3/11

「今自分が生きている」ということに対して、この日は大きな大きなひとつの区切りとなった日です。

 

僕は直接この地震によって大きな被害を受けた立場にはいません。

 

けれども、これは自分だけではなくて、多くの人にとって「生きる」ということの意味を再び考えなければいけないという大きな(大きすぎる)何かが起きた日になったのではないかと思います。

 

これはあくまで僕の考えです。誰かに自分の考えを押し付けるつもりはまったくないと断った上で3.11をひとつの区切りとして自分の中に刻まれたこと。

 

それは

 

「いつ死ぬかはわからない。でも、与えられた命がある」

 

ということです。しつこいけど、これは僕の考えです。こういうことってすごくデリケートなことだから「与えられた命があるからちゃんと生きなければいけない」っていう押しつけをするつもりはまったくないです。何かがあった時に何を感じるか、そして、その時は何も感じないでいられることって本当に守らなければいけないことだから。

 

自分に関しては、それまでは「人生って、まぁ、頑張ればほどほどに続いていくんだろうな」と考えていました。でも、生きていくって想像以上に「自分が知っている枠組み」だけではなくて、想像以上に無数の、見えない関係性の中で生かされているんだとわかりました。

 

だから、この日があったことを忘れません。この日に亡くなられた方、この日に亡くなられた方のご家族やご友人、そして恋人など。想像するだけで胸が苦しくなります。そして、その人たちがきちんと、そして何かに愛情を込めて生きてきた時間があったことを忘れません。

 

今を生きている人も、お迎えという、誰にとってもいつ訪れかわからないものがくるその時間があるのだと思います。その時がくるまできちんと生き、そしてちゃんと愛した尊い人たちがいた。生きていてくれてどうもありがとう。そして、お迎えというものがくるその時まで、きちんと生きていてくれて本当にどうもありがとうございました。また会う日まで。

 

よし、生きるぞ。無数の関係性の中に。

 

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