地蔵菩薩様の絵や彫刻ほどきれいい演出されたお姿ではなかったが、中年の男の姿でもない。ハンサムな青年僧。まぎれもなく、若き日の弘法大師のお姿だった。いつものふくよかなお姿ではなかった。でも、らかに、その目は大師の物であり、面長な顔立ちをされていた。慈愛の笑顔で微笑みを浮かべた大使は、私の背後に立ち、霊界の攻撃からチャクラを守って下さっていたのだ。燈籠堂に着き、寺の中に入る。ちょうど、仏事が行われていた。全てはタイミングだ。不動明王さまは、細かいところまで、すべて計算されていたようだ。弘法大師に背後を守ら、烏枢沙摩明王様に覆われ、神々に囲まれながら、まばゆい刀を構えて寺内を歩く。もし、その姿を見ることができる僧侶がいれば、壮大なスケールに驚愕したことだろう。しかし、日常的な雑事に追われていると、自分が誰なのか、神々とはどんな存在なのか、忘れてしまいがちだ。