• 24Apr
    • 愛が生まれるところ

      人はみんなひとりぼっち。それは「孤独」という概念や言葉を超えたところにおいて、素晴らしい自然の祝福です。「孤独」という名の清らかな実相を知ること幼い頃どんなに安心する場や手があったとしても、ふとそんな言葉にならない中立な祝福の一人ぼっち感を誰もがどこかで感じていたはず。理由や原因がわからなくても、母親や父親や兄弟や学校の友達や、おもちゃや大好きなものからも、ふと突き放されたような、ポーンとどこか宇宙の果てに飛ばされてしまったような、「ひとり感」。表向きでは「私はこういう人」「私はここではこういう性格で振る舞いをする」「こういう時はこういう風に考え、思うこと」と色々な記号を集めて、従っていることで、自分の足元や立場や居場所を確保する。大人になると、そんな「ひとり感」は不安のエッセンスになり、それを何かや誰かで埋めようとすることと、記号で動くことが正しいことだと疑わない。だから想像もつかなかった突風が吹いてきたらすぐに飛ばされ、想定外の出来事に慌てふためき、答えがすぐ出ないから混乱するだけで、記号通りにいかないことがダメなことだと落ち込み、私はこんなんじゃない、私にはこんなものはいらない、などと分析して、それはそれはカッカして、どんよりする。大人になっても、ふとした折に、宇宙の果てにひとり飛ばされるようなことがある。身につけた鎧が重くなって、仮面の下は笑っていない自分がふと、ひとりぼっちになる。そのとき、実はずっとひとりになりたかったんだと気づく。実はずっと、生まれたときから、生まれる前から、ずっとひとりだったんだと。私のお母さん、お父さん、お姉さん、弟、おばあちゃん、友達、子供、仕事仲間、旦那さん、義両親、親戚、周りの人が、私には欠かせないと思っていたけれど、私はずっと実はたったひとり丸ごとそのまんま、だったのだと。そして周りの人みんなそれぞれが、同じように立派なひとりぼっちなのだと。そうして初めて愛が愛になる。依存したり期待したり嘆いたり焦ったり重くならない、ピュアな愛がひとりで立っている。愛すらも、全部がひとりぼっちなのだからこそ、私達は全てを同じように愛せるのだと。自分も他者も。他者も何かも。我こそが孤高でひとつだからこそ、そこに何もくっつかないからこそ、尊い愛そのものなのだと。本当に完全にひとりになれたとき、愛するという行為が本物になる。

  • 23Apr
    • 暗号

      (the picture is borrowed言葉にならないことだらけ。私たちはどれだけ五感にコントロールされていることか。どれか一つでも落ちると、新たな暗号が浮かび上がり、新たなセカイが広がる。画像が消えて、音が消えて、言葉が出なくて、香りも触感もなくなると、無限の暗号が整列し始める。すると、それらはなくなってしまうのではなく、最小限の乱れと最大限の機能を創り出す。キリストが十字架にかけられても再誕したというのは、人はいつしか五感と肉体をも超えないことには、狭き天の入り口には入れないことのシンボリックメッセージ。それは感性や機能や体なんてどうでもいいというような短絡的な意味ではなくて、暗号を解いた自由な可能性をいう。言葉にならないことばかり。人間って面白いけど、面倒くさいね 笑

      8
      テーマ:
  • 20Apr
    • イスラエルの太陽と祈りの詩

      2週間前のイースターは冬のようだったのに、70年ぶりに4月の最高気温だったとか。突然真夏みたいになって、衣替えもしていなくて困る。ひと昔までイギリスの夏はドライで過ごしやすかった。日本と比べて湿気がない分スッキリとしていて、クーラーもいらず、朝晩は冷えるくらいでちょうどよかった。それがこの数年、暑くなると過ごしにくい。蒸し暑さに加えて、日差しが異常に強くて焼付く。太陽がより近くなったような。昨日のような異常な夏日の照り具合、日差し、太陽の感じは、20年前に行ったイスラエル/パレスチナのそれらと同じだと思い出した。中東の太陽の感じと同じって、ちょっと理論では説明できないけれど、なんかそういう雰囲気にイギリスが包まれているような感じがする。もはや私が長年知っている、前のイギリスの太陽じゃないなあと。。。イスラエルは多分もう一生行くことがないかもしれないけれど、独特なエネルギーを持っていて、不思議なところだった。紛争の土地で、ひょっとしたらいつここで私も死んでもおかしくないなあと本気で思った。いろいろなことがあって、とても複雑な時間だったのだけれど、焼付く終わりの見えない中東の太陽が沈んで、不思議な音のするある夜に、丘の上で私は日本の歌を歌った。参加者達とキャンプファイアーを囲んで、何かのゲームで私は歌わされることになったのだ。私は幼い頃は歌手になりたかった。大学時代はゴスペルクラブにも入っていた。それくらい歌うことは大好きだったが、まさか30人以上のパレスチナ人とヨーロピアンの前で、イスラエルの夜の丘で歌うことになるとは夢にも思わなかった。何を歌おうかと迷ったが、簡単で短い歌、歌詞を全部覚えている歌として、すぐ思い浮かんだのが吉田美和さんの「beauty and harmony」という歌だった。ホースの中 水が暴れる 青い 夏の庭の蛇下弦の月 目の高さで光る オリオン座鶏頭の赤向日葵の黄色海に洗われた 小石この世界の美しさをずっと あなたと 見られますように私は恥を捨てて、燃えたつ火を見つめて歌った。キャンプを通してみたり、聞いたり、知ったこの土地で、奪い合いという名で命を落としたり、嘆いたりしている人達を思いながら。私が歌った後、丘はシーンとして、一瞬誰も口を開かなかった。一瞬の静寂を、今でも覚えている。聴き手に歌詞など分からなくても、歌は祝詞となって、祈りとなって、響くことをそのとき感じた。歌がうまいとか、下手とか、音痴とか、そういうことではなくて、言葉を超えるものは、いつだって可能性のエネルギーであるということ。乾いた風と熱いお日様は、深く静かな言葉少ない夜を運ぶ。イスラエルとは、やはりちょっと土地的に特別なところだと思う。イギリスがイスラエル化してると言ったらおかしいけれど、降り注ぐ太陽の熱はやっぱりあの匂いがする。この世界の美しさを、ずっとあなたと見られますように。20年後、この先も、同じようにそう祈り、うたう。

      13
      テーマ:
  • 19Apr
    • 命の息吹

      (the picutre is borrowed)この記事でも以前触れたのですが、日本語でいう「真心を込める」とき、人は一個人という枠を超えて愛の氣と一体になっている。真心を込めているとき、オリジナルの(氣)力、もしくは想像を絶する力、神聖で神性で真新しい概念にならない力、コスモスの力とつながるから、命にスピリットが宿る。命にスピリットが宿るとき、全身全霊がその力=集中力になっているから、天地創造、天地一体、万物一体愛しか起こらない。万物一体愛は、真善美でしかありえない。それしか命の原理とサイクルはないのだと知るとき、すべてがその結びの動きとなる。だからたとえ何をしていても、どんな些細なことでも、その物事に真心という無心で癖のように向かうようになり、集中しかなくなり、雑念は雑念として浮かんでは消え、怒りや喜びも浮かんでは消え、同じように集中する。よって、何をしていても同じになる。何をしていても創造しかなく、一体しかなく、個人ではなく、すべてがまとまって結ばれた動きだけになる。そこにはあらゆる豊かな美しさがあり、地獄ですら天国である。何をしていても「一念」で始まり、終わり、まためぐる。そんな真心から起こるスピリットは、すなわち愛でしかないからこそ、枠が何もなく、集中しか起こらない。それは頭でも、胸(心)でもなく、腹で起こる神秘であって、腹が車輪となって動かしていく。腹という車輪すらも、いつかは溶け去って、ただずーっと永遠の今が動いていく。意味ではなくて意志を持っていたはずが、いつしか意志すら「当たり前」になり、いつしか愛だけが「当たり前」になる。社会では愚鈍で結構。阿呆ではなくて大いに愚鈍で、陰の人となって、風のごとく爽やかで気持ちよい。爽やかだけど何もくっつかないから鋭く、突風もある。春風舞う空の、一瞬のイナズマ。山岡鉄舟はそういった。命の息吹。スピリットを込めて。

      9
      テーマ:
  • 17Apr
    • 「わたし」の療法と完治

      多かれ少なかれ誰もが、「自分自身だと信じて疑いもしなかった自分」の先に触れることがあります。原因がはっきりと見える不安感や焦燥感ならまだ理屈で片付けられるけれど、理由も根拠もないそれらは、さらに深く惑わせます。例えば、昨日はすべてが完璧に感じられて、豊かさと感謝でいっぱいになり、生きているって楽しい、嬉しいと元気だったのが、その翌日にはその気分は鎮まり、同じテンションはわかず、あらゆることが面倒になったりすることがあります。すると人は思い煩います。「何が不満なのだろう?何でこんなに暗い気持ちになるのだろう?何をどうすればいいのだろう?」と。そしてあれこれ理由を見つけて、安心しようとします。「生理前だから」「満月だから」「天気が悪いから」「あの人があんなことを言ったから」「病気だから」「昨日あれを食べたから」「今週これをしなくてはならないから」「あれがないから」「これがあるから」…幸せや明るさや豊かさ、嬉しさ、テンションの高さや、力の出方、リズムや落ち着いた感じから、それらの反極となる感覚、感性、定義に同時に振り回されながら、あれこれ理由なり、逆転させるツールや環境や、正解、正論を求めることがいつしかクセになってしまいます。確かOSHOのタントラ(性のエネルギー)と禅についての言葉だったと思うのですが、例えばタントラやヨガや氣の原理などの様々な法は、病気があったらそれを治すための療法みたいなもので、それら含めたあらゆるすべてを超越する禅は、病気が完全に治った状態のようなもの。だからあらゆるツールによって療法的なエッセンスでアプローチすることもあれば、非二元性、禅、タオのごとく、一気にジャンプして、真理のアプローチもある。ピュアなエネルギーの科学とピュアな実相は、自然と当たり前に相互関係みたいにもなるから。だから医者が心臓の病気なら心臓をまず検診するように、「氣」という観点、エッセンス、側面から言えることもある。(すなわち体とか心、意識に繋がる)けれどもやはり本質の原理、唯一の実相、根源の愛、力、本領域、禅などの概念や言葉を超えた「Being」の自分を知ることは何よりもパワフルな真実であり、神秘であって、またいかなる薬でも療法でも届かないところまでカバーされる。療法を越えるから、精神的なことから物質的なことまで、あらゆるエリアで「パーフェクト」に生きることができるようになります。その実相の中で生きることが、すべての人間の幸せではないけれど、その実相の中で生きれたら、幸せという言葉すら持たない無限が生きることになります。誰もがいつかは、角にぶつかる。自分という先があることに、ふと気づく。それは幸せとは全く無関係なことです。

      15
      テーマ:
  • 16Apr
    • 再誕

      (the picture is borrowed)人の命とは、運命とは、完全なオリジナルへの誘い(いざない)の旅のようなもの。そう感じます。どういかに命を持って、オリジナルへと飛び込んでいくか。瞬発的で客観芸術的な真なるオリジナリティー。狭くて小さな四角い箱から出るような。窮屈で息苦しい着ぐるみを脱ぐような。ひとつ窓を見つけたと思ったら、また別の窓を閉じて。一枚脱いで楽になったと思ったら、また新しいものをつけてしまう。これでいいと結論付けた途端、別の言葉が聞こえてくるみたいに。これしかないと信じた途端、他の模様が目に飛び込んでくるような。どこにも拠り所がなく、何にも定義はできなくて、正しいものはひとつではなく、あらゆるすべてはオリジナルではなくて、ただのコピーでしかないのなら。名前や性別、生い立ちや過去、性格や環境、好みや特性や顔立ちすらも、オリジナルではないのなら????混乱という変化球のように、ブラックホールに一気に飛ばされる。それはあなたの本当のハッピーバースデー。生まれたての命は、その死すらも恐れない。恐れを知らない。あなたのオリジナリティー。さあこれからどうやって生きていく?

      7
      テーマ:
  • 12Apr
    • 禅と神秘と自然はひとつ

      以前にも少し書いたのですが、昨年の初夏から中医学基礎と指圧師のコースを取っていて、今はケーススタディ(3人にそれぞれ4回セッションを行う)をしています。ケーススタディをまとめたら、最終テストを受けて晴れて資格を取るわけですが、目標にしていた来週の新月には間に合いそうになく、ちょっと残念( T_T)指圧というより氣圧と言った感じの、全身全体のセッションとなるのですが、やはり基本的に氣が動けば心が変わり、肉体が動き、肉体が動けば心が変わり、氣が動き…という自然なる循環は、命の神秘だとつくづく思い知らされます。肉体の使い方と心の使い方、肉体の癖(話し方から立ち方、姿勢や体力、しなやかさなども)と心の癖。どちらも同様に、元となり、型となり、波となるのは氣ですから、お互い様で成り立っています。どれか一つ、ピンポイントでこれだけ、という理由や理屈や要素ではなく、どれもこれもが複雑に繋がり合っているからこそ、唯一自然にシンプルに寄り添いながら、頼りにできるものとは、やはり「本来無一物」という愛という概念を超えた愛の力、なのだと私は感じます。「私」が「何かを治す」のではなく、「私」が何をもしないからこそ、神秘だけが力としてなされる。そうあることで、「誰か」が所有している「痛み」とか、「苦しみ」とか「違和感」とか「不安」とかが、所有されなくなり、無所有になるから、いわゆる突破口が出来て、命の自然なる力だけが湧き上がってくる。それだけだなあと思います。資格を取ったら地元で紹介制のみでセッションを行っていくつもりなのですが、すでに数人のお友達が興味を持ってくれたりして、嬉しいですv(^-^)イギリス在住の方には出張でも行っていく予定で、また他兼ねて、何かいろいろとワークショップとかもやっていきたいなと思っています。

      13
      テーマ:
  • 09Apr
    • 粋のある人

      (the picuture is borrowed)3、4年前からいつかお会いしてみたいなあと思っていた、物理学者で合気道家の保江邦夫さん。最近ふと思い立ってこの本とこの本を日本から取り寄せて読んでいるのですが、私が師から学んでいる禅の伝統空手道の教えと根元が自然と重なるので、とても興味深くて面白いです。合気道創始者の植芝先生の言われた、「宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を、正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬すること」。いつの時代も、掘り起こしてみるならば、様々な表向きには決して見えない要素が複雑に絡まり合っているのだと、最近つくづく感じます。知らぬが仏とはよく言ったもので、この物質的な世界や社会の構造やシステムとか、歴史の裏や悪循環など、実は全く知らないでいる方が楽なことばかりなのかもしれません。私は武道や禅やヨガの教えなどを生きてきた上で、明治維新の前くらいまで古の日本人が持っていた、命の真相に基づきながら、独特の色と香りが加えられた美しくて斬新で、宗教や哲学や概念を超えた「Being」生き様、人間性みたいなものを、伝えてきているのですが。時の流れと希薄になってきているのは仕方ないけれど、やはり美しく素晴らしいものだから、伝統とかという枠を超えて、真実としてただ残したいなと。命の真善美、人間性、豊かさ、可能性だなと思うから。でも、どうして希薄になったんだろうと見た場合、いろいろと個人的に調べたり、情報が向こうから勝手にやってきて、それぞれのピースを合わせていくうちにわかってきたのは、それは希薄にすべく工夫されたプランの一つであったということ。そのプランナーにとってみたら、今の世界の中にある日本の存在なんて、願った通りであって、もう待ってましたとばかりの姿なんですね。けれど、その反対にも、陰で日本人の心がまた自由に明るくなり、みんなで元気になっていこう!それぞれで力を出そう!という動きだってちゃんと出てきている。命の、宇宙の氣は、絶対なる愛の力は、どんなコントローラー、プランナーの工作にも呪いにも影ににも及ばない。何が起ころうと、何を食べようと、何になろうと、何が変わろうと、何が無くなろうと、何がなくても。何にも及ばない。最大に命を使って、果たして、いつだってときがきたらどんと天に還る。そういう粋な生き方と心の人間がもっといる。そう思います。

      13
      テーマ:
  • 07Apr
    • 自分は何もしていない

      いわゆる無心、空である、ということとは簡単に言ってしまうと、自分がやっている、何かをしている、なしているという概念や感覚が消滅することです。かと言って、ロボットのように、石のようになることではなく、迷いや雲りがなくなるため逆に力が湧き上がり、動きがダイナミックになり、何も握りしめないから軽やかで透き通り、分散せず集中した瞬間だけになります。むしろ水のような感じです。けれど、武道というアートの学びの中では、その境地のまま動き、あり続ける段階において、マスターレベル、完成度は異なります。武道では、何かのおりにどうしても、微細なる不安や恐怖感などが、ふと湧き上がることがあるため、瞬時に交わす動きなどに反映されて、不自然になってしまうことがあからさまになったりします。禅のアートはどこまでも完成はなく、奥が深いなあと、毎回失敗しながら感じます。技術や力量やサイズや意気込みなどではなく、あらゆる面で全てを超えた何かには、瞬時の不安の認識は映らないので、完璧な調和が生まれます。瞬時を過ぎると、わずかな微妙な影があったことに気づきます。認識のない動きのアート。わたし達は、なんでも自分がやっている、なしている、という風に心も体も使うため、集中せず分散され、無駄に拡散してしまうので、酷く疲れたり、苛立ったり、悲しくなります。自分がやっているのではなかったら、一体何が?から始めてみると、ふと握りしめたチェーンが外れるかもしれません。

      12
      テーマ:
  • 04Apr
    • 立ち向かう命は真善美

      大雨、低気温、どんより雲の春休み。イースターの祝日もはさんで、冬の格好で冷え込む中、以前住んでいたケンブリッジまで友人を訪ねたり、夫の実家に泊まりに来たり。満月前から今だに夜眠りが浅くて、やたら入ってくる情報みたいなものに、ちょっと振り回されてる感(´ー`)小さな針の穴から見える景色。それを外して初めて見える広い全体。常識や道徳や歴史や価値観やステータス。大きな見えない影のプレーヤーの、思うままにコントロールされないために。個人のあれこれや、身の回り、人生などを越えた部分のコントロール。全体のコントロールとも言える何かは、個人の人生に層となって根強く蔓延ってる。あまりに無意識だから、社会的だから、感じれないし、見えてこない。これからは本当にひとりひとりが、ひとりという、自分という小さな穴で見える景色を出て、一気に広がる景色だけを見ることで、一斉にパワーを蘇らせるときだと、わたしは感じる。あまりに影の威圧、洗脳みたいなのが強まってきていて、ふとわたしのものではない心が、折れそうになるけど。こういう怪しい、いわゆる予言めいたことはシェアする必要はない。あえて、もっともっと、明るくたくましく美しい力をシェアしよう、と誓った2018年の復活祭でした。命の真善美。古の智慧、叡智。本当の神や仏や愛。光。真実。無実。慈しみ。共存。守り、育てる。希望だけ。それらの逆は冗談じゃない。

      10
      テーマ:
  • 31Mar
    • 復活の満月

      月が満ちるとき、わたし達の内なる宇宙も満ちるので、気が立つような感じになります。溢れてヒタヒタになり、埋め尽くされるので、隙間が無い。足の下から頭のてっぺんまで気が立ちますから、胸につかえたエナジーが象られたり、頭に浮かんだものが現実的に見えたりします。Lunaticという言葉があるように、気狂い、気が立つ、は満ちた月のエナジー。否定的な気持ちになったり、分離的な思考になったら、全てをシャットダウンすべく、仮眠をとること。暗くした部屋で20分ほど休むことで、ヒタヒタに埋まったエナジーが鎮まります。あとは普段より水をいっぱい飲むこと。春の満月は生命エナジーの押し上げ、骨盤の開きと共に、より激しく埋め尽くしますから、腰にきたり、肝臓からのデトックスから、全体の浄化が強まります。浮き彫りになる何かを狂気にせずに、明るい前進に変えること。復活、蘇る命のイースター。大きく目を開いて、心臓の鼓動を響かせ、腹で歩いていく。(the picture is borrowed)

      15
      テーマ:
  • 23Mar
    • それぞれの命の道

      色々な人から相談などで、「こういう人がいるんだけど、どうも好きになれない」、「こういうことをこの人は言っていておかしい」「どうしてこの人はこうしないのか」というようなことを聴きます。もちろんそういうことに対して、どうのこうのと一概には言えないものですが、私個人的には「それはそれ」「これはこれ」というようなことをお伝えします。「なんでもジャッジするな」というような頑な思い込みや概念ではまたなくて、「その場」「その場」の流れの中で、ただそのときに向き合えばいいのであって、また終わったら流せばいいのであるからです。私達はついぎゅっと握ってしまうので、「その場」がずーっと続いてしまうもの。その感覚を正しいと信じているから、自分も苦しいで、相手や出来事もなんでも苦しくなります。命の真相のようなものに触れれば触れるほど、つき刺せば刺すほど、「正しさ」は瞬発力と瞬間性になっていき、臨機応変、一期一会になります。なので「こうあるべきだ」という言葉を超えたところでしか光らないので、誰のことも、何のことも「こうだ」という判断は一切消えていきます。判断が消えた先に、本来の「こうだ」の真性が漂っていることがわかってくるからです。なので、逆にどんな人とも自然に付き合えるし、嫌だと思っても、それはそれで終わる。どんなに興味のないことでも、重ならない人でも、おかしいと思っても、気に入らないことがあっても、「私はわかっていて、あなたはおかしい」とか「こうしたらこうなるから、こうしなさい」というような、押し付けと切り離しは自然と無くなっていきます。ぎゅーっとしなくて、パッと手放すから、「何でこいつは!」「何でわからないの!」「何でわかってくれないの!」「同じにしてよ!」というような無言の期待の呪いや怒りの想念は飛びません。届きません。宗教だってピンからきりまでいっぱいで、全然価値観も人生観も異なるようなコミュニティーに住んでいて、子供達の学校だって、私にとってみたら表向きの作業ですが、それでも見下すとか優位に立つとか、陰でけなすとか、おかしいとか、そういう風には心を使いません。まあこうしたらもっと健康になって、もっと笑顔が増えるなあとか、こうすると何かサポートできるかなとか、そういうことは色々と思うけど。むかっとしたり、全然気の合わない人だらけだとしても、そこをぎゅっとして「正しさ」でコントロールして、呪いの想念、つまり否定的で分離的な思い、エネルギーを自分に、そして相手に持たないんですね。世界はそんなコントロールと呪いがあるから、戦争が起きたり、病気や鬱が増えたりもする。合わない、嫌いはあるかもしれない。あって当たり前。でもそこに「合わせる」「好きにならせる」的な強引さはいらないんです。それが減っていくと、いいエネルギーが巡ります。平和、なエネルギーができてくる。だからみんなそれぞれの役目があり、それぞれの笑顔があり、それぞれの貢献があり、やるべきこと、やりたいことを平和のためにやっていく。個人それぞれの力は、応援して。私はそういつも言っています。「ああもうこういう人いや!」「おかしい!」とストレスに感じている人に対して。「こうであるべき」は命の真相をつき刺せば、どんどん壊れて、和の中で調べができてくる。この人のブログ、読んでいるんですが、そうそう。この記事と同じ風に思います。私のやっていることも「道」です。武道も。禅も。心もエネルギーも。古武道とか日本の腹文化とか、伝統とか、日本人スピリットとか、そういうのももっと伝えていきたいし、そういうのも「道」です。この10年間子育てという道と仕事も、ずっと没頭してきて。どれだけとか、規模とか、お金とか関係なくって。子供を見ていると、本当に未来の光のための貢献だわーって心から思うんです。だってすごい自慢の子供たちだから。この人らが未来の明るい光になるからこそ、私はサポートするお役目だわと思ってきて。見ていて、ああよかったなあと思います。お母さん、フルタイムでやってきて。「道」は、自分の枠がどんどん壊れてきて、すべてがそれそのものになる。だからみんな、一緒に頑張りましょう。それぞれを陰で常にサポートしあって。命って自分一人じゃないから。しぜんと謙虚になるし、お互い様ってハートでわかるから。

      17
      テーマ:
    • ひとつのあかり

      (The picture is borrowed)物理的な相手は変わらずにあっても非物理的に相手が消滅する。物理的な自分は変わらずにあっても非物理的に自分が消滅する。禅師の沢庵が書いた「不動智神妙録」には、剣術にまつわるそんなことが書かれています。ここでいう相手や自分とは、他何でも当てはめることができます。心でもいいし、身体でもいいし、出来事でもいいし、環境でも、物でも何でも。物理的な「何か」は変わらずにあっても非物理的にそれは消滅する。非物理的に、見られているものと、見ているものと、見ているという進行形が消滅する。相手が消滅したとき自分が消滅する。相手は自分があるから消滅しない。怒りは自分があるから消滅しない。トラウマは自分があるから消滅しない。自分が消滅して初めて、すべてが消滅する。そこには合一、しかありえないからすべてはひとつであるという真なる理だけが浮き彫りになる。それは二つの目を超えた、もうひとつの目でしか見えない消滅と現実

      4
      テーマ:
  • 21Mar
    • 蘇生の春

      春分を迎えて、今日は太陽の光がすごい🌞春のエネルギーは、下からの突き上げ、骨盤が開いて上がる感じになります。生命力溢れる季節なので、ワクワクする感じ。生きている幸せと希望。なんだか本当にうまい具合に、全ては流れ、巡っているのだと思います。この前の記事に、世界、地球に対する危機感を感じるといったことを書いたんですが、わたしの伝えてるそれは、暗く、重く、悪のエネルギーに持ってかれそうな、引っ張られてしまい、潰されてしまいそうなものではありません。逆に、反転できるような、バランスをとるための力は、新たに出てきてるからこその、いたってニュートラルな感覚です。中立であるとは、柔軟であり、優しくあれ、リミットがない。何をしていても、光、力を育てよう、と中立に動いている人は、誰もが天使です。希望の春!ワクワクする!(The picutre is borrowed)

      9
      テーマ:
  • 20Mar
    • 自然体

      溜まってくるから重くなる。重くなるから溜まる。吐き出さないから出なくなる。出なくなるから排除できない。理屈と言葉と理解で分析するからこんがらがる。こんがらがるから理性しか使えなくなる。左ばかりで右が動かない。右が動いていないから左しか機能しない。一個しか見ていないから全体が見えない。全体が見えないから一個しかないと信じて疑わない。信じているからそれ以外は否定と憎しみと無視になる。否定と憎しみと無視ばかりになるから他に名案が出てこない。左も右も上も下も一個も全部も憎しみも笑いも言葉も感情も思考も身体も意識も呼吸も何にもひっつかない真ん中に 安心して落ちて安堵で上がり安楽 苦楽 迷わないこと

  • 19Mar
    • ファミリー

      新月の日から再び雪のイギリス。この地で三月に白く凍る景色を見るのは、わたしは初めて。花々の蕾も、しぼんでしまいそう。長い長い寒い冬。季節感が狂ってしまう。今日は二カ月になる赤ちゃんに会いました。ずっと抱っこしてたから、腕が痛くなりましたがε-(´∀`; )アンとウーのこと、覚えているようで、あまり覚えてないもんだなあと思いました。小さな人間、全部セットになって、すでに用意されて、贈られてきてる。肌や目や鼻や爪も、背骨も心臓も唾も、命が機能できるようにセットされてる。まだ自我がないから、本当に子宮にいたときの、宇宙に漂う感覚での、being。二つの目には何も映っていなくて、何一つ残らない。イノセントな命。誰もが同じ母から生まれ落ちる。誰もが同じ父を持つ。誰もがシスターであり、ブラザー。誰もが同じ祖先から繋がっている。奪い合いではなく、誰もが同じ家にいるのだから、彼には彼の貢献が、居場所が、役がある。家族でも、みんな違う雫です。雫同士は、大海を奪わない。違いは違いのまんまで、大海というホームへ落ちる。大海は一つであり、奪うものにはならない。違うことはそのままに、命の家族を、ルートを思い出し、みんなが家に、母に、父に抱かれいることを。小さな新米、いらっしゃい。わたしもあなたのお母さんだよ。子供はみんなが家族だと、無言で教えてくれる先輩です。

      10
      テーマ:
  • 16Mar
    • 不動なる智慧

      (The picture is borrowed) 諸仏不動智と申す事は、 不動とはうごかずといふ文字にて候、 智は智慧の智にて候、不動智とは、動かない智慧のことを言う。 不動と申し候て石か木かのやうに 無性なる義理にてはなく候、 向ふへも左へも右へも、 十方八方へ心は動き度きやうに動きながら、 卒度も止まらぬ心を不動智と申し候。 不動と言っても石か木のようにじっとした無性なるものではなくて、向こうへも左へも右へもいたるところに自由に動きながら一瞬も止まらない心を不動智と言う。  一向の凡夫怖れをなし、  仏法に仇をなさじと思ひ、  悟りに近き人は不動智を表したる所を悟り、  一切の迷を晴らし、  即ち不動智を明らめて此公身即ち  不動明王程に此公心法をよく執行したる人は、  悪魔もいやまさぬぞと知らせん為の  不動明王にて候、  然れば不動明王と申すも  人の一心の動かぬ所と申し候、  又、身を動転せぬ事にて候、  動転せぬとは物毎に留まらぬ事にて候、  物一目見て其の心を止めぬを不動と申し候。不動明王の姿は不動智を人間に見せ示している。この姿を見た人は通常恐縮し、敵になることだけは避けようと願う。悟り近きものはこの姿が不動智の表現であることを知り、一切の迷いや幻想は消える。すなわち、不動明王のように不動智なるものを身を持って実行できるため、いかなる悪のスピリットも及ばない。不動明王とは何にも動かされない心と体を表している。 千手観音とて手が千御入候は、 弓を取る手に心が止らば、 九百九十九の手は皆用に立ち申す間敷候、 一所に心を止めぬにより、 手が皆用に立つなり、 観音とて身一つに千の手が何しに可有候、千手観音は手は千本もあるが弓を取る一本の手に心が止まれば残りの999本の手は全く機能せず、役に立たない。一つのところに心を止めないことですべての手が用に立つ。さもなければ観音として千本の手は何の意味があろう? 不動智が開け候へば、 身に手が千有りても 皆用に立つと云ふ事を 人に示さん為に 作りたる容にて候、不動智が開けば体に手が千本あってもすべて同時に使えるという智慧を人に見せるために観音さまは作られたのである。 仮令、一本の木に向ふて、 その内の赤き葉一つを見て居れば、 残りの葉は見えぬなり、 葉ひとつに目をかけずして、 一本の木に何心もなく打向ひ候へば、 数多の葉残らず目に見え候、 一本の木に向かって見るときその中の赤い色の葉を一枚見ると残りの葉は目に入ってこない。葉一枚に目をかけず、一本の木全体に何の心もなく向かって見つめると、他多くのすべての葉が残らずにいっぺんに見えてくる。 葉一つに心をとられ候はゞ 残りの葉は見えず、 一つに心を止めねば 百千の葉みな見え申候、 是れを得心したる人は、 即ち千手千眼の観音にて候 沢庵宗彭 「不動智神妙録」より葉一枚に心を止めると残りのすべての葉は見えない。一つに心を止めないと百、千枚の葉がすべて見える。この心を知るものは、すなわち千手千眼の観音と同じである。

      11
      テーマ:
  • 14Mar
    • 5つの心 ③

      前回からのつづきです。ぜひお時間のあるときに、1から読んでみてくださいねo(^-^)o一見難しそう、でいて、とてもわかりやすい天風氏の言葉。まさに理性を超えた霊性心、真心、天の声のメッセージです。私が伝えている「スピリットが宿る」とはまさに意志のエネルギー、集中力、霊性、真なる力、ここでいう「積極的に生きること」と同一です。 「心を尊く、強く、正しく、清く生きろ、そういうふうに生かすために、明るく朗らかに、生き生きとして勇ましい気持ち、心持ちを持つようにしなさいと言っているのは、精神至上主義じゃないんだよ。精神至上主義というのは心が一番尊い、心以上に尊いものはないという考え方。私は違う。人間にとって心も体も生きるための道具。一番尊いのは霊魂という一つの気体。これがあなた方の正体なの。 一体霊魂と言うものに心がないのかというと、ある。霊性意識というものがある。そこからいわゆる霊感や霊能と言ったものが出てくる。要するに正義の実行を行う場合の本心、良心が霊魂の気の動きの心理現象だ。それを多くの人々は肉体について働いている心だけが心の全体だと思っている。要するに精神我を本位としたり、肉体我を本位としたりして働いている心は、本能心であったり理性心であったりするから、人間を非常に迷わせたり、苦しませたりする場合が多い。本心、良心である霊性心があまりでないものだから、正しい使い方をしないで,かえって本能心や理性心に追い使われてしまって、心の取り締まりがルーズになっているんだ。だから苦しみや迷い、妬み、憎しみ、悲しみ、恐れでのたうち回るような人生になってしまうんだよ。 「俺は肉体だと思ってきたがそうではなかった。俺は今まで心だと思ってきたが、そうでもなかった。見えない気体、いわゆる霊魂、これが俺なんだ」と考えないといけない。つまり第三者の位置に立って、客観的に自分の肉体や心を考えると言うことになると、健康も運命もどれだけ違った方向によりよく働き出すか判らないんだよ。 この体を自分だと思ったらいけないんだ。体は自分のもので自分じゃないんです。丁度あなた方の着ている着物と同じものなんだ。それを少しでも肉体に病が出たり、運命に非なるものがあると、すぐ肉体を自分だと思っちまうんだよ。何故そういう間違いを、間違いとも思わないで平気でやっているかというと、心が消極的だからです。 心が積極的でないと、感応性能が弱くなってしまう。調子を崩してしまうと、どうしても心が肉体本位で働くような状態に自然になってしまうんですよ。つまり本能心に誘惑されて感化されるんです。ところが心が積極化された状態であれこれ作用すると、ああ、肉体は自分じゃないという事が自然に判ってくる。肉体は本当の自分が生きる道具で、本当の自分というのはもう一つ他にあるんだ、という事に気がつくんですよ。人間の心が積極的になると肉体から心が煩わせられなくなる。例え病気があろうがなかろうが、それを相手にしません。 夢中で芝居なんか見ている人間は蚊に刺されても知らずに見ています。あれと同じだ。結局心が積極的だと、肉体の色々な変化に引きずられないんですよ。心が肉体に引きずられないと、ハハア、本当の自分の正体は目に見えない気体、その気体(霊魂)が一切のものを活動させている大根大元だという事がわかるんです。 その気体があなた方の命の取締役であり、総裁であり、会長であり、マネージメントの実力を持っているものなんですよ。それが判るようになると、自分の命の主宰権をもっているのは肉体じゃなかった、心でもなかった。見えない気体が自分の主宰権を持っているという事が判る。この気体を日本語では霊魂と言っている。英語ではスピリットと言う。この真理を悟れば、悟ると同時にそれは確固たる信念になります。 だから「自分と言うものは肉体や心の奴隷でもなく、従者でもない、したがって肉体や心に使われるべきでない。どんな場合でも心を立派に使いこなしていけなければいけない」と言う悟りを開かなければダメなんだよ。それが本当の完全な人間なんだ。心が絶対的に積極化される人間となるには、先ず何を老いても心を生命の道具として使いこなしていける「意志力」を出す人間にならないといけない。 意志の力を強情張りと同じにしてはいけないよ。乱暴と勇気を一緒にしてはいけないのと同じ道理だよ。自分に意思力があるかどうかは、自分自身が神経過敏か、気が弱いかですぐわかるんだ。意志の力で煥発されている人間には神経過敏や気の弱い人間はいないですよ。意志力が煥発されると否定的な、消極的な、悲観的な事は考えないんです。 意志と言うものは霊魂からでてくるもので、心の中にあるものじゃないんだ。ところがどういうわけか意志と言うものを尊重しないで、理性と言う心を非常に重く見てしまう。それで理性さえ優れていれば心は完全に統御できると思っている。しかしそうはいかない。 何故なら理性心で本能心は統御できないからなんだよ。又仮に理性心で本能心が統御できたにしろ、理性心は誰が統御するんだい。理性心に間違いはないのかい。 そもそも意志と言うものは人間の心の中にある最高級の霊性心すらその支配下においているものなんだ。全体的な権能があるんだよ。これは霊魂の持っている固有性能だもの。だからとにかく意志力を一日も早く完全に出しうる人間になる事を努力しなさい。その為には観念要素の更改を真剣にしなさいな。 「やらなきゃだめだよ、心がけ。むずかしいことでも何でもないんだもん。そりゃもう最初のうちは何べんかやり損なうよ。いきなり成功なんて、めったにありゃしない。転んだら起きろ、倒れたら立ちあがれというふうに、いいか、屈せず、文字どおりたゆまずやるんだよ。そうすると、いつか必ず「ああ、なるほど、変わってきたな」という自己歓喜にひたるときが必ずくるから、さらに大きな期待と夢と楽しみを胸に描いて、心を研ぎあげなさいよ。」1から連続で長かったですね 汗最後までお読みいただきありがとうございましたo(^-^)o心のヒント、風になることを(まさに天風ですね)心から祈って。

      11
      テーマ:
    • 5つの心 ②

      前回の続きです。 「それでは、本能心を統御、監督するものは何かといえば、それは「意思の力」であります。人間の本体である霊魂の中から出てくる意志の力が、本当にこれらを監督する権能を持っているのです。意思を渙発せしめるには、そのカギを握っている心というものにその主体性を発揮せしめないといけない。それには何を置いても心を積極化しないといけない。」 「理性心は人間だけに与えられた心で、物の良し悪し、間違い、正しいを見分ける心です。おのれが考えていることが間違っていると、正しいことだという事を判断してくれる心です。ところが、この理性心だけを標準とし,これに頼って生きると思い違いをすることになる。理性で判断したり、統御したりできることは限られているうえに理性心は一日一分と同じ状態でいないんです。おととい考えたことを今日考えたら違っていたという事がありゃしないかい。要するに理性というものは向上し、発達し、変化するからです。その変化も一方向ではない。だから変転極まりない発達性を持っている理性を標準にして生きようとする計画は、狂っているコンパスを当てにして航海するようなものなんですよ。」 「そもそも心の中にある煩悶とか失望とか、悲観などというのは9割9分、整理されない本能心と理性心との相克、衝突によって生じるんです。あなたがたの現在はしょっちゅう本能心が占拠する、そうすると理性心が見るに見かねて、チョクチョクと横槍を入れる。そうすると本能心が「余計なことをするな」と食ってかかる。そこで理性心がまた居丈高になってつかかっていく、こんな状態です。理性心というのは、早い話がなんの力もなく、ただ小理屈をこねて、ベラベラさみだれ小言を言い続けている家庭教師みたいなものです。本能心の方は、始末におけない、親のいう事を聞かない、わがままな子供みたいなものです。理性心では本能心は統御できないんだよ。」理性心というのは、早い話がなんの力もなく、ただ小理屈をこねて、ベラベラさみだれ小言を言い続けている家庭教師みたいなもの。本能心の方は、始末におけない、親のいう事を聞かない、わがままな子供みたいなもの。理性心では本能心は統御できない。私はどうしてもこの部分が言葉で説明できない感じがしたんだけど、まさに!どうしてもね、ここからさらなる次の霊性心まで入ってくるのに、また理性で「理解できない」で終わる人がいっぱいなんですね。でもみんなそれぞれのタイミングがあるから、ただ運命です。霊性心というか、「命の本性」だからこその、人間の世界があれば全然変わってくるのだけどもね。私がやってきたこと、伝えていることなどは、禅そのもの、霊性心です。これを日本人は真心、真理の心、和の心、もしくはスピリチュアリティーと表現します。 「理性心は勿論必要だけれど、当てになりません。こういうとどの心も当てにならない、造物主というか、神様というものは、人間に当てにならない心ばかりを下されたんか、というと、そうじゃないんですよ。人間ならばこそ、どんな場合も間違いなく人生を生きて行ける立派な認識力を持ち、統御力を持っている心があるんです。それが霊性心です。本能心や植物心、理性心は生きるのに必要な心ですから、これは必要に応じて出せばよい。出せばよいけれど、それに全生命を託してちゃダメです。全生命は霊性心にお任せしないといけない。こういうと「難しいことを言って」というだろうけど、霊性心は一番出しやすいんだよ。あなた方は一番出しやすいものを出しにくいと思って、迷わずとも良い人生、苦しまずとも良い人生を、迷ったり苦しんだりしているんです。」 「造物主は、人間を万物の霊長として生きろという思し召しで、霊性心というありがたいお力を与えたんです。そして、我々人間はこの力をもってこの世にでてきたんです。その力をつかわないで、神様、仏様といっても助けてくれませんよ。「天は自ら助くる者を助く」なんです。少なくとも人間の心に意識の東雲が明けそめし頃から(意識が芽生えた時から)、この霊性心はあったに違いない。どうもその証拠には、昔の人間のほうが霊性心を出している場合が多いもん。それをあなた方は、だしゃだせるようになっている心を、出ないような人生の生き方をしているから、出ませんよ。それじゃあ、どうすれば出てくるか。わけありません。雑念、妄念を常に心の中にできるだけ燃やさないようにすることだ。さっきから何べんも言っている。心の中に消極的な観念をだす度数を少なくしてごらん。霊性心は、心が純一無雑のときにでてくる。私はそれをね、インドで難行苦行中に発見したんです。」 「心身を統一するときに、いちばん心身統一の妨害になるのは心なんだ。心の中のいろんなよくない思いごとや考えごとをとるために難行苦行するんですが、その難行苦行してる間に悟ったんです。山の中で、ポツーンと朝から晩まで一人で座って座禅を組んでるんですから、最初の間は雑念、妄念、むら雲のごとしです。けれども、日がたつにしたがって、何を考えようったって、どうにもしようがねえ、山の中だもん。そうすると、自然に雑念、妄念がだんだんだんたん出なくなるんですよ。そのとき、スーィ、スーィと、自分でも全然考えてなかったような名案、工夫がでるんだよ。それで、朝と晩だけはカリアッパ先生が一緒に山へくっついてくるから、帰りがけ、先生がロバに乗っていく後ろを歩きながら、「先生、今日、座ってる間にこんなこと考えました」、すると「おう、インスピレーションがでてきたな」と、こう言ってくれたんです。」 「霊性心が本当に自分の命のものとなると、ぜんぜん今までと違った頭になってくる、今までと違った頭というのはね、雑念、妄念のあんまり起こらない、いつもクリアなスッキリとした,それこそ磨きたての真珠を薄絹に包んだような気持ちになれるということです。努力しなくてもそれは自然となれるんです。」 「死ぬ時刻まで言ったろ。奥さんがこれを聞いて、そのときは「ほんまにそんな時刻に死ぬやろか」と思ったらしいが、そのとおり、ピシャッと、1分も違わなかった。そういうときね、事情のわからない人は、病人が私の言うことに影響されて、そのとおりになったと思うけれども、そうじゃないんですよ。そういうことを知ってるのは宇宙生命なんです。はかり知れざる微妙なる働きをもつ造物主が知っている。そのスーパーノリッジ(宇宙創造の敷智)が、私の頭脳に発達すると、インスピレーションがでるんです。だから、自分でも、自分で言う場合、最初の間は不思議だなあと思う。疑いやしないけど、当たるとね、不思議だなあと思う。もうこのごろは何にも不思議だと思いやしませんけど、何十年のことですから。間違いなくピタッとなるのは不思議だなあと思うよ。これは本当に、どんな場合がきても、ワンダフルと思いますよ。」 「だから、あなた方もね、論より証拠、うそじゃない。雑念、妄念、なるべくださないようにしてごらん。それで、心が一点ちり汚れのない磨きたての鏡のように八面玲瓏たる状態になると、出てくれるなと言っても霊性心はすぐでるように自然傾向で出来ているんです。現在、あなた方だって、こういう経験ありやしないかい?忘れたものを考えてるときには思い出さないで、考えない、心が空になった時に思い出されることがありゃしないかい?とにかくあなた方は、雑念、妄念がしょっちゅう、もうもうと浅間山の煙のごとし噴出して絶え間ないから、肝心な心が曇りどおしだもん。考える中に雑念があると、いつか心のレンズは曇らせられているんですぜ。曇ったレンズにインスピレーションは映らないの。」 「病なり運命から心が離れたときは、病があっても、その人は病人じゃない。運命が悪くても、その人は運の悪い人じゃない。よーく寝ている人間は何にも知らない。何にも知らない人間に病があるか。目がさめて、あぁ、病がある、と思うんじゃないか。そのくらいのことがわからないか?たとえ病がないときでも、病のことを心が考えりや、病があるのと同じだ。運命が良くとも、運命が悪いときのことを考えてりや、その人は運命が悪いのと同じだ。そのくらいのこと、もうわかってるはずだ。人の事じゃないぞ。自分のことだ。」 「すべてが心だ。だから、肉体の病は肉体のものにして、心にまで迷惑をかけるな。心に迷惑をかけたくなければ、時にふれ、折にふれて、心に天の声を聞かすようにしろ。つまり、声なき声のあるところこそ、心の本当のやすらぎの場所だ。たまには心をやすめてやれ。そこに心をやすませると、いっさいの迷惑が心にかからなくなる。すると、心の本然の力が命のなかで働きだすようになるんだ。わかったか?」 「涙がボロボ口でたんだ、私、ここにきて。あぁ、外国の大学まで出て、しかも成績が首席で、こんなありがたいことがわからず今まで来た。なんて俺はたわけの大ばかだったろう。こんなたわけの大ばかでも天はそれでも救ってくださろうとして、今月今日、ただいまこの 時、この人の口からこういう尊いことを私の心にささやかれるのかと思ったら、涙がボロボロでたんだ。それから以後は、心をただ天の声と同化させることだけを、折あるごとに、時あるごとにやった。とにかく私が今日あるに至った命の転機、パーッと命のなかのすべてが取りかえられた、いわゆるコンバーション(転換)は、静かに考えてみると、まさにこの心のもち方、現代語でいうと、現実に心機転換を行いえるようになってから以後です。」3へ続きます

      1
      テーマ:
    • 5つの心 ①

      中村天風の本は、数年前に一冊だけ読んだことがありましたが、去年あらためて彼の伝えていたことを知る機会があり、とても惹かれる日本人の一人です。天風氏はヨガですが、例えば整体の野口晴哉氏や、長尾弘先生なども、合気道家の植芝盛平師などが伝え残していることは「体、心、呼吸、意識、氣」であり、「それら全てを超えた仏性」「本性」「真なる理」です。本来どの宗教も、自然科学も、哲学も、東洋医学も、また禅や非二元などのメッセージも、統一して説かれている「何か」に行き着きます。天風氏の「5つの心」はとても分かりやすく、入りやすいので、かゆい所に手が届く感じで、私は「そうそう、まさにこういうこと」と心底同感します。私は武道家ですが、こういう分野をつなげて仕える事としていきたいんですね。部分的にコピーしてシェアします。とっても長いので3記事に分けましたが、お時間のある方にぜひじっくりと読んでもらいたい内容です(^-^)(こちらにまとめて分かりやすく載っていたのでお借りしました) 「さあそこで、心です。一口に、心、心といっても、その働きのうえからみると、大まかに区別しても二色ある。一つは、肉体に属している心。それからもう一つのほうは、精神生命に属している心。だから、心といっても、このどっちかしらの心が、心を動かす心理領域にでて、そして我々にいろんなことを考えさせたり、思わせたりしているんです。たった一色だけが、あなた方の思い方や考え方を決定しているんじゃない。一色だけで思ったり、考えたりするんなら、人間、何にも心というものに苦労しないで、穏やかに心を統御できるんだけれど、そうじやない。「心こそ心迷わす心なれ、心に心、心許すな」というような歌を感心せざるを得なくなるんです。」 「そこで肉体に属している心、精神に属している心をさらに細かく分けていくと肉体の方が3つ、精神のほうが2つある。肉体の方は物質心、植物心、本能心の3つで、精神の方は理性心と霊性心です。物質心は、物のすべてに存在している物の芯を為しているものがそれです。どんなものにも芯というものが有る。金平糖を作るとき芥子粒が芯になっている。そして物質心は心を動かす精神領域までは飛び出してこない。この世に生まれるときは先ず最初にこの物質心が最初に出てきて、最後死ぬ時もこれが留まり、これが無くなるときに、あなた方の体は水になっちまうんですが、物質心は敢えて理解しておく必要はない。理解しないといけないのはあとの4つです。」 「第2の植物心、これは活動的な心ではあるけど、これも意識領域には出てこない心なんだ。そしてこの植物心があるから、このお互いの五臓六腑はこの植物心の命令で動いているんだ。これら肉体を保つ働きを司っているのが植物心。隠れたる縁の下の力持ちのような存在です。褒められなくとも一生懸命働いているから、とても形容出来ない尊い心だ。植物心は何も直接的に我々の大脳が監督しなくても、どんな不精な人の植物心でも、命を保つ作用は忠実に勤勉に働いているけれども、ここに忘れてならない大事な注意がある。それは、あなた方の大部分の、何かといえばすぐ怒ったり、悲しんだり、恐れたり、憎んだり、そねんだり、ねたんだり、断えたり、悩んだり、苦しんだり、迷ったりするような心になると、あなおそろしい、植物心に大きなショックが与えられる。すると、ふつうにしておけば極めて完全に働いてくれる植物心、ならびにその支配を受けている自律神経の仕事がちっともはかどらなくなってしまうんです。」 「理想的な人生を生きるうえで、注意のうえにも注意をしなきゃならないことは、「怒っていけないこと」と、「悲しんでいけないこと」と、「恐れていけないこと」なんです。これの逆をのべつまくなしに、日々やっているのが、あなた方の日課だ。変なことがディリーベースになっていますよ。怒ったり、悲しんだり、恐れたり、悶えたり、憎んだり、迷ったり、悩んだりして、いちばん肉体を健康に丈夫に生かそうとするところの血液を濁してしまっているんです。こういった消極的な感情がフワーッとでるでしょう。コントロールしないと、いきなり交感神経系統がフーッと異常興奮を起こす。それと同時に、腎臓の上にある副腎の中から、アドレナリンという化学系物質が発生するのであります。アドレナリンは何のために発生するかというと、ハッと驚いたり、カッと怒ったりしたときに、各種の破壊作用が知らない間に細胞組織の中に生じますから、その生じる破壊作用を防ごうがための自然現象なんだが、ここなんだ、注意すべき問題は。」 「それから二番目には、アドレナリンが生産過剰になると、糖分が増加して、血液が酸性化しちまう。この血液の酸性化というのはおっかないんだ。血液というものは弱アルカリ性、学問でいうと、純正アルカローシスというのが理想なんであります。どういうわけで糖分が増加するかというと、カッと怒ったり、ハッと驚いたりするとね、肝臓の中の糖原質がブドウ糖に変化してしまうんです。ブドウ糖に変化して、このブドウ糖が、必要なところに流れてくれていればいいけど、組織の中にも入ってくる。このブドウ糖が、バクテリアに抵抗する血液の抵抗力を弱いものにしてしまう。さあここだ。病原菌を束で食おうが、この抵抗力があったら菌に侵されやしない。結局要するに抵抗力の薄弱な人間になっているから、その原因がどこにあるかと言えば、「心の使い方」なんであります。」 「科学的に言うと、心が消極的になると一番先におっかない現象は、循環器障害。血液が循環する血管の中にいろいろな変化が起こるから血圧が高くなったり、そうかと思うと反対に血圧が低くなったりする。そうしてさなきだに、血管の中をことごとく値打のないごく悪い血液が流れているから、その結果がどうなるかというと、臓器障害です。人間の体のなかに生命を生かしていくのに必要な、肝臓、脾臓、脖臓、腎臓、いろいろ臓と名のつくものがあるでしよう。その五臓六腑の働きが鈍っちまうんです。それで、臓器障害の中でもいちばんおっかないのはですね、肝臓障害なんです。肝臓の中の糖原質の分解というものが異常充進されると、糖分が体の中へ増えちまうんだ。」 「だからどんなに食養生しても精神的な方面が安定していなければ、いわゆる肝臓外の糖原質の分解という自家現象で糖尿病は治らないんです。ましてや、インシュリンを注射するなんていうのは、金とりながら患者を毒殺しているのと同じなんだ。時計の機械が止まったからって、針の先で歯車を押しているのと同じこと。手を離せばすぐ止まっちまうじゃないか。とにかく、神経反射の調節をしないと、感情や感覚からくる心のうける再反射作用によって、えらい損害が生命に招きよせられちまうんです。」 「第3の肉体に付随している本能心。本能心というのは肉体を生かすために、常に意識領域に出て活動している心です。人間だけでなく、生きとし生ける動物はみんなこの心をもっているんです。生きるのに必要な働きをおこなっている心だから、動物心ともいいます。この本能心というものは、盛んに意識領域の中にあらわれて、我々の命を生かすために必要な要求というものを、遠慮会釈なく心にあらわして活動している心です。なにしろ肉体を守るために造物主が与えてくれた心で、これがなかったら、腹のへったのだってわかりゃしない。本能心があなた方の肉体生命の中に栄養となるべき物質の欠乏を感じたとき「お腹へってるぜ。何か食わねえか」ということを、あなた方の大脳へ合図する。だから、これがなかったら日干しになって死んじまう。」 「眠くなって寝ようとするのも本能心。性欲、これもまた、系統を相伝する必要上、すべての生物に存在している本能心であります。この食欲、睡眠欲、性欲の三つのどれかしらんが少しでも衰えてきている人は、失礼ながら焼き場の方へ向いている人ですよ。ほとんどの人が、年をとると、どうも若い者ほどは食えなくなっちまうし、睡眠欲だって、もうしょっちゅう目ざとくなって、朝なんかとびきり早く目が覚めちまうし、朝早く目が覚めなければ、夜しょっちゅう、ちょこちょこ目が覚めるし、夜ちょこちょこ目が覚めなきゃ、もう宵っ張りで、いつまでも眠くならない。まして性欲のごときは、現代人は哀れなやつが多い。もう六十歳ぐらいになると男も女も浜辺の軽石みたいになっちゃってる。笑いごとじやないんだよ。これ、まじめに考えなきゃだめなんだぜ。」 「だから本能心は必要な心だけれど、階級の低い感情というのも本能心からでてるんです。つまり、憎いとか、ねたましいとか、ねえ、やきもちをやくとか、かたき討ちせずにおくか、というような心持ちだ。これを「不要残留本能心」と言っています。人間の本能心の中には、祖先時代の人間が生きるためには必要だったけれど、今の現代のお互いが生きるには必要でない、極めて階級の低い本能心が、整理されないままで残っているんです。これが、おそろしく長い名前をつけている「不要残留本能心」であります。この不要残留本能心も本能心からでてるんですけれど、いきなりは意識領域にはでてこない。本能心から感情情念の方へ毒汁のようなものを流しこんで、感情情念の領域から発作的に出てくる。あなた方の感情の大部分は不要残留本能心なんですよ。この本能心のほうから流された毒汁のようなものが、あなた方の感情情念の領域に入ってパッパッパッと火花のように朝から晚まで活動しているんですよ。みだりに人を羨んだり、怨んだり、あるいは嫉妬、猜疑、復讐というような低劣な感情情念や、度はずれの淫欲とか分をすぎた所有欲、なんかの自己本位の欲情をやたらと発動させているのが、現在のあなた方だ。だから、本能心というのは、我々の生命に欠かせない、非常に大切な心ではあるんだけど、その中にこの不要残留本能心があるがために、あなた方に反省より以上の内省を促したい心なんです。」 「だから、本能心の中の掃除を怠らず行う事だよ。それがいつも言っている三つの方法なんだ。観念要素の更改、積極観念の養成、神経反射の調節。これは一生懸命にやらないといけない。潜在意識のお掃除なんだから。それと日常の言葉や態度に気を付けることも大事だ。それからもう一つ必要な方法は、低級な欲望や劣等感情情念がヒョイ心の中に発動してきたなと思ったらね、ソリロキズムというのをやってもらいたい。日本語に訳すと「つぶやきの自己暗示法」と言いましょうか、ソリロキズム。何も口にブツブツ出さなくていいんですよ。それは、心知ったる人の前なら構いませんけれど、知らない人の前で口でブツブツ言うと、おかしいな、この人、気でも違ったかなと思われるからね。要するに、観念でひとりごとを言えばいいんですよ。それを否定するつぶやきを心の中でやればいいんです。「こんなことに腹が立つか。こんなこと悲しくない。自分はそれより以上すぐれた心の持ち主だ」というふうに、自分自身が一人でつぶやくのを、ソリロキズムというんです。これがまたばかに効き目があるんですよ。」 「終わりにもう一つ、不要残留本能心の整理に非常にいい効果のある方法があります。これは、方法というより、心がけかな。それはね、ちょっと気のつかないことかもしれないけれど、平素努めて心の中でおこなう想像を積極的なものにするようにする。あなた方は普段、何か自分の人生の将来や現在を考えるときに、暗い方面からのみ考えていやしませんか。もう体の弱い人なんかが、ようやく六十歳ぐらいまでなるというと、とくに夜の寝際にくるらしいな、変な気持ちが。「とても天風先生ほど生きられやしない。こうやって、とにかく生きていられるのがどのくらいかしら。もうそう長いことはないじゃないかしらん」とか余計なことを考えちゃう。そうすると、ついそれは、何事に直面した場合でも、心の中に描く画像といおうかね、描く一つの絵が、薄暗いものになるんだよ。それをやめる。始終、心の想像の花畑は百花繚乱たるものにしなきゃいけないんだよ。それもやはり習慣ですよ。のべつ心がけていると、何事に直面しても、心はいつも明るいほうからばかりそれを見るようになりうるんだからね。」 「だから、この前も言ったとおり、人間はね、暇なときがあるんだから、たとえ二分でも三分でも、そういうときは静かに、気が散らないように目をつぶりながら、自分の楽しめるような、喜ぶような想像を心の銀幕の中に描くということが必要なんだ。よろしいか。哲学的に考えなきゃいけないんだよ。これは貴重なことなんですぜ。たとえよしんば、現実どんな病にかかっていようと、どんな悪い運命にいようと、心がそこから離れてるときは、それがあっても、なきにひとしいということを、あなた方は考えなきゃだめなんだよ。その証拠には、今日、明日死ぬという病人でも、グッと前後も知らず寝てるときは、その人はもう重病人じゃありませんよ。感覚的に何にも感じてないんだ。いわんや、悲惨な境遇の中にいても、自分の気持ちの中に、ある時間内だけは晴れやかな気持ちをもたせりゃあ、その時間内だけは晴れやかであったということになるだろう。すべてキヤンセルした後のトータルを見てごらん。こういう非常に幽玄微妙な哲学的な消息があるということを、まず第一番に悟らなきゃだめなんだよ。それが結局、つねに心を積極的にしっかりと保っていく秘訣なんであります。」 2へ続きます

      4
      テーマ:

プロフィール

バージェスあつこ

性別:
女性
血液型:
O型
お住まいの地域:
海外
自己紹介:
バージェスあつこ 18歳からイギリスに住み始める。 今年で在英20年。 ジャーナリズム/メディア学...

続きを見る >

読者になる

ブックマーク


☆All rights reserved by sharingsoup(Atsuko) @ copy rights 2016
他者による私のこのブログ上の写真と文章の転載や使用を許可していません☆



Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

    ブログをはじめる

    たくさんの芸能人・有名人が
    書いているAmebaブログを
    無料で簡単にはじめることができます。

    公式トップブロガーへ応募

    多くの方にご紹介したいブログを
    執筆する方を「公式トップブロガー」
    として認定しております。

    芸能人・有名人ブログを開設

    Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
    ご希望される著名人の方/事務所様を
    随時募集しております。