久しぶりに時間ができたのでブログです

(書かないとやっぱり読者数減りますねえ ガ~ン

 

 

目覚めとか、スピリチュアルとか、悟りとか真理とか、

そういう言葉が日本などでは溢れているようですが、

情報や知識だけがどこか一人歩きしているだけなような。

 

古ももちろんそうだったように、

その本質と高み、深みを真に体現している「本物」は

なかなかいないような。

 

たまたま出くわしたこの方のことは初めて知ったのですが、

まさに今私が言葉で表現できなかったもの、それそのままでしたので、

丸ごとコピーして載せてみます。

 

悟りへと向かう道は大きく分けて四つの段階があります。第一段階は、普通大部分の人がそうであるように、自分自身の知っている心の世界に世の中を照らして見たとき、どうしてだろうか、と疑問を持つ人です。彼らは心を通して世の中を照らして見ようとします。

彼らは外部の対象に関心があり、だから新しい対象が現れれば、それはどうしてだろうかと疑問を持ち、外部の現象を観察します。それが既存の知っている世界に関連し契合すれば、それに関して「分かった」と考えます。こんな人々が尊敬する人は学者です。彼らは世の中の法則を人間の理性で分析し、還元しようとする作業を続けています。彼らの疑問符は外部に向かっています。

しかしそのような世界を極めたとき、その人はそのような方法では知に到達することができないということに気付きます。なぜなら世の中の法則というのは常に変化しており、しかも世の中の一つの部分である、人の理性もまた変化しているからです。

ここに到達した代表的な人がカントとアインシュタインでした。カントは『純粋理性批判』で「人間の理性とは、自ずから限界と相対性を包含しているために、この世界を人間の理性で定立することはできない」と述べました。この段階の終わりまで行った人が、二番目の段階に入ります。

第二段階の人は、対象の世界を把握し、定立することに関心があるのではなく、そのように「どうして」と疑問を持つ自分自身を振り返ってみる人です。彼は対象に従って作用する自分自身の作用の世界を見つめています。彼は分析し定義を与えることをするのではなく、何かを求めはじめます。

 

こうした人たちは求道者になるのです。彼は世の中の法則に対してああだこうだと判断を下し、自分はこう思うと発言する人々の間に交じって、そのように発言する人々の内面を見通せるようになります。彼は自分自身の内面を見通せるのと同じ深さだけ、他人の内面も見通せるようになります。彼らの疑問符は自分の内部に向かっていきます。このようになって初めて、自分自身を次第に遡っていくことを体得した人と言えます。

第三段階は、第二段階の終わりから始まります。遡る、すなわち振り返って見つめることを続けているうちに、見つめる状態そのものになることを経験します。その時その人は、このように知っているこれは「自分」ではなかったということをはっきり知るようになり、彼が抱き続けてきた疑問符が自然に消滅する現象を経験するに至ります。

たとえて言えば、水に浮かんでいる小さな木の葉が水の世界を知った瞬間、木の葉の世界を抜け出すようなものです。しかし木の葉自身はまだ持ち続けています。その中に「自分」に固執するエゴはないけれども、まだ習慣的に持ち続けてきた習気は相変わらず残っています。彼はこの木の葉が「自分」ではないということを注視しながら、相変わらずその流れに従っています。この段階に到達している人は、そのカルマの影響圏から離れます。仏教ではこの段階を見性と言います。

第四段階は、三番目の見性すなわち悟りが完成される段階です。水に浮かぶ木の葉は自分ではないということを完全に体得し、その習気の世界までも完全に消し去ったとき、彼は木の葉の影響から完全に自由になります。彼は水に浮かぶ自分と水の流れを同時に見るようになります。

この四番目の段階を仏教では漏尽通(ろじんつう)を得た、あるいは究竟覚(くきょうかく)を得たと言います。ヨガではしばしば、サハスラル・チャクラを通してクンダリーニが開いたとも言います。これは大変稀な現象なので、経典で詳しい記録を見つけるのは容易ではありません。したがって一般的には第三段階、悟りの段階までは理解するのがそれほど困難ではありませんが、この四番目の段階を理解するためには見性の後もある程度の段階を経なければなりません。

 

第四段階に至って初めて、彼は光の役割を果たしはじめます。彼は生命エネルギーそのものになります。生命エネルギーとは、まさに愛なのです。イエスの胸にハート型に描かれているそんな愛なのです。

 

私は何度も意識の「段階」という言葉を使ってきました。

もしくは「層」。

 

上で引用した文章は「悟りへの段階」という表現ですが、

「悟り」という言葉を聞くと「興味がない」「自分とは無関係」などと

すぐカットする人もたくさんいるでしょう。

 

「悟り」とは仏教などの言葉としてのものではなく、

実は全ての人が無意識に引っ張られている力のようなものです。

 

今はもっともっと多くの人が「自分」というものを「すべて」というものを

外部から内部へ、内部から外部へと照らし合わせて見つめ始めたいと渇望しているとき。

 

けれどあまりに短絡的に「くくりすぎる」ことで、

あるポイントでストップしたマインドの段階で

「真理とはこうだ」

「悟りとはこうだ」

「覚醒とは、目覚めとは、こうだ」

「スピリチュアルとはこうだ」

と断定してしまうために、

浅く、部分的な言葉と知識だけが一人歩きしているようです。

 

結局、多くの人は「自分とはこうだ」と定義することを

最後の最後まで捨てれないから、段階がストップする。

 

古の禅やタオを学ぶ中でも本物は一握り。

ノンデュアリティーのメッセージと同じエッセンスで禅を伝えた

盤珪禅師も、「真理」というもの「悟り」というものの段階性と深さを言い、

その頃でさえ禅を完全にマスターした者がもういないと嘆いていた。

 

時代性とか、星の動きとか、宇宙のステージとか、

そういうものはもちろんエネルギーの動きでシーンは変わるのだけど、

「真理」へ至る、「悟り」へと至る、すなわち

「自分、全て」を知り、空へと至るという道は、

あまりに段階性があって自然なのです。

 

上で引用した覚者の方の言葉を借りると、

今もっと多くの人が様々なツールとメッセージと動きにより、

最初のステージから次のステージへ触れよう、触れたいとなってきている。

 

でも私が感じるに、

ここを行き来しながら、まだ「私とはこうだ」としがみつくから、

ストップがかかる。成長が止まる。

進化が枯れ、止まり、満足し、断定し、決めつける。

 

先はまだまだ永遠にあるのだけど。

 

 

そこから「自分」の本質、素を知る「見性」へのステージも

また段階があります。

 

最終的に自分という人間の「習氣」、習慣的な自我煩悩のエネルギーの欠片はつきまとうもので、

どれだけ「覚者」だと「目覚めた」という体験が何度もあっても、

そこにもまた言葉にはできない段階があるのです。

 

何もない、空だ、無だ、何でもありなのだ、

ただ起こっていて、それでいいのだ、愛なのだ、

というような言葉を超えた、あらゆる全体の「習氣」すらも超え続けるところに、

終わりのない、完成のない完成度が自然と出てくる。

 

体現って、人間性って、生き様って、芸術って、

そこから全てが立ち上がるもの。

 

浅い、薄い、お人好しで、なんかずれてく?

 

体得とは、見えばわかり、出てくるもの、すべてが物語るものです。

 

 

 

 

 

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