• 02 Feb
    • 人間として生まれてくること

        私は、スッタニパータはよいが、その他の原始仏典には、後世のねつ造が混じっていると感じる。ダンマパダにもそれを感じる。これがその一つ。   ダンマパダ 人間として生を受けることは困難 人間として生きることは困難 正法を聞くことは困難 ブッダの出現は困難 人間として生を受けることは困難どころか、他の数々の原始仏典においては、人間は、煩悩にとらわれ続けて、繰り返しこの世に生まれてきてしまって苦しむ。つまり、人として生まれてきてしまうほうが当たり前なのである。 不生・不死といわれる。不死とは、涅槃・解脱に使う同義語である。今生における不死ではなく、生まれ変わらないことによって、二度と死ぬことはないという意味である。釈尊は、繰り返しこの世に生まれてきてしまうのをよくないことだと教えている。   スッタニパータ 諸々の邪な見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 サンユッタ・ニカーヤ こういうわけだから、このように〔すべてのものは無常であると〕観じたならば、もはやこの世に生を受けることはない、と知るのである 人生学校で落第したら、再び人に生まれてきて再チャレンジ、というほうが理にかなっている。 しかし、人間は善行を積まなかったら地獄餓鬼動物に生まれ変わる、人間に生まれてくるのは難しいのである、という論理は、宗教が恐怖心で人を束縛するために都合がよい。   ダライラマ 自分だけの幸せを得るために毎日を過ごしていてはいけません。人間として生まれてくることがいかに難しいことであるかについて思いを巡らし、すべての事象は無常であること、輪廻は本来的に苦しみの本質を持っていることについて考えてください。 今回はタクプ・リンポチェが清らかなビジョンを通して得られた一連の教えの中から、観音菩薩の許可灌頂を授けたいと思います。これは、『三悪趣から解放する、心性を休ませているカサルパーニと呼ばれる観音菩薩』の許可灌頂で、この許可灌頂を授かるたびに、一回悪趣(地獄餓鬼動物)に落ちることを回避できるといわれています。

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  • 14 Jan
    • 集会を楽しむ

      スッタニバータ集会を楽しむ人が、本当に正しい真の悟りの境地を一瞬たりとも体験することはありえません。太陽の末裔、幾多のブッダ(真の覚者)たちが残した言葉のをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩みなさい。釈尊の時代背景を考えれば、「集会」とは「宗教的な集会」と考えるのが自然である。なぜなら、当時は,バラモン教その他が祭祀第一主義で、宗教的な集会を重視していたからである。宗教といったら、宗教的な集会に参加したがる人間は多いであろう。宗教的な集会に参加すると、よい人間になれると勘違いする人間も多いであろう。しかし、宗教的な集会そのもの、信仰の対象となる人、事物といったどうでもいいものを大事にするあまり、肝心かなめの、同胞への思いやりを忘れてしまうようである。 2016年11月8日,ダライラマ14世が来日した。来日期間の舞台裏のエピソードより●ジャガー M社長が、法王様を京都から大阪までお車でお迎えにあがる役目をつとめた。この役が決まった時、歓喜する社長の脳内は、「法王様はお車に乗られる時よく頭をぶつける」 → 「車高の高い車にしなければ」 → 「そうだ、ロールスロイス買おう」と庶民には理解しがたい三段論法でつながり、ロールスロイスを買い、当日通るルートを三回往復して万全の準備を整えた。しかし、法王事務所がこのロールスロイスを目にするに及び「カンベンしてくださいよ」というツッコミが入り、もう少し地味な車にすることを余儀なくされ、結局社長が普段のっているジャガーが法王様の送迎に用いられた。社長はウキウキしながら京都から大阪へと法王様をお迎えし、灌頂が始まると、毎日送迎を行った。その間、次第にこのジャガーが法王様のお車だという認識が人々の間に浸透し、本土からきた人々は社長のジャガーに信仰からお数珠をこすりつけまくったのであった。ああ、高価な車に傷が・・・・。  

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  • 11 Jan
    • 食料

      スッタニバータ「二種の観察」で、苦しみの因についていろいろ説明されているが、その中に「食料」がある。修行僧たちよ。善にして、さとりにみちびく諸々の真理がある。 (中略)『苦しみは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかし諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して食料を受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや迷いの生存者のうちに数えられることがない。食料は煩悩を起こしてしまって人間を苦しめるのだ、と警鐘を鳴らしているのであろう。さらに、現代では、「何々の食べ物は健康によい」という情報に惑わされて、何々の食べ物に執着してしまう傾向がある。これもまた有害な考えである。なぜか? 近年は、腸内細菌がもてはやされ、発酵食品ブームといわれている。過敏性腸症候群(腸に炎症のような目に見える異常がないにもかかわらず、ストレスを受けたときなどに下痢や便秘が起こってしまう病気)で、低FODMAP食という食事療法が有効であるという研究が、8年前くらいから欧米で盛んになり、実績をあげている。健常人に対する食事療法ではないが、健常人にとっても、「腸によいはずのもの(ヨーグルトなど)を食べたらかえって下痢する、腹がゴロゴロする」という疑問に応えてくれる理論である。日本でも、2015年に初めて、日本消化器学会の過敏性腸症候群のガイドラインに、低FODMAP食が掲載された。FODMAPというのは、《オリゴ糖、2糖類、単糖類、ポリオール(ソルビトールなどの人工甘味料)》といった糖類の頭文字である。低FODMAP食の基本は、特定の食品を摂るのではなく、ある種類を多く含む食品を減らすことである。その後、1種類ずつ摂取を開始して、悪影響を与える食材を特定する。通常、炭水化物は小腸から吸収される。FODMAPが多く含まれた食品が小腸で十分に吸収されないまま大腸に入ると、大腸内で発酵して、腹痛、下痢、おなかの張りなどを起こす原因になることが最近分かってきた。肝心なのは、健常人でもその人なりの許容量を超えると消化不良を起こすということである。過敏性腸症候群ではその閾値が低いのである。低FODMAP食の群で、過敏性腸症候群の症状だけでなく、腸内細菌も改善した、という研究報告もある。このような原理に基づき、食材が高FODMAP食・低FODMAP食に分類される。摂取を減らすべき高FODMAP食の中に、オリゴ糖、ヨーグルト(乳糖=二糖類)をはじめとして、リンゴなど、従来、腸によいとされてきた食材がいくつも含まれているのである。 この研究結果から私達が得られる教訓は、この食べ物が腸によいという理論に踊らされると,多くの人が過剰摂取してしまい、逆に健康を害するケースが多いということです。「高FODMAP食がよくない」というのではなく、「どんな食べ物でも、過剰摂取は害になる」という基本的なことである。 プロバイオティクス、機能性食品は、ヨーロッパ発の経済的戦略である。「プロバイオティクスの食材がよくない」というのではない。「プロバイオティクス理論は高FODMAP食の過剰摂取を招く」ということである。例えば、「ヨーグルトは腸によい」と思い込むことで、過剰摂取になり、消化不良を起こし続けることが考えられるのである。消化不良によって、短時間に通過して、スムーズに排泄されてしまう場合がある。普通便だと、便通がよくなったと勘違いしてしまう。例えば、便が排泄されるまでの時間が短すぎれば、普通便であっても消化不良であろう。こんにゃくゼリーなど、いかにもという食材を食べた後、短時間で便が出た経験があれば、それと同様に、腸によいとされる食材のせいで短時間で排泄されれば、ただ消化不良によって押し出されたに過ぎないであろう。ヨーグルトで便通がよくなったという人も、実際には、便が固かったのが、消化不良によって軟らかくなったのに過ぎないケースが多いであろう。FODMAPも仮説であり、不完全なものだとは思うが、「消化不良を起こさないようにする。自分が実際に調子が悪くなる食材を特定して減らす」という健全な、自然な考え方である。「何々の食べ物が健康によい」という情報によって、過剰摂取してしまって、かえって健康を害している人は実に多い。過剰摂取を節制することこそ、健全な食生活なのである。まさに「苦しみは食料の縁から起る」のである。 さて、チベット仏教では、供え物(お菓子、果物などの食べ物)を持ち寄って、仏様に供養し、功徳を積むという「ツォ」という儀式がある。供物は仏様の加持力が宿っているので、皆で分けて持ち帰って食べる。お菓子ばかりなので当然健康に悪い。このような愚行が釈尊の精神であるわけがなかろう。

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  • 10 Jan
    • ヴィッパッサナー瞑想(ラベリング派)

      大念処経比丘は進むにも退くにも念をもってします。座るにも立つにも念をもってします。排尿・排便するにも念をもってします。比丘は長く出息するとき、〈私は長く出息する〉と知ります。短く出息するとき、〈私は短く出息しする〉と知ります。自分が今している行動を実況中継、すなわち言葉によるラベリングをする冥想を行う流派がある。私は、あれもこれも実況中継することに対しては疑問だが、食べていること、噛んでいることを意識することは、有用だと思うのである。現代人は食事をするときにもテレビを見たりボーッとしながら食べているから、何を食べたかも分からない。「今、噛んでいる」と意識すると、脳がしっかり働いて、食べ過ぎることもなく、栄養が吸収される。やってみるとその通りなのである。「ながら」食いをせず、食事するときは食事だけする。そして、今、噛んでいると意識すると、勝手にしっかり噛んでいる。ボーッとしていると、何をやっているか分からない。よく噛むと、食べ物が消化されやすくなる。そういう食べ方こそ、健康の秘訣である。 健康のために、何々の食べ物を食べるといい、という情報に惹かれる人が多いであろいう。しかし、こういう情報は、かえってその食べ物の過剰摂取をして、健康の害になるケースが実に多いのである。そんなことより大事なことがある。よく噛んで食べることである。 よく噛んで食べることで害を被ることはない。胃潰瘍があるとか、症状の原因が特定できる場合はその薬を出せばよいが、消化器の症状では、原因が特定できない不定愁訴が多い。本来、そのような胃腸の症状ではまずこれを指導するべきであり、原因がはっきりしない場合、これを やらずに何やら薬を出すことは、血圧を測らずに血圧の薬を出すに等しい、と私は考える。  消化吸収の負担を即効で確実に減らすからである。例えば、これだけで便秘が治る人がいる。サツマイモを食べるとか、リンゴを食べるとかいう発想をする前に、まず、よく噛んで、消化管の負担を減らすべきなのである。 最低30回噛めといわれるが、食材によって違うのはいうまでもない。ちなみに30回という目安であるが、生の人参とナッツで、妥当な咀嚼回数かどうか実験した研究が、 欧米の有名な学術誌で発表されている。それで、30回に近い数字が出ていた。著者はイギリス人だが、イギリスでも、「30回噛みなさい」と、母親から教えられるおふくろの知恵があるそうだ。 潰瘍性大腸炎の方のブログよりあまり噛まないで食べるようなものはいくら消化に良くても危険で す。カレーが潰瘍性大腸炎が悪化しやすいと思っているのは、辛い点以外にも早食いになってしまうからだと思っています。 確かに、刺激物を早食いしたら、腸への負担が増える。 それから、うどんが消化によいと言われる理由はいくつかあるが、例えば、油を使わずに製麺するからである。油が消化によくないのであって、うどん自体が消化によいわけではない。でんぷんだから、本来、唾液のアミラーゼで分解すべきである。よく噛まずに食べたらむしろ消化の悪 い食べ物になるが、それは何でも同じである、ということであった。だから、あるテレビ番組で「うどんは実は消化に悪い」と放映されたそうである。よく噛んだら伸びてしまうから、噛まないで食べるのがスタンダードであろう。よく噛んで初めて、消化に良い食べ物になるであろう。 このように、現実的な修行法の中には、確かに、本当に健康によいものがある。密教の冥想、観想法はそれとは正反対のやり方と言えるだろう。菩薩etcをイメージして妄想をさせるのである。本人は自己満足で気持ちよくなるであろうが、実は人生の足を引っ張り、人間としてのレベルを落とすであろう。釈尊は妄想の害を説き、妄想することを戒めたのである。  

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  • 28 Dec
    • ダライラマこれから白ターラー菩薩の長寿の灌頂を授与します。灌頂を授けるにあたり、私の方でしなければならないことがあります。15分間くらいかかりますので、その間、みなさんは観音菩薩の真言(マントラ)「オーム・マニ・ペーメ・フーム」を唱えていてください。ここには15万人くらい集まっていますから、ひとりが1000回唱えれば、1億5千万回の真言を一切有情の利益のために唱えることができます。これまでチベット仏教の導師たちが真言を唱えることを称賛してきたのは、唱えている間は、寿命や富などについて思い煩うことがないからです。真言を唱えている間は、寿命や富について思い惑うことはないから、真言を唱えるのはいいことだ、というのは幼稚な発想である。寿命や富に心惹かれないよう、論理的に教えるべきなのである。きちんと解き明かしてもらえれば、確かに、欲望は我が身の災難となって還ってくることが分かるのである。 スッタニバータひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。 マタイだれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

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  • 27 Dec
    • 許し

      質問「裏切られたり、傷つけられたときに相手のことをなかなか許すことができません。許すためにはどうしたらよいでしょう。」 ダライラマ「まず、忘れることと、許すことは全く違うということを押さえて下さい。相手が間違っていると思うと、私たちは嫌な気持になります。それをすっかりなかったことにして忘れてしまう。というのでもなく、相手の存在を否定するのでもなく、こころを開いて相手を受け入れて下さい。そして、その記憶にまつわる負の感情だけを手放すのです。許しとは相手を忘れる、無罪放免にする手段ではなく、自分を自由にする手段、それが許しです。許すことにより私たちはさらなる希望と決意をもつことができます」「許す事は自分の利益になる」というのはその通りである。しかし負の感情を手放さなければならないという気になるほどの説得力がないのである。釈尊は、「相手に悪感情を持つのは悪をなすことである」と、明言しておられる。私たちは善を悪と正当化して、感情にまかせて、悪をやってしまいがちである。心の底では、自分であまり正しくないことを言っているのは自覚しているから、後で後悔する。だから、「相手が悪いから悪感情を持ってしまうのだ」などと悪を正当化するのをやめることが最初の一歩であろう。だから、このケースでも、釈尊の教えを使って、「相手に悪感情を持つのは悪いことである。悪を為さないようにしよう」と回答すればいいことである。 原始仏典「ウダーナヴァルガ」 心が静まり、身が調えられ、正しく生活し、・・・人生の道理を正しく知っている人に怒りはない。怒った人に怒り返すのは悪をなすことである。・・・怒らないことによって、怒りに勝て。善いことによって悪いことに勝て。分かち合うことによって貪悋(とんりん)に勝て。真実によって虚言に勝て。善いことによって悪いことに勝て。怒らないことによって怒りに勝て。どうやったらそれができますか、というのは、その方法は、自分にあった方法を自分で探していかなくてはならない。 カルデック「スピリチュズムによる福音」もし人の罪を赦すなら、あなた達の天の父もあなた達を赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなた達の父もあなた達の罪をお赦しになりません。(マタイ 第十八章 ) その時、ペテロがみもとに来て言った、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。イエスは言われた、「七度まで、などと私は言いません。七度を七十倍するまでと言います」。(マタイ 第十八章 ) 「断じて赦すことは出来ない」と言う人は不幸です。なぜなら、その人は人間によっては非難されないとしても、必ず神に非難されることになるからです。自分自身が他人を赦すことが出来ないのに、自分の過ちを赦してもらう権利があるでしょうか。兄弟を赦す時、七度までではなく、七度を七十倍するまで赦しなさいと言うことによって、イエスは、憐れみは限りないものでなければならないと教えています。ヨハネ 第八章 ファリサイ人や書記官達が、姦通の罪によって捕らわれた女をイエスの所へ連れて来て、人々の前に立たせ、イエスに向かって言った、「先生、この女は姦通によって捕えられたところです。モーゼはその法によって、姦淫する者は石で撃ち殺せと命じています。それについてあなたはどのようにお考えですか」。イエスは言われた、「あなた達の中で、罪を犯したことのない者が最初の石を投じなさい」。イエスに質問をした人々は、次から次へとその場を去って行った。やがてイエスと女だけが広場に残された。イエスは女にお尋ねになった、「女よ、あなたを責めた人達はどこへ行ったのでしょう。誰もあなたのことを責めなかったのですか」。女が「いいえ、誰も」と答えると、イエスは女に言われた、「私もあなたを責めません。さあ、行きなさい。今後、再び罪を犯してはいけません」。 

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  • 24 Dec
    • 楽観主義

      ダライラマ楽観的な態度は成功への秘訣です。全く初めから悲観的な態度をとれば、小さなことでさえ成し遂げられないかもしれません。石巻市にて不幸な気持ちを持ったままでは、さらに苦しみを抱えてしまうことになる。自信を持って、あらゆる現実に対峙し、楽観的な気持ちで現実に対処すれば、絶対に道は開けていく。要するに、「為せばなる」というポジティブな気持ちを持てば「為せば」という通りにはならなくても道が開けていくと。しかし、人間は、「為せば」と望む内容、努力する方向が間違っていることがよくある。過去の人類の歴史を振り返れば、そんなのばかりである。また、本当に道が開けるなら、そりゃ楽観的になれるだろう。しかし、「絶対に道が開ける」の根拠は何なのか。ただの感情論で、説得力がない。 人間によくあるのが、まだ見ぬ将来を不安がり、取り越し苦労して、余計な苦しみを作り出すことである。過去の賢者たちの説く楽観主義とは、「為せばなる」ではない。取り越し苦労をしないことである。 スッタニパータ『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『昨夜はわたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』──家を捨て道を学ぶ人は、これら四つの憂いに導く思慮を抑制せよマタイ(イエス) なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。   

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  • 20 Dec
    • 交感神経

      現代人の不調・病気の数々は、自律神経の乱れによるものが多々ある。 交感神経は、活動中・ストレスを受けたときに働く。 副交感神経は「体を回復している・休息している・リラックスしている・食事中」 場合に働く。ストレスが原因で副交感神経の働きが十分でないと様々な不調が起こる。 自律神経と呼吸には密接な関係があり、痛みなどで交感神経が優位になる状況では、呼吸は浅く、早くなる。睡眠中は副交感神経優位で、深い、ゆっくりとした腹式呼吸になる。逆に腹式呼吸をすることで副交感神経を働かせることができるというのは、医学でも文献が出ている。また、ヨーガが呼吸のメカニズムを応用している。 私はあれこれ考えると眠れなくなるのだが、そういうときに深い腹式呼吸を数回やると、そのうち眠ることができるので、確かに腹式呼吸に効果があることを実感する。日本人はすぐ薬に頼るが、腹式呼吸でリラックスする方法で眠れる人も多々いるのではないか。 ストレス性の胃痛が起きたのを腹式呼吸をやったら治ったという話を読んだが、あり得ることだと思う。 冥想、潜在意識を開発する修行などは、副交感神経優位の状況でリラックスして行う結果、自律神経が調う効果があるということが分かる。 日本人は、「一生懸命に取り組む」という特有の性質を持っている人が多い。この精神が、リラックスできて自律神経のバランスを調えるはずの方法を、リラックス法トレーニングへと変身させてしまうことがよくある。 リラックスというものは、力が抜ける・眠くなる・呼吸が深くなる・心拍数が少なくなる・というものである。 逆に何らかのリラックス法をトレーニング法にして頑張ってしまうと、我慢する・呼吸が浅くなる・どこかに力が入る・心拍数が早くなる・というようなことが起こり得る。自律神経を乱し、かえってストレスを作り出してしまう。「冥想中眠くなってはいけない」と頑張る発想は、副交感神経の働きを妨げるであろう。本来、冥想で副交感神経が活発になったら、眠くなるのも自然なことである。眠くなったら冥想をやめればいいのだが。  第一次世界大戦時代のイギリスの霊媒レナード夫人の「超能力を開発する本」によると、眠いまま冥想すると、悪質のエネルギーを吸い込むので、初心者には処理しがたい悪影響を及ぼすから中止したほうがいい熟達すると、長時間冥想しても苦でなくなると説明している。眠いまま冥想を続けるのはよくないということであって、冥想していたら眠くなるのが悪い、ということではない。  チベット密教には、前行というものがある。解脱するための本行に入る前に、膨大な功徳を積み、過去の悪行を浄化しなければならない、そのために必要な行である。 これが、五体投地10万回、金剛薩タの浄化法10万回、曼荼羅供養10万回、グルヨーガ10万回etcをこなすというもので、とくに五体投地10万回が、立ったり伏せたりを10万回やるので、まさにストレスを作り出し、根性、自律神経を乱すトレーニングなのである。百害あって一利なであろう。

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  • 09 Nov
    • 大乗仏典の慈しみ

      大乗仏教は救済について語っているが、大乗仏教で慈悲の概念を扱ったところ、すなわち、慈悲について説明しているところはないそうである。ダライラマが仏教徒に対しこの程度のことしか言えないことから推察すると、本当に、慈悲とは何か教えていない可能性が高いと思う。飢えている虎に自分を食べさせるのが菩薩行とか、そういう気違いじみた教えはあるが。 ミャンマーにおいて、仏教徒がイスラム系ロヒンギャ人に対し迫害している問題について。ダライラマは、初めて迫害の事実を聞いたとき、法王はミャンマーの仏教徒に抗議し、もし仏陀が生きておられたらロヒンギャ人を守るだろうと考えて、ミャンマーの仏教徒たちに対し、どうか仏陀のお顔を思い浮かべて欲しいと伝えたことを話された。釈尊は、慈しみの説明をしているが、その中に、敵意を持たない、という教えが含まれているのだが。だから、本来、「恨みを持たないのが慈悲である」と説けばいいのだ。それに仏陀の顔を言われるが、仏像というのは、後世の人間が勝手に仏像を作り出して神格化したものである。釈尊の顔を知っている人はいないのである。 スッタニパータあたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。ダンマパタ「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついにやむことがない。「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みがやむ。実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。

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  • 03 Oct
    • 無明こそ最大の汚れ

       真理のことば感興のことば/中村元訳(ダンマパダ)不品行は婦女の汚れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。すなわち、無知は最大の悪である。なぜなら罪悪の大半は、無知、間違った育ち方、誤った教育、迷信等から生まれているからである。 ミリンダ王の問い(那先比丘経)問うて曰く『知って犯した罪と、知らずして犯した罪とでは、いずれが重きものでしょうか』」ナーガセーナ僧が答えた「大王よ、あなたはどうお考えになりますか。灼熱し、燃焼し、炎熱し、炎上した鉄丸と、一人が知らないでつかみ、一人が知っていてつかむならば、いずれがひどくやけどをするでしょうか?」「それは勿論焼け火箸だと、知らないで握る人の方が大火傷をします」と答えました。ナーガセーナ僧が答えた「その通りです。これは悪いことだと思いながらすることには、悪いと思うから遠慮がちに畏れながらするから被害は少ない。だが悪いと思わずに間違ったことをすると、どんな躊躇もしないで"善"だと思ってするから大きな被害をだすのです。知らないで犯した悪のほうが害が大きい、ということである。 「知らない」 という、そのこと自体が 「罪」 なのだから、人間はいろいろなことを知るべきだ。少なくとも、知ろうとすべきである。”という結論になるようである。 無知は、「よい教え」に出会えるかどうか、どの国に生まれるか、どんな家庭で育つか等によって、大きく左右されてしまうから、確かに「知らないで犯した罪の方が重い)ということは成り立たない。しかし、無知による悪で困るのが、知らないで悪を犯したとき、「知らなかったから」言い訳することである。すると、自分が心から悪かった、と反省できないのである。すると、反省しないのだから無知が直らないからまた悪を犯す。 ダライラマ仏教の観点から言えば、良い事であれ、悪い事であれ、すべての行為は最終的には動機の問題となります。チベット仏教では、動機がよければ善行為、と主張する。この考え方は問題であり、無知を直す姿勢を阻害することがわかるだろう。だいたい、自分では動機がよいつもりでも、打算や正当化していて実は動機がよくないケース、洗脳されて盲信しているケースが実に多いからだ。...............................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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  • 26 Sep
    • 心の本質

      ダライラマ釈尊は私たちの心の本質は光輝く美しいものであるとおっしゃっています。誤った認識である無明の闇を晴らすことで、この本来清浄であり、すべての対象物を照らし出す心の本質を表面化させることができます。そしてこのことを通じて、本来はすべての生きとし生けるものが望んでいない苦しみというものを滅することができるようになるのです。また嘘をついている。釈尊は、「心の本質は光輝く美しいものである」とは言っていない。そのような形而上学的なことを考えても、心の向上の役に立たないからである。ダライラマが言う光輝く心の本質とは、仏性のことだが、これはバラモン教のアートマン思想が取り入れられたものである。インドの正統バラモン思想は、宇宙の根本実在としての原理をブラフマンあるいはアートマンと名づけ、われわれの現象世界はそれの顕現であると教える。そして、アートマンを知ることによってアートマンそのものに成ることができるという立場に立って、根本実在の原理を哲学的・理論的に究明するとともに、その理論にそって宗教的・実践的に実証することを教えの眼目とした。釈尊は、まず人間はいかにあるべきかの課題から出発した。つまり、現実の自己がどのような理法を実践したら現実に向上できるのか、実践の面を尊重した。なぜならば、与えられた原理に固執して、むなしい哲学的思弁に浮身をやつすことは、なんら宗教的にも実践的にも役立たないことを知っていたからである。 なお、私は、「釈尊がこう言った」と、嘘をつくことを批判しているのである。心の本質がどんなものかどうかを問題にしているのではない。釈尊の名を騙らずに「私達の宗教では、心の本質は光輝く美しいものであると考える」と言うなら問題ない。.........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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  • 16 Sep
    • 夢占い

      チベット密教の灌頂では、クシャ草という草をもらい、枕の下に入れて寝て、見た夢で吉凶を占うというものがある。 それに関する日本人の質問Q「私が見た夢は、マンダラの一部のような図形です。色はライトブルー。そして頭の中で『滅』(めつ)という声が聞こえました。苦集滅道の滅です」 ダライラマ「それはとてもよい夢だ。将来、涅槃に入ることができるよい兆しのように思われる。」 Q「ありがとうございます。心に刻んで努力します」 ダライラマ「しかしよい夢を見たということで、それに執着心を起こすようであれば、かえって修行の妨げになるので注意しなければならない」 Q「はい、肝に銘じます」スッタニバータわが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならぬ。釈尊は占いを禁止しているのだが、堂々と夢占いを仏教の儀式の一環にしている。だいたい、解脱していない、涅槃の境地を達成していない人間が、人に対して「将来、涅槃に入ることができるよい兆し」と言えるものだろうか。 それに、仮に夢占いが当たるもの、何らかの意味が夢としてあらわれるものと仮定する。もしそうなら、文化的背景が違うのだから、日本人とチベット人の夢は異なるはずである。例えば、涅槃に入る夢だと仮定すると、日本人とチベット人は違う夢を見るであろう。 夢占いは、勝手に解釈して、相手を喜ばせてコントロールすることができる。 大乗仏教は、空(ものには実体がない)思想が中心である。すべてのものに実体がないように世の中を見る努力をする。ならば、ダライラマの権威も実体がないように見えるはずだ。すなわち、高僧の転生者とされているからではなく、偉いとされているからではなく、その人の行為、発する言葉によって、その人を判断できるはずなのである。ところが、それどころか、ダライラマの権威に実体がある。ダライラマは偉い,スゴい、と思い込むから、「涅槃に入る夢」と言われて喜んでマインドコントロールされるのである。 大乗仏教徒は、すべてのものには実体がない、と唱えながら、普通の人以上に、もの(権威)には実体があるように見えているのである。.........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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  • 04 Sep
    • 未了義

      今まで述べてきたように、大乗仏典、特に密教経典にはとんでもないことが書いてある。 秘密集会タントラ 貪・瞋・痴に満ちた行者は、無上なる最高の乗において、(三つの根本煩悩さえも仏の智慧に変じて)最勝の悉地を成就する 旃陀羅・笛作り等や、殺生の利益をひたすら考えている者たちは、無上なる大乗の中でも、最上の乗において成就をなしとげる無間業(地獄に堕ちる悪行)、大罪を犯した者さえもまた、大乗の大海の中でも優れたこの仏乗において成就する殺生を生業とする人たち、好んで嘘を言う人たち、他人の財物に執着する人たち、常に愛欲に溺れる人たちは、本当のところ、成就にふさわしい人たちである 母・妹・娘に愛欲をおこす行者は、大乗の中でも最上なる法の中で、広大な悉地を得るこれらは清浄な法性であり、諸仏の心髄中の心髄である法の義から生じたものであり、とりもなおさず菩薩行の句である悪事を行えば行うほど、悟ることができる、というわけである。もっとも、彼らのいう悟りとは、自己催眠で悟ったつもりになった境地であるから、経典に忠実に、夢中になればなるほど、悟りに近づくというのは真実であろう。 ダライラマはこのように苦しい言い訳をしている。 ダライ・ラマ14世 宇宙のダルマより大乗仏教の多様な説明を考察するには、様々な経典が、それぞれ了義(直接に真理を説いている経典)なのか、未了義(さらに解釈を必要とする経典)なのか、区別することが必要だということも分かってきます。この区別を行おうとするならば、テキストが了義かどうかを判断するために、また別の聖典が必要になります。さらに、その妥当性を決定するために、別の経典がまた必要になります。このプロセスは無限に続くので、このやり方は、判断基準として、まったく不適当です。ですから、結局は、論理に基づいて、その経典が了義か未了義か、自分で判断しなくてはなりません。このように、大乗仏教においては、論理が聖典より大事なのです。 ある特定の経典が、未了義であるかどうかは、どのようにして決めればよいのでしょうか?未了義の経典には、様々なタイプがあります。たとえば、ある経典には、自分の親を殺さなくてはならないと書かれています。このような経典の言葉を、文字通り、額面通りに理解するわけにはいきません。さらなる解釈が必要です。この場合、親とは、汚された(有漏の)行いと執着のことです。それらの結果として、輪廻の中に再生する、それ故、そのような汚された行為と執着を断て、という意味なのです。同じような表現は、「秘密集会タントラ」のような密教経典の中にも見いだせます。そこでブッダは、「仏を殺せ、仏を殺せば、最高の悟りに到達できるだろう」と言っています。もちろん、このような教えを文字通りに受け取るわけにはいきません!これでは、大乗仏典を学ぶと善性を失うことになってしまう。キリスト教には有害なドグマがあるが、科学の発達に伴い、宗教界はそれなりに間違いを認め、撤回してきた。大乗仏典、密教経典も、2000年前の原始的な人々が作成したものである。特に、密教の技法は、古代インドの、社会的に下層に属する人々が行っていたオカルト、性的ヨーガを大乗仏教に取り入れたものである。チベット仏教は、キリスト教と違って、どうしてもドグマの過ちを認められないばかりか、「密教は素晴らしい教えだ」という主張を押し通したいようである。その魂胆は、既得権を守りたいからであろう。.........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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    • ヘーヴァジュラタントラ

      ヘーヴァジュラタントラ は、チベット仏教サキャ派の根本経典である。 各宗派の密教の根本経典 他のタントラ経典と同じ思想がつぎのように述べられている。金剛蔵菩薩が申し上げた「仏教タントリストたる者はどのような三昧耶(規範) と規律によるべきでありましょうか」。世尊がお答えになった。「生類を殺戮すべし。虚偽の言葉を語るべし。与えられていなくして取るべし。他人の妻たちに依止すべし」。カギュ派の根本経典「勝楽タントラ」。人間を含むこの世の全生物を殺害せよ。他人の財物を奪え。他人の妻と姦通せよ。嘘のみを語れ。大衆はこの業により灼熱地獄に落ちるが、我が行者は、まさにこの業によりて悟りをひらくのだ なぜこのような徹底した破戒を説くのか。 秘密集会タントラ秘密集会に専心する菩薩は、今生において、一切如来の中で仏陀の数に入ることができる。(一切の分別を離れた者は、他ならぬ現在生において成就する。)ヘーヴァジュラタントラすべての事物は、みな清浄である。 色形などの対象も他の物も、ヨーガ行者にとっては輝いている。それらすべては清浄を本来の性質としている。なぜなら、世間のものはブッダからなるからである。 従って、いかなる実践手段をとっても修行者の清浄性は失われない。およそ世間の人々が束縛される、そういう色形などの世俗の事物により束縛を解き放つ。世間の人は迷乱し、真実を知らない。真実と離れている者は成就を得ないだろう。煩悩も含めたあらゆるものは、本来一切清浄である。浄とか不浄、善とか悪というのも固定観念であるから、徹底的に不浄なもの、欲望、悪行為を観想し、そのような観念を徹底的に破壊し、一切の分別を離れよう、という論理である。一切の分別を離れるとどうなるか?輪廻転生の原因は、好ましいものに対する「欲望」と、好ましからざるものへの「厭離」の二つである。好ましいものにも欲を起こさず、好ましからざるものにも厭離を生じなければ、輪廻から解脱できる。もちろんこれはタントラ行者の妄想であるのだが。つまり、固定概念を破壊して、好ましいものに対する「欲望」と、好ましからざるものへの「厭離」が怒らなくなれば、輪廻から解脱できるはず、という論理である。 では、前提となる、一切清浄とは、何が由来で導きだされた思想なのか。初期大乗仏典・大乗涅槃経は<一切衆生は仏性を有す>如来蔵思想を説く経典として有名である。一方、大乗仏教の空思想から導かれる「不二」の概念でもって、浄も不浄もない、と説かれる。 この二つから、一切衆生は仏性を有するから一切は清浄である、という思想に発展したのであろう。つまり、一切清浄というのは大乗経典から発展した推定にすぎず、一切清浄である証拠はどこにもない。以上から、タントラでは、「悟りとはこのようなものであるはず」という前提があり、そのような概念を神秘体験やら自己催眠で体験するためにはどうするか、という発想であると推察できる。本来、悟りとは、真実を悟る、発見するのであるが、タントラ密教では、「悟りとはこういうもの」と決まっていることを体験する、順序が逆になっているのである。 そして、そのような悟りという究極の目的のためには、あらゆる手段が正当化される。 しかし、宗教の大事な役割の一つは、善悪観念を説くことではないのか。唯物思想では、どうしても全ての善悪を説明しきれないからである。例えば、悪いことを考えるだけで実行しなかった場合。陰口を言うが、本人には伝わらないようにした場合。 唯物的思考では、本人を害していないのだから、なぜ悪いのか説明できない。このような、唯物思考ではカバーできない善悪を解き明かすのが、宗教の果たすべき役割であろう。 このような自己満足に走る宗教を、宣伝通り受け取り、従っていたら、まともな人間になれないであろう。.........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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  • 03 Sep
    • 密教入門

      密教では、性の快楽を始めとした煩悩を積極的に肯定し、仏の智慧に転換する方法を説く。 「ダライ・ラマの密教入門」より。チベット密教の入門において唱える祈願文について師は自ら弟子の右手を掴んで、以下のように述べる。 「金剛の一族に属するものは殺傷を行うべきである。剣の一族に属するものは真実でない言葉を語るべきである。宝珠の一族に属するものは他のものの財産を盗むべきである。・・・あなたはこれによって仏陀になるであろう。そうでなければ無数の劫をへても仏陀にはなれないであろう。 以上の誓いの言葉を「仮の意味」(未了義)と「本当の意味」(了義)の両面から説明する。・・・金剛の一族に属するものとは阿閦(あしゅく)仏の一族を指しています。・・「仮の意味」においては・・他の手段ではどうにもならない場合において、教えに害をなしているもの、命あるものを憎むもの、忌まわしい悪業をまさになそうとしているものなどを慈悲に動かされて殺すことができる、ということを意味しています。・・「本当の意味」においては、阿閦仏の一族に属するものは・・自らの射精をもたらす「風」(生体エネルギー)の命を取るべきであることを意味しています。剣の一族とは、不空成就仏の一族を指しています。「真実でない言葉を語るべきである」という言葉は、「仮の意味」においては、不空成就仏の一族に属するものは、命あるものの好みや性質にあわせたさまざまな教えを、仮の意味と本当の意味の両者によって語るべきであることを意味しています。・・「本当の意味」では・・以下のように解釈されています。真実においては、あらゆる現象は関係性の中にあり、その実体は空である・・。・・つまり、仏教の真実を語ることを凡夫の目から見て「真実でない言葉を語るべきである」と表現しているのです」つまり、全ては空(実体がない)から、慈悲の心があれば殺してもよい。真実とか虚偽とかは絶対不変のものではないから、嘘をついてもよいと言っているのである。これは、秘密集会タントラに基づく説明である。当時、イスラム教徒との戦争が予見されていた。『秘密集会』の註釈書の一つであるチャンドラキールティ作『灯作明』は、金剛乗の戦闘性・外教徒への敵愾心を剥き出しにした文言を出している。チャンドラキールティは、ナーランダ僧院の高名な大学僧であり、インド大乗仏教を代表する人物の一人である。諸仏が説かれた教勅を、有情が誰であれ意図的 に破壊し、「学ぶべきでない」と言って毀損し、順世外道などの論典に巧 みに誘導し、また僧院や比丘・比丘尼と正法などを破滅させる、そのような難調で凶悪 なる者たちを殺害することが仏法を守護することである。 難調なる輩とは、善逝の教法を憎む者たちであり、シヴァ派のカウラを始めとする者たちである。その者たちが真言乗に結びつくために説かれる。三宝を毀損する者と三昧耶を犯す者に対しては、大悲を生起した上で極楽世界あるいは適当なよい住処へ識を 済度すべし。殺害してから、その肉を焼くか暖める所作などの順 で食べるのである。先に示した有情で極楽へ済度され た者は、法を聴聞して、「某は恩寵に与りました」と唱えるであろう。その者の肉は瑜 伽行者の力となるであろう。つまり、仏法を攻撃する者を慈悲の心で殺害するのは善行であり、殺害された者は極楽浄土に生まれ変わるだろう、というのである。いずれのタントラ経典では、人肉食が説かれる。それは、清浄と不浄の区別をなくすためのメタファーであり、観想上の修行だといわれる。ところが、タントラ経典の注釈書で、実際に敵を殺害して人肉食することを勧めている。実際にやったかどうかは別として、彼らの心象世界はこのような恐ろしいものだったのである。 これは日本の密教にも言える。空海は、当時の東日本の蝦夷を「人間ではない。殺してしまえ」と差別していた。 すなわち、仮の意味こそ本当の意味であろう。自らの利益のため、殺人、デマ、略奪を宗教的に正当化していたのである。文明が発達した現代人から見たら信じられない話だが、昔の人が野蛮なのは仕方がない。問題は、現代の宗教者が、自らの利益と伝統を守るために、野蛮人の教えを、誤摩化して辻褄合わせて現代人に教え込むことである。現在は観想上であるし、十分な顕教の修行を積み、資格がある者だけが密教の本行に進むのを許可されるのだと正当化される。しかし、真実だの虚偽だのといった実体はないから、嘘をついてもいいのだ、とまでイメージトレーニングをしたら、どんな人間になるだろうか。倫理観より宗教を優先し、悪を行いながら、善を行っていると信じこみ、自己催眠にかかってスゴイ人間になったような錯覚をするであろう。.........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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  • 02 Sep
    • 金剛薩タ

      ダライ・ラマ法王、入菩薩行論第9章からこの偈をよく引用される。仏陀は有情のなした不徳を水で洗い流すことはできない有情の苦しみをその手で取り除くこともできない自ら得た悟りを他者に与えることもできないただ、真如という真理を示すことで有情たちを救済されているダライ・ラマ14世も序文を寄せている「【ゲルク派版】チベット死者の書」より一日の間になした悪業を浄める方法はないのですか?回答-あります。金剛薩タの念誦法を毎日寝る前に21回誦すれば、その日一日に犯した悪業を浄化することができます。・・ちなみにこの行法を10万回行ったら、今世において成したすべての悪業を浄化できるとされています。仏様は私達になした罪を浄化することはできないが、金剛薩タは浄化することができる、という論理はあり得ない。なぜなら、金剛薩タは、仏陀より格下、まだ仏陀になっていない菩薩だからである。金剛薩タは、修行者の、修行の障害になる悪いカルマを浄化したい、という誓願をたてた菩薩だとされる。金剛薩タの観想法というのは、その基本は、マントラを唱えながら、金剛薩タと一体化するイメージ的観想法である。このように、神仏と一体化してその神仏のパワーをもらう、という観想法は、インド古来の技法である。しかし、権威付けされた高僧により宗教的に意味付けされると、本質が原始人の呪術であることが見抜けず、高尚な儀式のように見えてしまうのである。 他のチベット仏教の様々な仏様の観想法も、基本は、同様に、対象となる仏と一体になってパワーをもらう発想からなっているといえるだろう。自己催眠にかかり、仏様のパワーをもらったつもりになるのである。その仏達は、大昔の原始的な人々が創作した空想上の仏なのである。 迷信は智慧の対極にある。だから迷信にとらわれるならば、その分智慧を阻害される。2500年前、釈尊は迷信を否定した。「愚者には幸福は来ない」と言った。であるのに、釈尊の後継者を自称する人達が、迷信を人々に教え込んで、人々の智慧を阻害しているのは嘆かわしいことである。.........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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  • 31 Aug
    • 難解な哲学

      ダライ・ラマは言う。寺院など必要ない。難解な哲学など必要ない。私たちの脳が、私たちの心が寺院なのです。やさしさが、わたしの哲学なのです。逆に、タクトク僧院で一般講演(一般人も対象ということだ)300巻以上に及ぶカンギュル(経典)とテンギュル(論書)は、論理と経験と瞑想を通して、仏陀の教えに対する疑いのない確信を持つための知識を体得するために活用するべきことを聴衆にアドバイスされた。 私は81歳になりましたが、今でも時間が取れるときにはいつでも、カンギュル、テンギュル、その他の仏典を読み、それについて考えを巡らしています。若い世代の人々が仏陀の教えを学ばなければならないことは言うまでもありません。しかし年配の人であっても学ばなければいけません。カンギュルとテンギュルというのは難しい哲学の大乗仏典である。しかも膨大な量である。それを学べというのである。「寺院など必要ない。難解な哲学など必要ない。」はその正反対であるが、受けがよい。向上のためには複数のアプローチ方法があり、仏教徒なら難解な哲学が必要で、仏教徒でないなら難解な哲学は必要ない、ということであろう。 宗教とは、人生の指針を指し示してくれるものであろう。唯物的な、人間が確かめることができる範囲では、分からないことが多すぎる。何のために生きているのかすら分からないからである。人生は、その人ごとに異なるから、その人事に様々な悩み苦しみに直面する。一見複雑である。しかし、智慧のある人は、物事の本質を見抜くことができる。Aという人もBという人も、こういう仕組みで煩悩に突き動かされてこのように苦しむ、だからこのように生きればよい、とシンプルに理解できるのである。従って、人生の指針が、難解で分かりにくいものであれば、余計に迷ってしまう。理解を間違ったら、宗教を学んだゆえに、むしろ生き方を間違えてしまう。ところが、多くの人は、難解な話を聞くと、深遠な話で、理解できたらスゴイ智慧が身に付くのではないかと勘違いしてしまう。難解な仏教哲学は、智慧があれば、本来単純に見抜けるべき事柄を、わざわざ複雑にしている、人を余計迷わせることになるだろう。

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  • 27 Aug
    • カルマの結果

      ダライラマ「怒りを癒す」より引用。仮に既にあなたが悪しきカルマを蓄積していようとも、幾多のカルマによってそれを変化させ克服するチャンスがあなたにはある。全てはあなた自身の行為にかかっている。これは重要なことである。苦しみ(おそらく悪いカルマの結果)を経験したときこの苦を体験したことにより、過去に私が犯した悪しき行いが浄化されますように」という祈願文を唱え、廻向するのだ。チベット仏教でよく説かれる、悪いカルマの結果が結実したら、悪いカルマが終わった。これからは善いカルマを積もう、で終わらせる考え方は有害である。いくら言い訳しても、悪いカルマの結果は罰だということになって思考停止するからだ。人類は、苦しみに直面し、克服しようとして、努力、進化してきたのだ。幸せばかりだったら堕落したであろう。苦しみそのものに意義があることは明らかである。 また、悪いカルマを積まないためには、消極的な生き方をするという対策もある。接する人間が少なければ、それだけ悪いカルマを積む機会が減るからだ。また、これから善いカルマを積むチャンスがない状況も存在する。例えば、寝たきりになって動けない人はどうするか。ただ、耐え忍んでカルマが浄化されるのを待つだけなのか。交通事故にあったら、それは被害者が悪いカルマを持っていたのが結実したというのだろうか。 私達はどうしても過ちを犯す。カルマの結果で苦しみ、過ちに気づく。そして自らの過ちを償いたいと努力することで、向上進化が得られるのである。 シルバーバーチの霊訓【Q6】若いときに犯した罪の償いを、死んで霊界へ行ってからさせられるということがあるのでしょうか?地上にいる間に償いをさせられることもあるのでしょうか? すべては環境条件によって決まることです。自分が犯した罪は自分で償う―これは不変の摂理です。魂に刻み込まれた汚点を完全に消し去るまでは、向上進化は得られません。その過ちがいつなされたか(若いときか、中年か、年老いてからか)は関係ありません。能力のすべてを駆使して償わねばなりません。その努力を始めたとき、あるいはそう決意したとき、あなたの魂のなかで過ちを正すための別の側面が動き始めます。摂理の仕組みは、そのように簡単なのです。若いときに犯した間違いは、肉体を通して顕現している間のほうが償いやすいでしょう。地上で犯したのですから、地上のほうが償いやすいはずです。償いが遅れるほど修正もむずかしくなり、霊的進化を妨げます。 大切なのは、自分の過ちを素直に悔いて償いを決意したとき、ふだんから見守っている霊団の者(類魂)が、間髪を入れずに、力添えに馳せ参じるということです。向上進化を志向する努力を、人間界の経験に当たっている高級霊は、決して無駄に終わらせません。Q「この世になぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」 A「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練を経てはじめて人間世界を支配している摂理が理解できるのです」 .........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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  • 20 Aug
    • 三慧

      ダライラマは聞・思・修の大切さを強調する。「聞」とは、とにかく教えを聞くこと、学ぶこと。けれどもまだ理解や知識として不安定。「思」とは、不安定な理解を、正しいのか正しくないのか、確信が持てるように考える。自分で調べて分析していく。「修」とは、瞑想すると言われ、頭で考え決定したことを心と身体になじませていく。聞思修は、あちこちの教えで説かれている。「論理的だからと信じるなかれ、自ら確かめよ」と説いた釈尊が、分析したものを冥想でなじませろと説くとは思えない。釈尊がどう説いたかに関わらず、脳内活動だけで智慧を身につけることができる、脳内活動だけで清らかになれる、というのは妙な話であろう。 元ネタはこれであろう。スッタニバータみごとに説かれたことを謹んで聞け。(聞)ものごとと真理と自制と清らかな行いを心に憶い、かつ実行せよ。(思) みごとに説かれた言葉は、聞いてそれを理解すれば精となる。(聞・思)聞きかつ知ったことは(聞・知)精神の安定を修すると精になる。(修) その人が、気づきを怠り、物事を無理強いする者として世に有るなら、知慧も学識も増大することがない。思は単に考えること・理解することではなく、それを日常生活で実践し、確かめることである。 知識を得たが確かめるまでに至らないものは、精神統一をすると考えが深まって理解の助けになるのかもしれない。 .........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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    • 苦しみの死滅

      ダライラマ苦しみの原因がどこにあるかを見出し、その原因を取り除いて始めて、苦しみは無くなります。 苦しみには三段階あります。第一には、痛みや苦痛などの体の感覚のレベルの苦しみ。第二には、心の中におこる怒りなどの感情としての苦しみ。第三には、幸せですら苦しみに変わるという遍在する苦しみです。 これらの三つの煩悩のすべてを取り除いて始めて、すべての苦しみから解放され、悟りの境地に至ることができるといえます。苦しみの死滅に至れば、すべての原因が消えた「空」の状態になることも可能なのです。そのためには対象物を正しく捕らえる心を育まなくてなりません。 身体がある限り、痛みや苦しみなど感覚の苦しみが取り除かれることはない。感覚自体は、煩悩ではない。そして、これらが取り除かれて初めて悟りの境地に至るということは、ダライラマの説く悟りの境地は、生きている間は達成不可能ということだ。 だから、真実かどうか検討もせず、決まり文句を繰り返しているのである。 身体の苦痛はなくならない。しかし、それに対し、恐れたり、動揺したり、楽しみを求めて誤摩化そうとしたり、怒りや忌避の心を起こさないことで、苦痛を少なくできるであろう。 スッタニバータ苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。 .........................................ブログランキングに参加しています。 応援クリックプリーズ!にほんブログ村

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