定年退職後は老健に勤務。介護の勉強も始めた。72歳で退職するまで勤務。
「平和へのメッセージ」
平和は、過去を支えてくれたひとによって成り立っている。支えてくれた方々に感謝し、辛い過去であっても受け止めて前に進んでいこうと思う。自分の体験が、皆様のお役に立てれば幸いです。

②終戦時20歳。長崎の親戚が被爆し、いとこが一人だけ生き残った方。
悲惨な話は胸が痛くなるので、今まで孫にも話したことがない。仲良くしていた親戚が被爆し、一瞬にして亡くしてしまった。その一家の長女だけが、集団就労のため、他の地にいたため助かった。いとこの彼女は、辛すぎて泣き叫ぶことも喚くこともできなかったそうだ。苦しくても、前を進むために。
「平和へのメッセージ」
辛いことは語ることすら、苦しくなる。多くの犠牲の上に、今日があることに感謝し、祈りを捧げたい。


③戦後、家族で満州から引き上げてきた方。終戦時9歳。
戦争中は何事もなく暮らしていた。ところが、8/15に終戦し日本が敗戦すると、満人たちやロシア人たちの略奪に遭うことになった。財産や所持品は全て略奪され、なにも無くなる。毛布は一枚だけしか与えられず、食べ物はない。いもなど、食べられそうな植物は何でも食べた。栄養失調で子供は餓死していった。大人より、子供が先に亡くなった。女性は強姦されるので、女に見られないように、男に変装した。丸坊主にして、汚ならしい格好をし、顔を泥で汚した。母親も丸坊主だった。引き上げ船に乗るために、あらゆる努力をした。働き、稼いだお金を貯めた。父親は、兵役のため帰らず、母親と子供たちだけで生き延びた。「内地の土を踏まずには死なない。」母親は必死に働いた。ようやく乗った船も、いかだのような粗末なもの。荷物が真ん中で、周りに人が乗っているという奇妙なバランスで乗った。それでも、船に乗れるだけでも幸福だった。日本に到着したときは感動した。ところが、本国でも物不足は深刻だった。両親の実家に交互にお世話になり、何とか就学させてもらった。
父親が服役するまでは、大変だった。一家全員が生き延びることができた。母の実家に帰ったとき、「よく頑張った。」と言われ、母親が泣き崩れているのを初めてみた。

「平和へのメッセージ」
戦争が起きてしまったことは、国民にはどうすることもできない。今、元気に生きていられるのは、母親や助けてくれた多くの方々のお蔭である。生きるという意味には、多くの思いが込められていること、「いのち」を粗末にしないで、大切に生きること。皆様に感謝したい。

④終戦時は8歳。戦争中はものがなくて大変だった。戦後、進駐軍に「ギブ、ミー、チョコレート」と値だってチョコレートをもらった。先生に怒られた。食べるために何でもした。戦後は、戦争の意味はなんだったのかを知るために、講演会などに参加したりしている。
「平和へのメッセージ」
戦争について考え、体験談を
聴き、歴史を確認したい。正しく歴史を理解することは大事だ。世界の中の平和はなにか考えていきたい。

感想
ボリュームのある内容でした。
体験談を聴く機会は滅多にないので、貴重な経験をさせて頂きましたことに、感謝します。戦争を知らない世代が、平和をどのように考えていくかは大きな課題です。
今回の話で気づいたことは、平和とは一人ではできないことです。独裁者ひとりでもできない。互いに支え合うこと。愛すること。その仕組みができること。幸せを共有できること。次世代には、歴史を学び、今できることを考えていく、きっかけを作っていきたい。