2009-10-20 10:02:19
posted by shimorix
戯曲の技術 その2 どうやれば戯曲は構造化するか
テーマ:演劇論
最初、戯曲の勉強会に出たときに、さっぱり解らなかったのが、この「構造」という言葉でした。戯曲にはどうも「構造」というものがタイセツらしい、ということは解るのですが、そもそも構造とは、なんでしょうか。たとえば、その1に書いたような、物語の仕掛けとしての「構造」ならなんとなく解りますよね?まあ若い作家のコだとそのあたりからして無自覚なんですけど。
でもその勉強会で使われている「構造」って言葉は、そのときのワタシにはものすごく高度すぎて、なにがなんだか、サッパリでした。まあでもなんとか説明するとですね、たとえば「笑い」をとろう、と思います。フツウであれば、おもしろおかしいアクションをしたり、ヘンなキャラクタ造形を考えたりしますよね?しかし、これを構造で考えると、「すっごい大きくてイカツイのに怖がり」とか、「火事が起こって大騒ぎなのに、水をバケツじゃなくて手のひらでリレーしている」とか、まあわたし、笑いは苦手なんでヒドイ例で申し訳ないですけど、逆方向のベクトルをうまく組み合わせると、笑いが構造化する、というんです。よく本番になると予測もつかないところで笑いが起こったりします。それは、あとで考えてみると、この構造化がうまくいっている場合なんですね。対して、面白い演技で稽古場では大爆笑だったのに、本番は対してウケない、というのは、この構造化がうまくいってなくて、すべてが予測の範囲内で収まってしまっているからなんですね。
よくお笑い番組のコントでシリーズ化するものってありますよね。アレって、一見、キャラクタが人気になっているように見えますが、そのキャラクタによって引き起こされるシチュエーションがうまく構造化されていて、ルールになり、そのルールのなかでうまく遊んだり、そのルールの範囲を敢えて無視したり、というのをうまく利用して笑いにつなげているんですね。それを繰り返すことによって、期待値となり、人気になっていくのではないかと思います。
その勉強会では、まるで詰め将棋みたいに、ここで、コレが構造化してるだろ、とか、ここでこうなっちゃうから構造化しないんだよ、というカンジの話が続きます。大きな物語の構造ばかりではなく、小さな単位や、あるひとまとまりの会話であっても構造がうまくいっている、いっていない、という単位で話していくワケです。
構造主義、という言葉があります。現代思想のひとつの大きな流れで、システムから物事を分析していく考え方です。哲学や思想というのはコアはなにか知りたい、というところから出発しているとわたしは考えているのですが、20世紀に入り、社会の仕組みが複雑化して、人間の根源は、などという思考法自体が不可能になってきました。なので仕組みが複雑化していることを前提として、システムからコアを探ろう、という流れが構造主義だとわたしは思っています。いわゆる現代思想の構造主義、と戯曲でいう構造、はまるきりのイコールではないのですが、戯曲を書く上で、システムから物事を理解する、という思考法を身につけることは、無駄なことではないと思います。内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」は、もちろんこれだけで構造主義を身につけることはできないにしろ、むずかしいことを平易に書いたという意味で、出色の入門書です。寝ながらだとじつはちょっとキビしいのですが、ソファでダランと座ってくらいならスルスル理解できますので、オススメです。
さて。戯曲はどうすれば構造化するか、でした。
もっと細かな構造化の話はまた次に譲るとして、「かもめ」という一見なんの事件も起きないタイクツそうな戯曲がなぜ名作たりえたかを構造から読み解いていきましょう。
主人公はトレープレフという青年です。トレープレフは文章で身を立てたいと考えています。年頃の青年らしく恋をしています。そして、その恋人に自分の才能を理解してほしいと考えています。母親から十分な愛情を感じることができず、充ち足りない思いを抱いています。
構造とはちょっと離れてしまいますが、チェーホフの凄いところは、この20世紀型のモラトリアム青年の典型のような人物造形を19世紀の終わりに発明したことです。家族の問題があり、才能の問題に苦しんでいる内向的な青年という意味では、ハムレットなど古典的な主人公の血脈を引いてはいます。ハムレット型の「葛藤のデパート」のような主人公は、物語の構造化に有効です。葛藤をいくつか用意してうまく絡ませながら動かしていけば、あら不思議、気付いた時には、涙涙の悲劇となっちゃうわけです。たくまずして、って、じつはそうとうたくまってはいるのですけどね。たとえばハムレットの場合、父殺しをしたかもしれない犯人が、現在は実の母と結婚している、というように葛藤を構造化していきます。復讐はしなくてはならない、しかし、ただやみくもに復讐するワケにもいかない、というのが、きちんと構造化されているんですね。ここをちゃんとやっとかないと、ハムレットの悩みがホントドーデモイーヨネー、となってしまいます。ハヤイトコヤッチャエバイイジャン、てなものです。
トレープレフの場合は、しかし逆に、それって自分の気持ちの持ちようでなんとかなるよね、という心理学的な問題の範囲に収まっているところが極めて現代的だと言ってよいのではないか、とわたしは考えます。しかし、現代を生きるわたしたちは、その自分の気持ちの持ちようでなんとかなる問題が、じつはいちばん深刻で、自分を脅かす問題だということを知っています。いまや、ハムレットは物語の主人公にすぎませんが、トレープレフは自分の分身のような存在です。チェーホフのものがたりは少なくとも今後100年、とくに新しい解釈を付加しなくても「わたしたちのものがたり」として機能しつづけるでしょう。それは、このトレープレフというある意味甘ちゃんの、極めて現代的な主人公を作り上げたことにより可能になっているのです。
なので、シェークスピアのようにクッキリとした物語がなくとも、このトレープレフの葛藤をうまく深め、補足していく方向で、物語を構造化していけば、「かもめ」は成功するワケです。
母親は女優でトレープレフに冷淡です。そのうえ、成功した作家トリゴーリンを愛人にしています。
幕開けは、彼らに自分の書いた芝居を見せ、大失敗をするところから始ります。
さらには、この失敗を機に、恋人ニーナはトリゴーリンのとりこになり、トレープレフのもとを去ります。
この省略のうまさもチェーホフのすごいところです。
自分の才能への期待と失望を幕開けで一気に見せてしまうわけです。
あとはトレープレフはため息をついていれば、ああ悩んでいるんだ、彼の悩みは深い、そしてそれはボクと似ている、と周りが感情移入してくれる見事な仕掛けです。ただのエピソードではなく、全体の構造に大きく関わっています。
そのあとはトレープレフはじっさい憂鬱な様子でフラフラしているだけで、じつはとくには活躍しません。メランコリーというのは運動性がありませんから仕方ないのです(運動性がない、というのを理解して、メランコリになんとか運動性をもたせるよう考えることももちろん必要です。メランコリに取りつかれた主人公がよく狂ったりするのもそのためです。狂うと運動しはじめますからね。)。
しかし、特には活躍しなくても、彼の葛藤は常に物語の後ろに張り付いています。最初のシーンの仕組みによって、マーシャのうまくいかない恋も、そのあとの愛のない結婚も、そんなマーシャのうしろをウロウロとくっついてあるくクルイギンの惨めさにも、トレープレフの苦悩が貼りついて、その語られる分量以上の陰影を可能にしています。このエピソードの補完作用というのは、映画などに比し、極めて限られた情報で勝負する戯曲という形体において必要不可欠な構造です。マーシャによってトレープレフが声に出せない葛藤が語られたり、クルイギンの惨めさがトレープレフの惨めさをさらに思い起こさせるような仕組みです。戯曲の場合は、2時間でふたつもみっつも物語を完結させていくというのはじつは不可能です。どの関係も物語もエピソードもひとつのテーマを表すために奉仕させないと、自然な物語にはなりません。
トレープレフは作家として成功します。けれど、社会的な成功をおさめても彼の苦悩はひとつも安らぎません。いちばん理解してほしい、アルカージナとニーナに無視されつづけているからです。
さて、物語はそんなトレープレフに対し、さいごにもうひとつ極めてすぐれた仕掛けを用意しています。
トリゴーリンに捨てられたニーナがふたたびトレープレフのもとにもどってくる有名な終幕です。
母屋では人々がゲームに興じる夜。ニーナはやってきて、トレープレフのもとに戻ってきたのかと思いきや、業とも思えるトリゴーリンへの思慕を吐露して再び去っていきます。この仕掛けが、たったひとつ、トレープレフが手に入れた、そしてゆいいつの拠り所であった、「社会的成功」を一気に無効化するすぐれた「構造」です。たったひとつ支えてくれていた希望を断たれ、トレープレフは自死します。その死は、じっさいには観客に見せられずゲームに興じる人々越しに伝えられるという周到さです。観客は、自分の姿を、トレープレフ、もしくは去ったニーナ、もしくは、ゲームをする人々のどこかに発見します。そして、「かもめ」はわたしたちのモノガタリとなるのです。
現代人の孤独、を誰よりも先駆け発明したチェホフの真骨頂と言えるでしょう。
構造化する、システムを作る、ということの大切さと意味と方法が多少は解っていただけたでしょうか。
あと一本くらいは解析することで構造を理解したほうが解り易いかと思うので、この項目、続きます。
でもその勉強会で使われている「構造」って言葉は、そのときのワタシにはものすごく高度すぎて、なにがなんだか、サッパリでした。まあでもなんとか説明するとですね、たとえば「笑い」をとろう、と思います。フツウであれば、おもしろおかしいアクションをしたり、ヘンなキャラクタ造形を考えたりしますよね?しかし、これを構造で考えると、「すっごい大きくてイカツイのに怖がり」とか、「火事が起こって大騒ぎなのに、水をバケツじゃなくて手のひらでリレーしている」とか、まあわたし、笑いは苦手なんでヒドイ例で申し訳ないですけど、逆方向のベクトルをうまく組み合わせると、笑いが構造化する、というんです。よく本番になると予測もつかないところで笑いが起こったりします。それは、あとで考えてみると、この構造化がうまくいっている場合なんですね。対して、面白い演技で稽古場では大爆笑だったのに、本番は対してウケない、というのは、この構造化がうまくいってなくて、すべてが予測の範囲内で収まってしまっているからなんですね。
よくお笑い番組のコントでシリーズ化するものってありますよね。アレって、一見、キャラクタが人気になっているように見えますが、そのキャラクタによって引き起こされるシチュエーションがうまく構造化されていて、ルールになり、そのルールのなかでうまく遊んだり、そのルールの範囲を敢えて無視したり、というのをうまく利用して笑いにつなげているんですね。それを繰り返すことによって、期待値となり、人気になっていくのではないかと思います。
その勉強会では、まるで詰め将棋みたいに、ここで、コレが構造化してるだろ、とか、ここでこうなっちゃうから構造化しないんだよ、というカンジの話が続きます。大きな物語の構造ばかりではなく、小さな単位や、あるひとまとまりの会話であっても構造がうまくいっている、いっていない、という単位で話していくワケです。
構造主義、という言葉があります。現代思想のひとつの大きな流れで、システムから物事を分析していく考え方です。哲学や思想というのはコアはなにか知りたい、というところから出発しているとわたしは考えているのですが、20世紀に入り、社会の仕組みが複雑化して、人間の根源は、などという思考法自体が不可能になってきました。なので仕組みが複雑化していることを前提として、システムからコアを探ろう、という流れが構造主義だとわたしは思っています。いわゆる現代思想の構造主義、と戯曲でいう構造、はまるきりのイコールではないのですが、戯曲を書く上で、システムから物事を理解する、という思考法を身につけることは、無駄なことではないと思います。内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」は、もちろんこれだけで構造主義を身につけることはできないにしろ、むずかしいことを平易に書いたという意味で、出色の入門書です。寝ながらだとじつはちょっとキビしいのですが、ソファでダランと座ってくらいならスルスル理解できますので、オススメです。
さて。戯曲はどうすれば構造化するか、でした。
もっと細かな構造化の話はまた次に譲るとして、「かもめ」という一見なんの事件も起きないタイクツそうな戯曲がなぜ名作たりえたかを構造から読み解いていきましょう。
主人公はトレープレフという青年です。トレープレフは文章で身を立てたいと考えています。年頃の青年らしく恋をしています。そして、その恋人に自分の才能を理解してほしいと考えています。母親から十分な愛情を感じることができず、充ち足りない思いを抱いています。
構造とはちょっと離れてしまいますが、チェーホフの凄いところは、この20世紀型のモラトリアム青年の典型のような人物造形を19世紀の終わりに発明したことです。家族の問題があり、才能の問題に苦しんでいる内向的な青年という意味では、ハムレットなど古典的な主人公の血脈を引いてはいます。ハムレット型の「葛藤のデパート」のような主人公は、物語の構造化に有効です。葛藤をいくつか用意してうまく絡ませながら動かしていけば、あら不思議、気付いた時には、涙涙の悲劇となっちゃうわけです。たくまずして、って、じつはそうとうたくまってはいるのですけどね。たとえばハムレットの場合、父殺しをしたかもしれない犯人が、現在は実の母と結婚している、というように葛藤を構造化していきます。復讐はしなくてはならない、しかし、ただやみくもに復讐するワケにもいかない、というのが、きちんと構造化されているんですね。ここをちゃんとやっとかないと、ハムレットの悩みがホントドーデモイーヨネー、となってしまいます。ハヤイトコヤッチャエバイイジャン、てなものです。
トレープレフの場合は、しかし逆に、それって自分の気持ちの持ちようでなんとかなるよね、という心理学的な問題の範囲に収まっているところが極めて現代的だと言ってよいのではないか、とわたしは考えます。しかし、現代を生きるわたしたちは、その自分の気持ちの持ちようでなんとかなる問題が、じつはいちばん深刻で、自分を脅かす問題だということを知っています。いまや、ハムレットは物語の主人公にすぎませんが、トレープレフは自分の分身のような存在です。チェーホフのものがたりは少なくとも今後100年、とくに新しい解釈を付加しなくても「わたしたちのものがたり」として機能しつづけるでしょう。それは、このトレープレフというある意味甘ちゃんの、極めて現代的な主人公を作り上げたことにより可能になっているのです。
なので、シェークスピアのようにクッキリとした物語がなくとも、このトレープレフの葛藤をうまく深め、補足していく方向で、物語を構造化していけば、「かもめ」は成功するワケです。
母親は女優でトレープレフに冷淡です。そのうえ、成功した作家トリゴーリンを愛人にしています。
幕開けは、彼らに自分の書いた芝居を見せ、大失敗をするところから始ります。
さらには、この失敗を機に、恋人ニーナはトリゴーリンのとりこになり、トレープレフのもとを去ります。
この省略のうまさもチェーホフのすごいところです。
自分の才能への期待と失望を幕開けで一気に見せてしまうわけです。
あとはトレープレフはため息をついていれば、ああ悩んでいるんだ、彼の悩みは深い、そしてそれはボクと似ている、と周りが感情移入してくれる見事な仕掛けです。ただのエピソードではなく、全体の構造に大きく関わっています。
そのあとはトレープレフはじっさい憂鬱な様子でフラフラしているだけで、じつはとくには活躍しません。メランコリーというのは運動性がありませんから仕方ないのです(運動性がない、というのを理解して、メランコリになんとか運動性をもたせるよう考えることももちろん必要です。メランコリに取りつかれた主人公がよく狂ったりするのもそのためです。狂うと運動しはじめますからね。)。
しかし、特には活躍しなくても、彼の葛藤は常に物語の後ろに張り付いています。最初のシーンの仕組みによって、マーシャのうまくいかない恋も、そのあとの愛のない結婚も、そんなマーシャのうしろをウロウロとくっついてあるくクルイギンの惨めさにも、トレープレフの苦悩が貼りついて、その語られる分量以上の陰影を可能にしています。このエピソードの補完作用というのは、映画などに比し、極めて限られた情報で勝負する戯曲という形体において必要不可欠な構造です。マーシャによってトレープレフが声に出せない葛藤が語られたり、クルイギンの惨めさがトレープレフの惨めさをさらに思い起こさせるような仕組みです。戯曲の場合は、2時間でふたつもみっつも物語を完結させていくというのはじつは不可能です。どの関係も物語もエピソードもひとつのテーマを表すために奉仕させないと、自然な物語にはなりません。
トレープレフは作家として成功します。けれど、社会的な成功をおさめても彼の苦悩はひとつも安らぎません。いちばん理解してほしい、アルカージナとニーナに無視されつづけているからです。
さて、物語はそんなトレープレフに対し、さいごにもうひとつ極めてすぐれた仕掛けを用意しています。
トリゴーリンに捨てられたニーナがふたたびトレープレフのもとにもどってくる有名な終幕です。
母屋では人々がゲームに興じる夜。ニーナはやってきて、トレープレフのもとに戻ってきたのかと思いきや、業とも思えるトリゴーリンへの思慕を吐露して再び去っていきます。この仕掛けが、たったひとつ、トレープレフが手に入れた、そしてゆいいつの拠り所であった、「社会的成功」を一気に無効化するすぐれた「構造」です。たったひとつ支えてくれていた希望を断たれ、トレープレフは自死します。その死は、じっさいには観客に見せられずゲームに興じる人々越しに伝えられるという周到さです。観客は、自分の姿を、トレープレフ、もしくは去ったニーナ、もしくは、ゲームをする人々のどこかに発見します。そして、「かもめ」はわたしたちのモノガタリとなるのです。
現代人の孤独、を誰よりも先駆け発明したチェホフの真骨頂と言えるでしょう。
構造化する、システムを作る、ということの大切さと意味と方法が多少は解っていただけたでしょうか。
あと一本くらいは解析することで構造を理解したほうが解り易いかと思うので、この項目、続きます。






