先人の智慧を新鮮な今に見る。
繰り返す歴史の中で、無為自然の命は生かされていく。
平和について、私はここ数日思いを巡らしていました。
お盆と終戦記念日の頃合いと重なり、
様々な魂が語りかけてくるかのように止まらないものでした。
個人的なものですが、幾つか書き出してみます。
目に見える世界の表れは、私達の内側のエネルギー(氣)の表れです。
高層ビルからブランド品、食材から芸術、
教育、戦争、言葉から自然、関係から技術、
思考や病気、傾向などなんでも。
物質性と精神性は、体を否定して心を語ることができないように、
どちらも相互を持ち存在します。
物質性は外側のものであり、
それは全てではありません。
円がさらに大きな円に包括されるように、
物質性は精神性に抱かれています。
精神性は物質性がないとそれではないのですが、
物質性は精神性があってこそ生まれることができます。
精神性が母であるなら、物質性は子です。
この記事でも触れました。
ずっとずっと前から、人間はその二極の間に揺れてきたんですね。
人間を含み、全ては微妙なエネルギー(氣)の神秘の表れでありますが、
例えば古の日本人なんかは、その二極をうまく結びつけて、
人の在り方や国の在り方に持っていくことができた民でした。
伝えたいこと、Oshoの言葉でちょうど見つけましたので、
引用します。
「自由は勝手気ままではないし、構造がないという意味でもない。それはたんに柔軟性を意味している。人はひとつの構造から別の構造へと楽に移動できるということだ――無構造から構造へ、構造から無構造へと。もしあなたの自由が構造の中にいることを怖れているのであれば、それはまったく自由ではない。
ちょっとこれを理解しようとしてごらん。そうすれば、分裂は消える。それはあなたの実存の中にあるのではなく、まさにあなたのマインドの中にある、ただの思いつきだ。その思いつきを落として、自由を、そしてときには規律を楽しむがいい。
規律には独自の美しさがある。それはすべてが隷属ではない。そして、自由には独自の危なさがあり、すべてが美しいわけではない。ほんとうの人には、つねに無限の規律と無限の自由の能力がある――彼は奴隷ではないし、何かの中毒者でもない」
この世界は平和だけではない。
世界平和はただの言葉である。
平和なところもある。でもそうでないところも多い。
常に私達はどこかで代償みたいなものを抱えている。
何かの奴隷でありたくない、中毒者の個人であるために。
奴隷の支配者はまたその「自分」のイメージにしがみつく。
物質という個は、奴隷でも中毒者でもない。
支配者でもない。
精神という母の子であり、無為自然の力です。
物質というものが精神という光にすっぽりと覆われると、
そこには狭い意味を持った「価値」「値」がなくなります。
すると、物質という子は、イキイキと、
あるがままの自然の落とし子となり、
最大限に力を発揮して、表現されることになる。
「価値」を失うと、「宝」しかない。
よって、規制や規律や道徳は宝となり、
自由も宝となる。
そのどちらもが、同時進行に起こり、
いつでもどちらにも向き合え、また出ることができる。
そのうまい具合の調和とバランスを、
日本人は肚の底でもっていたんですね。
奴隷や中毒者は、朝だけがいい。夜は嫌だ。
晴れだけがいい。雨はダメだ。
光だけが好き。闇は嫌いだ。
と「価値」と「選択」に意味を求めることでしか、
安心、豊かさはないと思っている。
支配者も同じこと。
どちらかに「価値」を見出し、
決めつけることで、
精神の奥域、超越性、すなわち自分の本質性が見えてこないんです。
「なんでもいい」
「なんでもあり」
でもない。
「これじゃなくてはダメ」
でもない。
規律という和の心は奴隷ではなく愛の心であり、
また自由という無限の心は、中毒ではなく愛の心であり、
どちらも同じように、同じだけ、
いつだって次から次へと、
降ってきた運命に力を注ぐ。
喜びがあれば喜び、
悲しみがあれば悲しみ。
怒りがあれば怒り、
楽しみがあれば楽しむ。
誰の、何の奴隷でも、
どれかただ一つの価値に侵された中毒者でもない個人は、
限りなく全身全霊に無我夢中で
自由自在。
土足で身勝手に乱暴に一線を越えず、
卑怯を嫌い、
水のように何でもなれ、
流れるから一生腐らない。
他者を卑下することをせず、
他者を支配せず、
優しく、また正直でありながら、
嘘も方便であることも知っている。
やるべきことはやる。
余計なことはしない。
やる時には最大にする。
力を注ぎ、力になるように努める。
限度を認めない。
限度などない。
進化して当たり前。
自然は進化で当たり前。
生きるって、なんて平和で自由なんだろうと、
違う人間や動物同士が、共にこの自然を土台に生きるなんて、
本当はなんて簡単なんだろうと、思うのです。