2009-10-16 09:26:31
posted by shimorix
戯曲の技術 その1
テーマ:演劇論
戯曲を書くのが遅いというのは、昔からよくあって、小屋入り何日前だけどコレしかできてない、とか、何日前にようやくあがってとか、果ては、地域の劇団で東京に移動してくる車のなかですこしずつできて、それがサービスエリアのたびにべつな車に渡されるとか、公演中にも書いてて途中でけっきょく時間切れになった、とか伝説はたくさんあります。
ベテランさんのそのテの作家さんは、たんに書き出しが遅い。キャパシティを超えて忙しい。というのが主な理由となっている気がします。いつも書けるし、ぜったい書きあがるから、むしろ、書き出しが遅くなる。確信犯ですね。わたしの知っている限りで、ホンがちゃんと早く上がるなんて作家は、あのヒトとこのヒトと、そのヒトと、そして、ワタシくらいですかね。稽古入りまでにホンがあります、なんてのはむしろレアケースなんですよね?まあ、でも、そーゆー、自分のペースを押さえた上で、カンパニー付きでメンバーもある程度折り込み済みなんて場合は、それはそれで問題ないと思います。だいたいの場合、ちゃんとクオリティも確保されてますしね。
わたしが今日書きたいのは、けっきょく書き上がんなくて公演中止とか、ああ、書けなかったんだなーということがそのまま公演のクオリティに跳ね返ってしまっている若い作家のことです。書けなくって稽古場に来られなくなるヒトもけっこうたくさんいるみたいですよね。(つまり演出家が不在になるということです。)。ここまで体調不良も含めて稽古場にアナを開けたコトがない(正確には親戚の不幸で一回、ワークショップの仕事で最初から自主連にしてもらったなどは3回くらいある)ワタシとしては、え、そーゆーのアリなんだ、とビックリするワケなんですが。だって稽古の最後って、場転の整理とか、細かなツメとか、演出家不在で進められるようなもんではないですよ。いなくて進んだらワタシはむしろショック。
とはいえ、そのような状況を責めたい、とかではないですよ。こんなエントリを書き始めたのは、最近、若い作家のコと話しをする機会が多いのですが、あー、そりゃ、書けないし、クオリティも確保できないよね、タイヘンだろーなーと思うことがままあったからです。じつはこのブログ、「戯曲の書き方」で検索してくる方がけっこういるので、ちょっとまとめて書いておこうかな、と思います。戯曲のワークショップとかもぜったいやる気がなかったけど、戯曲の技術ってけっこう共有化できるところがあるので、機会があったらやるべきなのかもしれないですね。やったコトないワケではないけど、フツーのワークショップに比べて時間がかかるからタイヘンなんだよねー。ひとつひとつ読んで、個別対応しなくちゃならないから。
書けなくてタイヘンになるのは、おそらく、イチにもニにも、最初の設計図の不備です。
先日、ウチのイサムくんと話していたら、シナリオの書き方について日本とアメリカの作家が話しているホンを読んだそうで、日本の作家の方は「世界観があって、それに必要な人物や物語を構築していく」、アメリカの方は「まずキャラクターがあって、そのキャラクターに合わせて世界観を作る」と言っていたそうです。まあ確かにヒット作をだすには後者が有効かもしれないですね。面白い話だと思いました。
しかし、この話の重要なところはどちらが正しいか、ということではありません。つまりどちらの場合でも、最初に、内容をちゃんと構造化しないと物語は成立しない、ということなんですね。とくに映画の場合は、破綻が演劇よりずっと許されないですから、そのへんシビアです。
いまの作家さんは、テレビを見て育ち、映画もよく見ていますから、会話はとても上手です。会話書くのに苦労しているひとなんてそうはいないのではないかしら。でも、最初に構造をきちんと考えていないから、その場の流れだけで話してしまい、意外に魅力的なシーンが書けたので、切ることもできず、でも先にもつながらず、ツジツマあわせができなくなって、けっきょく、どうしたらいいんだという状態になるのではないかしら。設定だけがあっても、それは構造とは言いません。どんなに魅力的な設定に見えても、構造化されていないと、どこかで物語がピタッと止まって動かなくなってしまうものなんです。
例えば「真夏の夜の夢」という作品があります。舞台は森です。森を支配する妖精の世界があり、そこに人間の男女が2組と芝居の練習をする職人たちが紛れ込んできます。人間の男女はホレたハレたがうまくいかずに、やれ駆け落ちだ、やれ追っかけるだ、家から許されない愛だとやっています。妖精王は王妃とつまらぬことでいさかっています。これが設定です。
それを物語として構造化していくために、画期的な発明をこの物語はしています。つまり、「ホレ薬」と「妖精パック」です。おっちょこちょいでイタズラ好き、と設定されたこの妖精は、夜の森を縦横無尽に駆け回り(妖精なのでそれが可能です)ます。そして、ホレ薬を、間違ったひとにかけてしまったり、イタズラしたりして、いろいろな事件を巻き起こします。巻き起こらざるえない構造になっているんですね。その結果、職人のろばのアタマの間抜けな男に妖精の女王が恋をしてしまったりします。
どうやっても喜劇になりうる構造があるから物語が動き、最後は一件落着するという落としところは決まっているのでそれに向けて物語を構成していくことができます。この「ホレ薬」と「妖精パック」という発明なしに夜の森に漕ぎ出してごらんなさい。作家はアッというまに迷子になってしまいます。
さて、もう一本、こんどはこんなに解り易くない物語で、極めて優れた構造を持っている戯曲の話をしましょう。「ゴドーを待ちながら」という作品です。あれは、ほとんどが無為なオシャベリで構成されている作品です。しかし、無為なオシャベリで時間を費やすしかない、ということじたいが、テーマと深く結びついています。この戯曲の仕掛けは、ほぼ同じようなことを2回繰り返す、しかし、ほんの少しだけ内容が違う、ということで、この物語の永続性を見事に示唆したこと。そして、「ゴドーさんは今日はこないって」と告げに来る少年を発明したことです。1回だけならただの無為なオシャベリです。少年がいなければ、「待つ」ということに耐える彼らの時間が、わたしたちの人生一回分をまるごと示唆したものだということを示すのは、おそらくたいへんな困難を伴う作業になったに違いありません。わたしたちの人生は無為に消費されている、ゴドーを待ちながら、と、こんなにも伝えるのが困難なことを、きちんと誤解なく伝える構造を発明したことこそ、ベケットの凄いところです。
このように名作といわれる戯曲を分析してみると、優れた戯曲を優れた戯曲たらしめている理由が解ってきます。理論的だし数学的なのです。あなたが劇作家を目指すひとなのであれば(俳優でも)、情緒ではなく構造で読むくせをつけると、いいのではないかと思います。演出家であればもちろん必須です。わたしは、人一倍それが苦手なので、けっこう努力して身につけました。しかし、その蓄積は自分の戯曲を書くうえで、間違いなく助けになります。
さて。ではどのようにしたら構造はできるのか。
続きます。
ベテランさんのそのテの作家さんは、たんに書き出しが遅い。キャパシティを超えて忙しい。というのが主な理由となっている気がします。いつも書けるし、ぜったい書きあがるから、むしろ、書き出しが遅くなる。確信犯ですね。わたしの知っている限りで、ホンがちゃんと早く上がるなんて作家は、あのヒトとこのヒトと、そのヒトと、そして、ワタシくらいですかね。稽古入りまでにホンがあります、なんてのはむしろレアケースなんですよね?まあ、でも、そーゆー、自分のペースを押さえた上で、カンパニー付きでメンバーもある程度折り込み済みなんて場合は、それはそれで問題ないと思います。だいたいの場合、ちゃんとクオリティも確保されてますしね。
わたしが今日書きたいのは、けっきょく書き上がんなくて公演中止とか、ああ、書けなかったんだなーということがそのまま公演のクオリティに跳ね返ってしまっている若い作家のことです。書けなくって稽古場に来られなくなるヒトもけっこうたくさんいるみたいですよね。(つまり演出家が不在になるということです。)。ここまで体調不良も含めて稽古場にアナを開けたコトがない(正確には親戚の不幸で一回、ワークショップの仕事で最初から自主連にしてもらったなどは3回くらいある)ワタシとしては、え、そーゆーのアリなんだ、とビックリするワケなんですが。だって稽古の最後って、場転の整理とか、細かなツメとか、演出家不在で進められるようなもんではないですよ。いなくて進んだらワタシはむしろショック。
とはいえ、そのような状況を責めたい、とかではないですよ。こんなエントリを書き始めたのは、最近、若い作家のコと話しをする機会が多いのですが、あー、そりゃ、書けないし、クオリティも確保できないよね、タイヘンだろーなーと思うことがままあったからです。じつはこのブログ、「戯曲の書き方」で検索してくる方がけっこういるので、ちょっとまとめて書いておこうかな、と思います。戯曲のワークショップとかもぜったいやる気がなかったけど、戯曲の技術ってけっこう共有化できるところがあるので、機会があったらやるべきなのかもしれないですね。やったコトないワケではないけど、フツーのワークショップに比べて時間がかかるからタイヘンなんだよねー。ひとつひとつ読んで、個別対応しなくちゃならないから。
書けなくてタイヘンになるのは、おそらく、イチにもニにも、最初の設計図の不備です。
先日、ウチのイサムくんと話していたら、シナリオの書き方について日本とアメリカの作家が話しているホンを読んだそうで、日本の作家の方は「世界観があって、それに必要な人物や物語を構築していく」、アメリカの方は「まずキャラクターがあって、そのキャラクターに合わせて世界観を作る」と言っていたそうです。まあ確かにヒット作をだすには後者が有効かもしれないですね。面白い話だと思いました。
しかし、この話の重要なところはどちらが正しいか、ということではありません。つまりどちらの場合でも、最初に、内容をちゃんと構造化しないと物語は成立しない、ということなんですね。とくに映画の場合は、破綻が演劇よりずっと許されないですから、そのへんシビアです。
いまの作家さんは、テレビを見て育ち、映画もよく見ていますから、会話はとても上手です。会話書くのに苦労しているひとなんてそうはいないのではないかしら。でも、最初に構造をきちんと考えていないから、その場の流れだけで話してしまい、意外に魅力的なシーンが書けたので、切ることもできず、でも先にもつながらず、ツジツマあわせができなくなって、けっきょく、どうしたらいいんだという状態になるのではないかしら。設定だけがあっても、それは構造とは言いません。どんなに魅力的な設定に見えても、構造化されていないと、どこかで物語がピタッと止まって動かなくなってしまうものなんです。
例えば「真夏の夜の夢」という作品があります。舞台は森です。森を支配する妖精の世界があり、そこに人間の男女が2組と芝居の練習をする職人たちが紛れ込んできます。人間の男女はホレたハレたがうまくいかずに、やれ駆け落ちだ、やれ追っかけるだ、家から許されない愛だとやっています。妖精王は王妃とつまらぬことでいさかっています。これが設定です。
それを物語として構造化していくために、画期的な発明をこの物語はしています。つまり、「ホレ薬」と「妖精パック」です。おっちょこちょいでイタズラ好き、と設定されたこの妖精は、夜の森を縦横無尽に駆け回り(妖精なのでそれが可能です)ます。そして、ホレ薬を、間違ったひとにかけてしまったり、イタズラしたりして、いろいろな事件を巻き起こします。巻き起こらざるえない構造になっているんですね。その結果、職人のろばのアタマの間抜けな男に妖精の女王が恋をしてしまったりします。
どうやっても喜劇になりうる構造があるから物語が動き、最後は一件落着するという落としところは決まっているのでそれに向けて物語を構成していくことができます。この「ホレ薬」と「妖精パック」という発明なしに夜の森に漕ぎ出してごらんなさい。作家はアッというまに迷子になってしまいます。
さて、もう一本、こんどはこんなに解り易くない物語で、極めて優れた構造を持っている戯曲の話をしましょう。「ゴドーを待ちながら」という作品です。あれは、ほとんどが無為なオシャベリで構成されている作品です。しかし、無為なオシャベリで時間を費やすしかない、ということじたいが、テーマと深く結びついています。この戯曲の仕掛けは、ほぼ同じようなことを2回繰り返す、しかし、ほんの少しだけ内容が違う、ということで、この物語の永続性を見事に示唆したこと。そして、「ゴドーさんは今日はこないって」と告げに来る少年を発明したことです。1回だけならただの無為なオシャベリです。少年がいなければ、「待つ」ということに耐える彼らの時間が、わたしたちの人生一回分をまるごと示唆したものだということを示すのは、おそらくたいへんな困難を伴う作業になったに違いありません。わたしたちの人生は無為に消費されている、ゴドーを待ちながら、と、こんなにも伝えるのが困難なことを、きちんと誤解なく伝える構造を発明したことこそ、ベケットの凄いところです。
このように名作といわれる戯曲を分析してみると、優れた戯曲を優れた戯曲たらしめている理由が解ってきます。理論的だし数学的なのです。あなたが劇作家を目指すひとなのであれば(俳優でも)、情緒ではなく構造で読むくせをつけると、いいのではないかと思います。演出家であればもちろん必須です。わたしは、人一倍それが苦手なので、けっこう努力して身につけました。しかし、その蓄積は自分の戯曲を書くうえで、間違いなく助けになります。
さて。ではどのようにしたら構造はできるのか。
続きます。







1 ■とても興味深いです。
根っからの理系人間なので「一見論理的でないことが、論理的に理解できる」ことが大好きです。
子供のころは理解できることで満足していたのですが、最近はむしろ論理だけでは理解できない部分が残ることが面白いと感じるようになりました。
戯曲の技術の続き、楽しみにしています。