sheeple シープル

目覚めにあとどのくらいかかるのか


テーマ:

多少、不謹慎な話ってことになるかもしれないが、神社についての話題。

 

先日、今年最後のイベントということにして、

埼玉県大宮にある氷川神社というところへいってきた。

 

能力者でもない私が募集をかけても人が集まるわけないとも思えたが、

2人の方々が集まって下さり、私も含め3人ででかけた。

 

最近、いわゆる能力者による神社ツアーというのをよくみかける。

能力がある人たちというのは、祀られている何かがみえるとか、

そこにある気であるとか、なんらかのパワーを感じるとか、

そういうことがあるようではある。

 

そういったパワーのようなものには、

よい性質のものもあれば、わるい性質のものもあるようで、

 

能力者によっては、パワースポットだといって、いいかげんな心のありかたで参拝すると、

ひどいめにあう、というようなことを指摘する人も少なくない。

 

+ + +

 

私が氷川神社へ神社ツアーっぽいことをしにいこうと思ったのは、

いくつか理由があった。

 

1つは、ここで、だらだらブログをかいているだけだと、クサリそうになることがあって、

裏ニュース(陰謀論)やスピリチュアルにかかわる話題に関心がある人と、

たまには直接時間を共有したいという希望から。

 

もう1つは、なりきりでもいいから、○○を感じた、とかいっていれば、

なにか、感じられるかもしれないし、ご一緒したかたがたの感じたことと比較することで、

そこにあったなんらかのものについて、または、それぞれが感じたものについて、

サニワ的検証ができるのではないかという考えから。

 

もう1つは、そもそも、神社って何のためにあって、そこに何がいるんだ、という

基本的な疑問があり、いけば、もしかしてなにかわかるんじゃないかという思いから。

 

1つめは、そこそこに叶えられ、

2つめは、中途半端だった。

3つめは、神社からかえってきて分かるってものでもなかったが、

帰宅後、体調を崩して嘔吐したってことから、なんだったんだよという疑問は強まった。

 

+ + +

 

スピリチュアル系の本には、よく、

 

「あなたが質問したことは、かならずガイドがどこかで答えを送ってくれます」

 

・・・というようなことが書いてある。

 

電車の中刷り広告であるとか、街中できいた音楽、ぱっと手にした本、

映画の中できになった台詞、または、眠ってみた夢。

それか眠りにはいる直前、または眠りから覚める直前にきこえる、

ドリームボイスとよばれるような、なんらかの夢とは異なるハッキリとした

言葉、映像などによるメッセージ。

 

思い返してみると、いままで、そういうのがマッタクなかった訳でもないから、

そういうことがマッタクないとは思わない。

 

それでそうかと思いだし、神社について質問してから眠ることにした。

 

「神社ってなぜあるのか教えてほしい。」

 

それで一応夢を見た。私は夢の中で居心地悪い親族との時間をすごしていた。

そこは自宅ではない場所で、周囲は森林にかこまれていた。

車を運転しない私には、そういう場所につれてこられると、監禁状態にも感じる。

そこで私はまだ中学生くらいだったから、さらに所持金もない。

 

いたたまれなくなった私は窓を開け、そこから、

雪が積もっている外へぬけだした。

 

はだしで枯葉の上につもった雪の上をあるいて逃げた。

 

場面は変わって、しらない女性がヒステリックになにかを主張していた。

深いグレーでまるく首のあいた長袖のワンピースをきていた、

髪は肩くらいまであって、前髪もあって、ふんわりと内側にまかれていて、

すこしだけ茶色に染められていた。

 

そのほか、よく覚えていないが、なにか、人間関係でいざこざがあって、

どうしようもなくなっている場面をみたかと思う。

 

目が覚めてから思ったのは、もし、これらが質問の答えであるとすれば、

人が、特に人間関係において、どうしようもないことがあったときに、

それを告白したり、恨みをどうにかしようとしたり、逃げ場を探したりするための場として、

神社は役割の一つを担っていたのかもしれない、と、いうことだ。

 

+ + +

 

その日、目覚めてからブログについたいいね!をなんとなくたどった。

すると不本意に焼き肉をやかされてイライラしすぎた女性のブログに行き当たった。

女性はものすごい怒りをバクハツさせ、それをブログにつづっていた。

 

これもまた、ガイドからのメッセージだったのかもしれない、

自分がそれを告白された神社の神だったらどうするだろうとふと考えた。

 

ジェネレーションギャップも大きくてムカつく親族ほどやっかいなものはない。

なんらかの価値観を共有し理解しあえるってことがむずかしいからだ。

依存度の高い人、人を見下すのが好きな人はほんとうに面倒くさい。

 

この解決策は、私には手に余るから、あの神におねがいするしかない。

 

 

「なすにまかせよ、Let it be」

 

昔の人は、なにかあっても訴える場がいまより少なかったかと思う。

昔はSNSにかきこめば、直接的に利害関係のない誰かが、

そこそこ公平な立場から判断を告げてくれるような場がずっと少なかったかと思う。

 

ガマンするしかないっていうことが、今より多かったかもしれない。

 

病気も怪我もいまみたいには治りにくいし、

自然災害、食糧飢饉、そういうのの前では今よりもっと無力だっただろう。

食べるものがないのに子供がうまれてしまったり、

年老いて養うのが大変な親をどうにかしなくてはいけないときの葛藤、

今以上にどうしようもなかった身分や貧富の違い。

 

そういう中で、神社っていうのは、すがるように祈ったり、願ったり、告白したりする、

そういう場所だったのかもしれない。

 

+ + +

 

そんなことをひととおり考えてはみると、新たにもう1つ質問をしてみたくなった。

 

「そもそも神社には、どんな神様がいるんですか」

 

しかしこれについては、何回かの夜をすぎても返事がなく、

私の中でいくつかの推論をめぐらすしかなかった。

 

まず、人々の人間関係や生存にかかわる悩みがあって、

神社のような場所が必要とされる部分があった。

 

そういうことなら、そういう悩みを解決してくれる、救ってくれる、助けてくれる、

なんらかの大きな存在があるってことが必要だった。

 

なんらかの大きな存在というのは、わりとどんなものでもよかったのだが、

せっかく古事記とか日本書紀とか、そういう日本の古い物語があるし、

そこにでてくるなにがしかを祀ることで人々を納得させるのがよいと考えた。

 

それ以前にもともと、自然の中において、石であるとか木であるとか、山、池、海であるとか、

なんらかの畏敬の念を覚える場所というのがあったか、なんらかの呪術的な理由から、

場所は昔から語り継がれていたか、決められた場合もあった。

 

そういう場所には、人々が畏敬の念を覚えるような建物が必要だった。

それで宮大工とよばれるような専門家がつくられ立派な建物をたてた。

 

立派な建物をたてるには、資金も必要だった。

どこからでたかといえば、古来の社会であればその地域に住む人々の労働力であったり、

税金にあたるものであったかと思う。

 

悩みをきいてくれる、悩みを解決してくれるありがたい場所ということで、

人々が供物が自動的にあつまる部分もあったかもしれない。

 

呪術師のような人や神官たちによる、なんらかの儀式のようなものがありがたがられ、

その職についた人たちはたくさんの収入をえた部分もあっただろう。

 

立派な建物ができる過程や運営において、そこそこの利益が発生したら、

フランチャイズのように、ほかの地域にもその神社の支店をつくろうとするだろう。

それは公共事業の建設利権とか、事業拡大とか、そういうのとまったく同じかと思う。

 

そうやって、人々の悩みをきいてくれて、呪術や儀式で解決してくれて、

祀られている神々を崇めればとにかくいいことあるかもしれないっていう建物が、

どんどんできていく。

 

現在、日本全国にある神社数はほぼ8万社といわれている。

それは日本全国にあるコンビニより多い、コンビニは5万5千店舗だ。

 

+ + +

 

そうやって建てられた神社ではいろんな祭りが催されてきた、いまもそうだ。

 

 

神輿をみなで担いだり、

 

 

能や雅楽が披露されたり、

 

季節の節目にあるなんらかの儀式であったり。

餅をついてたべたり、酒を飲んだり。

 

 

祈るとか願うとか儀式するってことのほかに、歌ったり、踊ったり、騒いだりすることもある。

 

子供たちが学ぶ場をあたえられた寺子屋というものがあった時代、

その場所としてセッティングされたのは寺だけではなく、神社もそうであった。

集会場として機能していただろうから、主婦たちが集まってなにかすることもあっただろう。

 

 

スピリチュアル、ダンス、トランス、ミュージック、パーティー、スタディー、

イルミネーション、ウェディング、セレモニー。

 

 

そういった多機能、多目的の場であった神社。

 

いまとなっては、古い神社が珍重され、重要文化財のようなことになっており、

どうやって維持保存するかというような、扱いとなっているが、

 

現代にくらべてずっとエンターテイメントが少なかっただろう時代であれば、

それはまさにシネコンに匹敵する複合エンターテイメント施設ともいえるのではなかろうか。
 

+ + +


そんな複合施設であっただろう神社には、そうであっても、

基本的な要素として、とにかく神様がいなくてはいけない部分がある。

 

だから、万が一、神様がいなくても、○○という神様を祀っている、というような、

効能書きをしなくてはいけなかった「かも」しれない。

 

それはちょうど、温泉の効能書きににている。

なんとかかんとかという成分がはいっててもはいってなくても、シロウトにはよくわからない。

 

「○○という成分がはいっていて○○に効果があるといわれている」

・・・そいいうのをみて、ああそうか、効くかもしれないって思って、湯につかるのと、

 

「○○という神様がまつられていて○○にご利益があるといわれている」

・・・そういうのをみて、ああそうか、ご利益あるかもしれないって思って、参拝するのと、

 

構図としてはとてもにている。

 

個人的には、神社に参拝するより風呂とか温泉につかったほうが、

スッキリして元気がでるって部分がなくもない。

 

それはともかく、神様がいるかいないかって話をするにあたっては、

それ以前に、神様ってどういうものかってことを、定義したほうがいい気もする。

 

+ + +

 

それでここでは仮に神様っていうのは、なんらかの意識体であるとする。

 

その物質をともなわない意識だけの状態のものに、

それには明るくポジティブなものと、怨念とかで暗くネガティブなものがあって、

それぞれにさらに、その力がつよいものと、よわいものがあるとする。

 

そういうののなかで、明るくても暗くても、とにかく力がつよくてパワフルなものを、

神様とよんでいるのではないかと、私は思う。

 

明るくても暗くても、あんまり力がないものの中には、

死んだ人の霊魂、生きている人の生霊、そういうものがはいるかもしれない。

 

とくにパワフルな神様がいない神社であっても、

なんとなく人があつまって、グチったり、ラクして金持ちになりたいと願ったりすると、

怠けた想念みたいなのがそこにたまってきて、神社はそういうのの掃き溜めになってくる。

 

掃き溜めにたまった怠けた想念はだんだんダンゴのようにあつまって

いつか「怠け大神」っていえるくらいの、パワフルなカタマリになることがあるかもしれない。

 

スピリチュアル界隈でよくいわれているように、

人の想念(思考)はエネルギーであるのなら、そういうことも十分ありうる。

 

+ + +

 

プレアデス系の本をよんでいて、神様ってよんでいる存在は、

私たちとそうかわらないのだといった記述があった。

 

それによれば、

 

私たちが奇跡とよんでいることは、彼らにとってはすすんだテクノロジーでしかないし、

彼らは嫉妬したり妬んだり、勢力を拡大しようとしたりして、互いに争ってきたこともあった。

 

いま世界各地にのこる神話にあるそういった神様たちの人間味あふれる情動のストーリは、

実際に私たちが神々とよんだ存在がおこした行動の数々であるのだという。

 

そうであるとすれば、日本書紀や古事記にある神々もまた、

そういうテクノロジーのすすんだ宇宙存在かなにかであったとして、

 

その系譜にそって神社がたてられていることを考えると、

神社というのは、その神々の勢力争いのようなものの現れとみることもできなくもない。

 

ともすれば、そういう神話に登場するどこかの神様的存在を崇めるたびに、

その神様にポイント1みたいなものが入ることになる。

 

しかし昨今のパワースポットブームを考えると、人々は、

勢力図などおかまいなしに、パワーやご利益があればどこへでもいくから、

もしかしたら神様たちは困惑しているかも、しれない。

 

+ + +

 

・・・ということで、いつものように散漫に、いくつかのことをかき、

いつものようにまとまらなかった。

 

ただ結論としていえるのは、神社というのは、多目的な箱モノとして、

神様の存在にかかわらず、なくてはならない時代があったのではないか、ということだ。

 

そうであればことさらに、神社という場所にいくにあたって、

愚痴や深刻な願い事だけを持参するというのは、もしかしたら、不足があるかもしれない。

 

神社は、なんらかの信仰や感謝、畏敬の念を届けるだけでなく、

深刻な悩み事をお祭りで忘れてしまうためのものであったり、

ろうそくや灯篭の美しい光、建物の美しさをみて、心をスッキリさせるためのものだったり、

自分の抱える問題をしみじみ考えて、そうかと解決策を自分で見出す場所であったり、

 

そういった、今でいう温泉旅行と同等、またはそれ以上くらいのものが、

もともとの神社の姿としてあったのではなかろうか。

 

そういうものが感じられる場ではなくなっているようにみえる昨今の神社は、

なにかこう・・・じめじめとした恨みつらみや他力本願な願いをもって神社にいって、

そういう想念を神社に置き土産してくるような印象がなくもなく、

それではよっぽど野球観戦でビールのんだ騒いできた方が、活力がわく気もする。

 

神社以外の場所にエンターテイメントがたくさんちらばっていている中で、

神社は、願い事をするとか、パワースポットめぐりの対象というような部分ばかりが、

クローズアップされてしまってしまって、なおさらに、しんみり重たいばかりにも感じる。

神社は神妙な心持になる場なのだから、っていうのがあるにしても、なんか重たい。

 

神社ツアーなどでまわっている能力者の方々というのは、

そういう重たい想念の置き土産を、明るい方向へもっていく係として、

それをなさっているのかもしれないが、

 

そこのあつまる人たちが、他力本願で依存の強い方々であった場合、

重たい想念よりちょっとはいいかもしれないが、

そういう他力本願で依存がつよい想念を置き土産するってことになるかもしれないし、

 

ヘンに神社にいれこむと、むかしいた神々の勢力争いに

参加することになってしまう部分もあるかもしれない。

 

ということで、神社を箱モノとして捉えたときあらためて考えうる

多様な側面についてだらだらと勝手な話をかかせていただいた。

 

 

 

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

sheepleさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

同じテーマ 「blog」 の記事
最近の画像つき記事  もっと見る >>

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。