人間くせぇ

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1ヶ月以上更新していませんでした・・・


旅が終わり、刺激が少ない毎日が続くようで、

何かどうしようもない脱力感と虚無感から、

はりがない毎日を過ごしていました・・・


ここから気分一転、記事を書きます。


日本に帰国して1ヶ月以上が経ち、

ますます気づくことがる。


日本とアジア諸国との違い・・・
というよりは、先進国と途上国との違いといったほうが適切だと思う。

旅した国全般にいえるのが、


人と人の距離がとても近いということ。

人と人が「人間らしく」付き合っている気がした。


現地の人は他人同士でも気軽に話しかけるし、
とにかく人と人のつながりを大切にしているなぁと感じた場面が多かった。


例えば、イランで乗りあいタクシーに乗っていたときのこと。

交通量もそこそこの街のド真ん中にあるロータリーにて。
異なる車線からロータリーに入ってきた車の運転手が、
自分が乗っている車の運転手と知り合いだったらしい。


互いに、クラクションで合図し、車が並列すると、
車を停止させ、窓越しに話を始める。
内容は、わからない。
でも、表情やジェスチャーから大体が予想がつく。


「やー、久しぶりだね」

「おい、元気か?」

「最近、どうだ?」


といった、挨拶代わりの世間話だ。

ロータリーの車の流れを、二台の車が遮ってしまっている。

後ろの車からは、クラクションの嵐。


それでも、二人は笑顔で時には大笑いをしながら、しばらく話をしていた。

一分くらい会話した後、車はそれぞれ違う方向へ発進した。


「なんて迷惑行為だろう。」


日本では、この行動は様々な側面から考えて、ありえない。


まずは、交通渋滞を引きおこすこと。
他の車両に迷惑をかけてしまうこと。

それに、客を乗せているのだから、
車を止めて世間話なんて一体どういうつもりだっ! となるだろう


でも考えてみると、


なんて人間らしいのだろう?


知り合いがいれば、挨拶を交わし、世間話でもするのが当然といえば当然なわけなのだ。
人と人のつながりを大切にしているところが、自分は素敵だと思った。


サービスの供給者である「運転手」という役割より、
「友人」というより人間くさい役割が優先されている。

彼は、運転手である前に、彼の友達なのだ。



途上国では、モノを買うのにも、必ず人と接する。
日本のように自販機がどこにでもあるわけでもなく、
コンビニやスーパーのようにシステム化されているわけではないからだ。

モノを買うには、常に交渉する。

現地人も、当然、店員とよく話す。

そこには、人間と人間のふれあいがあり、
時には喧嘩にもなるが、たいていは、挨拶から始まり、
天気の話でもし、それでようやく、モノと代金の交換がされる。


とっても人間くさい。


日本はどうだろう。

モノをカウンターに置く。
バーコードで、値段が表示される。
払う。


ほとんどの場合は、店員といっさいのかかわりを持たない。

それは、その場が極端に言えば、「売るヒト」「買うヒト」の関係に過ぎないから。

システム化、合理化されたその取引には、「挨拶」や「世間話」は無用なものなので、
あるのは、機械的な「いらっしゃいませー」くらいだ。

人間らしくない。


日本(先進国)では、「人間としての役割」よりも、
むしろ「役割としての人間」の方が優先されている気がしてならない。

人間が、人間らしくない。

そのせいもあるのか、
人と人のつながりが、どんどん希薄になっている気がする。

帰国して驚愕したのが、連日のように報道された小学生殺害・誘拐事件。
去年には、少女監禁事件などもあった。


日本は、病んでいるのではないかと、心が痛むニュースがたくさんある。


日本人の大半が危険だろうと誤解している中東では、
このような弱者を狙った犯罪はまずないらしい。
窃盗でさえ、少ないという。それはもちろん強い宗教倫理に支えられているからなのだろうが、
それだけではないと感じた。

それは日ごろから、人と人が人間らしく接していて、その中で正常な心が養われているからだと思う。

それこそが極めて人間臭い心なんだろうと思う。

日本の最近の病理的な事件を見ていると、合理化・都市化の代償として何かが失われ、
何かが歪められたような感じがしてならない。


もちろん、合理化・都市化された生活に文句を言うのではない。

この生活に慣れた僕たちは、なんだかんだいってこれが一番快適で、

楽なのだから。


ただ、旅で、その対極と言えるべき世界を見てきて、そこには、

日本ではなかなか見つけることのできない「よさ」がたかさんあるのだなと

感じたのでした。


次のテーマは、、、メディアについて書きたいと思います。




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