昌泰4年(901年)、菅原道真公が下関をお通りになったとのことで、通過ルートを調べた。先ず、豊浦の津に上陸され、忌宮神社の大宮司家に4、5日程、お泊りになられたとのことです。その後、形山(青山山麓、下関市形山町、菅原神社)を通過し、横野の浜から北九州に舟で渡られたことが横野天満宮の由緒にある。その後、小倉に上陸されたようで、小倉、戸畑の菅原神社などの由緒にある。
菅原道真公の旅程は船旅であり、有名な神社としては防府天満宮、嵐で途中お泊りになったと言う所が綱敷天満宮として祀られている。周防灘、響灘を舟でお渡りになったのは間違いないが、直接北九州に上陸して小倉に行くこと、また流れが落ち着いた関門海峡を渡ることなどを選ばず、なぜ長府に上陸して下関市内を横断したかったのか?つまり、その解答は長府の忌宮神社に是非ともお参りしたかったのです。
当神社の祭神、仲哀天皇の本地仏は『十一面観世音菩薩』であり、これが神宮寺(大宮司家)のご本尊として祀られており、菅原道真公(及び、一族の菅原氏、周防国と長門国を支配していた土師氏)が信仰しておりました。
しかし、現在の長府には御影の井戸以外、忌宮神社内の放置されていた菅原神社筆塚などは青山山麓(形山の菅原神社か?)に移され、道真公は八坂神社に合祀されております。
菅原道真公「御影の井戸」(みかげのいど)、下関市長府惣社町
長府観光会館から壇具川に沿って功山寺方面へ徒歩で行くと、左手に土肥山公園が見える手前の右側に、「菅原道真公 御影の井戸 ご自由にご覧ください」 という看板が立っています。右折し、20メートルほどのところに、瓦屋根の新しい井戸と民家の間に「御影の井戸」がある。
説明を読んで見ると、捲土重来を期して忌宮神社の祭神を頼ってはみたが、色良い御託宣が無くがっかりして太宰府に向かわれた当時の道真公のお心が読み取れる。その怨霊が井戸にとどまっているようです。
説明は以下のとおり:
菅原道真公が都から太宰府に流される途中、忌宮神社の大宮司家に立寄り4、5日程、泊まられたときのことです。 ここ長府(豊浦の津)での休養も終え、明日は出発という日、勧学院に入り院内の庭にある井戸に自分の姿を映してご覧になりました。そうすると、ひどく淋しい気持ちになってきて、水にうつったご自分の顔に向かい、「都を離れてすでに百日以上になる、ずいぶんやつれた顔になったな、しかし、もう二度とこの土地にくることはなし、この井戸で私の顔をみることもあるまい」と筆と紙をとり出し、自画像を描かれたそうです。その後、道真公は太宰府にて亡くなられましたが、道真公がのぞかれた井戸は「御影の井戸」と呼ばれ、この井戸をのぞいたものは、目がつぶれるという言い伝えが残っているのです。
1 「下関の伝説」下関市教育委員会
2 下関市水道サービス公社
2 下関市水道サービス公社
3 横野天満宮
4 菅原神社、形山
5 菅原神社、小倉
7 忌宮神社
長府の忌宮神社は穴門国の豊浦宮のあった場所で、熊襲征伐、三韓征伐伝説で有名な仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀っております。8 勧学院
弘法大師が建立した勧学院毘沙門寺の跡、明治期に今の長府毛利邸が建つまで、その場所に一部が残り、それは長府博物館所蔵の「弘化3年長府屋敷割図」にも記されています。(写真上○で記した場所)
9 推定旅程
菅原道真公が立ち寄られたとの伝承がある神社の例を旅程に沿って記す。
始点、京都市
綱敷天神社、大阪市北区
綱敷天満神社、神戸市東灘区
綱敷天満宮、神戸市須磨
明石天満宮、兵庫県明石市大蔵
牛窓天満宮、岡山県瀬戸内市牛窓町
硯井天満宮、岡山県玉野市
綱敷天満神社 、愛媛県今治市
御手洗天満宮、広島県呉市豊町
天満宮、葛原八幡神社内、北九州市小倉南区
八坂神社、忌宮神社内、下関市長府
菅原神社、北九州市小倉北区
菅原神社、北九州市戸畑区
綱敷天満宮、福岡市博多区
水鏡天満宮、福岡市中央区
野方天満宮、福岡市西区野方
10 詳細…菅原道真公の旅程の推定航路
11 忌宮神社の祭神の仲哀天皇は十一面観世音菩薩であり、菅原道真公(及び、一族の菅原氏、土師氏)が信仰しておられた。後の延喜4年(904年)に創建される防府天満宮にも十一面観世音菩薩が祀られている。
12 当時、土師氏、菅原氏により防長二州が支配されており、当然、長府の長門国主も菅原道真公を招待するであろう。
13 周防国主の土師氏の力の源泉である周防国鋳銭所は元々は長府の長門国鋳銭所であり、一族も当然、長府にも相当残留しているであろう。
14 昌泰4年(901年)当時、全国唯一の国府の軍団、豊浦団が存在した可能性もある。また42年前、関門海峡を守る三つの八幡宮が創建されていた。当時、夷狄の脅威が増していたのであろう。軍事力を期待するなら、尚更、訪れる必要がある。
16 忌宮神社の祭神である仲哀天皇、応神天皇の古墳は古市古墳群にあるが、土師氏がお護りしている。菅原道真公は京の都を発った直後、付近にある道明寺を訪問している。
奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
20 太宰府での生活
21 七夕祭りで、宗像大社中津宮に参詣
22 志賀海神社にも参詣した