ラオス ルアンパバーン

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しばらく更新できずにいました。

今はラオスのルアンパバーンにいます。

最後の「アユタヤ&スコタイ」の記事をかいてから、

今までの流れを簡単に書きたいと思います。

スコタイの後は、チェンマイ、チェンライを経由して、

メーサーイという町へ行きました。

ここはタイ最北の町で、ミャンマーとの国境があいている数少ない場所です。

ビザなしでも一日だけミャンマーに入国できます。

(ミャンマーは、基本的に陸路での入国は禁止しており、本来は空路のみでしか入国できません。)


そこで、一日だけミャンマーへ行ってきました。


 

とはいっても、メーサーイと川を挟んだところにあるタチレクという小さな町のごくわずかな

場所しか歩き回ることが許されていません。

ミャンマーとタイの経済格差は歴然としていた。

国境を越えるとすぐ、ミャンマーの物乞いの子供たちが 

「金をくれ、何かをくれ」と集まってきた。

 

ミャンマーは、タイより物価が安く、タチレクにある市場はタイからの

観光客で賑わっていたものの、自分はたいした魅力も感じることができずに、

すぐ出国しました。

(市場を歩いていると、「タバコを買わないか、ポルノDVD」を買わないかと、

5m歩くたびに変な兄さんが寄ってきて、それがマジうざい!!!)

メーサーイのあとは、ゴールデントライアングルという場所へ行きました。

ここは、ラオス、ミャンマー、タイの3カ国が隣接する国境で、

ちょっとした観光スポットになっている。

3カ国が隣接する国境・・・日本じゃまず見られない  笑

ちなみにもともと「ゴールデン トライアングル」というのは、

ここの亜熱帯気候の三角地帯が、ケシの花の栽培に絶好の場所だった(今でも☆)

ことから、この地域一帯の名前になったらしい。

ラオス、タイ、ミャンマーの歴史といえば、常に誰かが誰かを侵略していた歴史で、

その結果がこの国境かと考えると、川とジャングル以上のものが見えた気がした。

いや、そんなことないなぁ  ちょっとかっこよく書いてみただけ。


その後は、チェーンセーンという小さな町を経由して、ラオスへ入国。

ここから2日間かけて、小船でメコン川を下り、今のルアンパバーンにたどり着いた

ということです。


ラオス。。。。

みなさんはこの国名を聞いて、何を連想しますか??

自分は、旅する前までは、「ラオス=ビエンチャン(首都)」としか連想しなかった。

(いかにも、受験で詰め込んだ知識っぽいでしょ。。。)

中国から旅を始めて、「ラオス」と聞いて連想することが増えていった。

なぜなら、ラオスを通ってきたほかのBP(バックパッカー)と話すたびに、

「ラオスは、最高だ」

と耳にたこができるほど聞かされてきたから。

「なんでそんなにいいんだ?」  と聞くと、

「いや、なんかいいんだ」 とみんなが口をそろえたようにいう。

きっとみんながみんな言うから、それに影響されて、

ほかの人も「ラオス、最高だ」と連鎖的に言っているのだと、多少割り引いて聞いていた。

そして、今ラオスにいる。

「ラオス、最高です」 ・・・・笑

本当だった!!!

特にこの町、ルアンパバーンは、今までの言った東南アジアの数々の町の中で、

一番好きだと断言できます。

でも、なにかあるかと聞かれれば、特になにもない。

歴史的な遺跡もなし、ポストカードを飾るような絶景もない。

あるのは、本当に小さな町。

メコン川の辺に位置し、市内は大きい通りが3本ほど通っているだけで、

そこを通る交通量は圧倒的に少ない。

信号も一つもない。

植民地時代のフランス建築が散在し、通りには民芸品を並べた店がある。

独特の雰囲気を醸し出している。


通りを歩いていると、ラオスの人たちと目があう。

必ず笑顔が返ってくる。自分も気がついたら笑顔になっている。


この国は本当に時間がゆっくりと流れている。

ゲストハウスの時計は、みな違う時間を表示し、

中には完全に停止し、単なる壁飾りになっているものもある。

国境から出る船も、「何時に出発するのか?」と聞いたら、

1日目も、2日目も、「みんなが集まったら。」という。

数時間単位でしか、ものごとが計画されない。

電車が、5分遅れただけでお詫びの放送が流れる東京とは、あまりにも

時間の流れ方が違う。

自分も、その時間に身を委ね、午前中のんびりのんびり

町の少し外れたところを散歩していたら、声をかけられた。

「おい、どこいに行くんだい?」

「いや、どこにも行かない」 と返した。

この返答が、ごくごく普通に通ってしまう国だ。

相手は、エアー君ラオス、23)

道端に座りこみ、世間話が始まった。

いろいろ話していく中で、仲良くなり、夜、家へ招待してくれた。

(なぜか、どこへ行っても、よく家へ招待される)

最初は多少迷ったが、キーホルダーにぬいぐるみをつけているこの男は、

絶対に悪いやつじゃないと悟り、遊びに行くことに。 笑

夜、ゲストハウスまで向かいに来てくれて、

そこからバイクで10分ほど郊外に行ったところにある小さな町に着いた。

(10分バイクで走れば、郊外です 笑)

その町は、道路もない、街灯もない、真っ暗だった。

家は、木版をつなぎ合わせたものだけで、壁に隙間が目立つ。

8畳くらいの広さに、家具といえば、映りが悪いテレビと、椅子がいくつかあるだけだった。

電気は、蛍光灯一本で、家の隅々は暗い。

とても貧しい家庭だ。

お母さんと、長女と次男とが出迎えてくれた。

夕食は、ラオスの家庭料理を4皿も振舞ってくれた。

決して豪華ではなかったが、この家族にとっておきのもてなしだった。

家族に囲まれて、楽しい楽しい時間をすごした。


このエアー君と仲良くなった一つのきっかけが、

同い年で、しかもお互いの家族構成が酷似していることだった。

父親の年齢、母親の年齢、兄弟の年齢、、、どれをとっても似ていた。

それで、家に招待された、ということだった。

ふと、考えてしまった。

もし、自分が、この家庭に生まれたとしたら・・・

経済的にも厳しいので、きっと自分も、エアー君と同じように、

昼間は働いて、夜は夜間学校で勉強していたに違いない。

この家に住み、今のように海外に行くことなんてまずなかっただろう。。。

そう考えると、自分がいかに恵まれているかを痛感するとともに、

余計なお世話だろうけど、エアー君をすこし可愛そうに思ってしまった。

ラオスの人たちは、貧しい。

GDPに関して言っても、バングラデッシュとアジア最貧国を争うくらい。

でも、なんでだろう・・・・?

この家族といい、ほかの人々といい、

日本にいる僕たちより、人生を楽しんでいる気がしてならない。

すこし嫉妬させられるくらい。

ラオス人は、本当にリラックスしてて、親切で、礼儀正しく、前向きだ。

その雰囲気が、町全体を包んでいる。

異国の地にいるのに、アットホームに感じる。

しばらく団欒していると、お父さんが帰ってきた。

泥酔している。

きっとどこかで飲んできたんだろう。


ここからが、戦いの始まりだった。

ラオスのウイスキーを勧めてくれた。

これが、喉がやけるくらい強い。

一杯頂いたあと、またグラスに注いでくれる。

あとで飲もうと思ったら、俺が飲み干すのをじーーと待っている。

ラオスの文化なのかしらないけど、相手が飲み干すまで、

自分は新たについではいけないらしい。

しょうがないから飲む。

注がれる。

飲む。

注がれる。

飲む。

体育会顔負けのアルハラ。  笑

帰るころには、酔っ払っていた。

そして今朝は二日酔い。

ラオスのソルマックくれ!

ラオス文化に触れる貴重な一日だった。

そして、今夜もこの家に招待された。

今日は、ラオス伝統の「友達の儀式」をやるらしい。

儀式=酒。

よし、気合いれていくぞ。

この長い記事を 最後まで読んでくれたみなさん!

ありがとう!!

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アユタヤ & スコタイ

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今、スコタイにいます。
タイの中部に位置する古都です。
昨日までは、かつて日本人町があったアユタヤという町にいました。
これらの2つの町は、古代遺跡で有名ですが、
アンコールワットを見た後では、少し物足りない気がします。
(遺跡を保存s状態や規模だけで比較するのは、いかにも素人的だけど。。。)

今は、
San Tiago(Spain, 28)

Yanikk(France, 33)
と3人で旅してます。

二人ともすごい一緒に旅しやすい仲間です。

San Tiago は、ラテン系の ノリで、5分に一回は、
なんか笑わせてくれる。急に踊りだしたり、でかい声で
歌いだしたりする。 ラテンのイメージぴったりの男だ。
しかも、日本では「濃い」といわれていた自分が
歯がたたないほど、コイツは濃い!!
負けた!

Yanikk は、フランスの高校教師で、今は夏休みだという。
日本人に似ているところが多くて、面白い。
遠慮深い、礼儀正しい。
でも、ひとつ気になるのが、俺の名前(カズ)をうまく発音できないこと。
いつも、「くず、くず」って俺のtことを呼びやがる。 笑
訂正するのも、めんどくさく、ここ数日の自分はくずです。

今日の夕方のバスでチェンマイへ行き、そこからタイ最北の町、
メーサーイを目指します。



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Volunteer work and Diving at Ko Phi Phi

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今はタイ南部のプーケットにいます。

実は、バンコクからプーケットを飛ばして、直接ピピ島まで行き、

昨日プーケットに帰ってきました。


ピピ島は、プーケットから船で約2時間いったところにある小さな島で、

そのビーチは、まるで映画に出てくるような完璧なビーチです。

実際、デカプリオ出演の「THE BEACH」に使われた場所です。

これほどきれいな砂浜と海を見たことがないっす!!

まるで天国に来た気分。


しかし、ここタイ南部のリゾート地は、昨年12月の津波の被害がもっとも大きかった地域のひとつで、

ピピ島は、まだその傷跡が、残っています。


半壊の建物、レンガやコンクリートののガラクタが島のあらゆるところに残っているし、

多くの建物が、建設中です。

かつては、リゾートホテルが並んでいた場所も、今ではガラクタと、折れたやしの木しか残っていません。


ここでは、世界各地からボランティアが集まって、ピピ島の復興活動に力を入れています。

観光目的で来た人たちが、ここの被害の大きさを目の当たりにし、

有志でHiPhiPhi というボランティア団体(http;//www.hiphiphi.com)を作り、この島に残り、復興活動をしています。

最初は数人だったのが、今となっては大きな組織で、ピピ島の復興活動に大きく貢献しているみたいです。

そこで、自分も勝手に日本代表になって気分で、ボランティア活動に参加しました。


これが、大学の部活の体力練並にキツかったです。。。


朝8時から、引き潮時に、砂浜の清掃。

半年以上たった今でも、様々なものが、漂流したり、砂浜に埋もれています。

それを撤去する作業です。

割れた食器、腐りかけたTシャツ、CD、レンガ、ドア、水道管。。。。

生活に密着したものばかりで、津波の凄まじさを痛感しました。

この作業は、肉体労働&太陽との戦いだったにもかかわらず、そこまではきつくなかった。


午後からは、海底の清掃

これが、かなり堪えた・・・


ゴミ袋を手に取り、スノーケルとフィンを身につける。

砂浜から10メートルくらい泳ぎ、海底にあるごみをみつけ、

息を止め、3、4メートルもぐり、ごみを拾い、浮上する。

袋がいっぱいになったら、

砂浜まで泳いで戻り、ゴミをゴミ捨て場までもっていく。

この作業を繰り返す。

ゴミのほとんどが、コンクリートの塊や、レンガだから、袋がいっぱいに

なってくると、まるで下へ引っ張られている感覚で、泳ぐのでさえ、困難。

これを数時間続けました。


他にも数多くの人たちが参加していて、大変だったにもかかわらず、

楽しくできました。


所詮、自己満足かもしれないけど、少しはここの復興活動に参加できたことはとても

よかったし、なんとなく気分はよかった。  とてつもなく疲労したけど。。。


ここで、またひとつ初体験☆が増えました。

生まれて初めてダイビングしました!!!




最初は怖かった。

海底で、口でしか呼吸できないなんともいえないあの窮屈感が最初は不快だったけど、

慣れてからは、楽しくてしょうがなかった。


海中を自由に「飛び回る」あの感覚は、ヤミツキになりそう。

この日は恵まれていて、サメ、海がめ、NEMO、フグ、エンジェルフィッシュ、その他の魚君たち(名前がわからない。)を、抜群にきれいなさんご礁を背景に見ることができました。 魚の大群と戯れたり、海がめを追いかけたり、、、 最高の体験になった。



ダイビングした日の夜、、、

なにか体調がおかしい。。。


次の日起きたら、発熱していた。。。。

ベトナム後半から始まった怒涛の移動からの疲労(宿代と時間を節約するために、夜は夜行バスで寝る日が多かった。)と、過酷なボランティア活動の疲労を無視して次の日にダイビングに行ってしまったツケが回ってきた。。。


かなりだるくて、その日はずっと部屋で静養していた。

にしても、海外で一人で病気になると、(部屋を共有していたMIKE はまじ俺の悪体調に無関心 泣)

必要以上に不安になる。

もし、普通の熱じゃなかったどうしよう。。。とかね。

そこで、ピピ島のメディカルセンターに行くことに。


ここも、ボランティアがやっている施設で、医療器具等すべて寄付でそろったものを使っている。

日本の医療メーカーの製品が多かったのが、うれしかった。

アメリカ人の女医と何人かの看護婦が、ボランティアで運営している。

そこで、診察を受け、薬ももらった。


拙者、

ボランティアするどころか、最後はこのボランティアに助けられる羽目になりましたからーーー

切腹!!

(まだギター侍って流行ってる?!)


まったく情けないです。。。


薬と約2日間静養したおかげで、今は大丈夫です。

今夜の夜行バスで(学習能力なし!?)13時間かけてバンコクに戻ります。

でもタイのバスはマジ快適だから大丈夫。

これからは、少しは休む日も作らないと。。。


今後は北上し、タイ北部、ミャンマー、ラオスと行く予定です。

いつも読んでくれている方々、ありがとうございます!!

コメントをいつも楽しみにしています☆







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Siem Reap to Bangkok

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シェムリアップから、バスで12時間かけてバンコク(タイ)に来ました。

この移動が、今までで一番疲れた。


シェムリアップから、タイとの国境までの道路が最悪。

てか、道路じゃない。

スキーのモーグルの斜面を、道にした感じで、しかも雨季のため、この道がグチャグチャになっている。デコボコすぎて、まともに席に座ってられない。

四角のタイヤをつけたバスが走っているのを想像してみてください。

数分に一回は、ドッカーーンとバスが飛び跳ねる。

その度に、バスの乗客も一瞬、宙に浮く。


道だけじゃない。

バスが小型で、

エアコンなしーの、

席、かたいーの、

自分の席の窓壊れてあかないーの、

前の窓から砂と土が吹き込んでくるーの


汗と土まみれになり、ぼろ雑きんになりながら、タイの国境まで7時間このバスのなかでもみくちゃにされていた。


タイの国境に着いたはいいが、入国手続きの窓口が、

一個所しか開いていない & 入国したい人たくさん。


炎天下の中、タイに入国するために1時間以上並んだ。。。


やっとバンコクに着いたのが、9時過ぎてだった。


そんなこんなで、今はバンコクのカオサンロードにいます。

ここは、バックパッカーの聖地で、タイなのにここ周辺では、外国人のほうが多いです。

この通りには、とにかく何でもある。

安宿から格安旅行代理店からクラブから

国際学生証、ダイバーライセンスの偽造サービスまで。

タイとは違った、独特の雰囲気がある。


今日の夜には、プーケット行きの夜行バスに乗ります。

これが15時間。

この年じゃなかったら、無理だったな。




アンコールワット

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今は、カンボジアアンコールワットがある町、シェムリアップにいます。

2日目です。

先月、人質事件があった場所ですが、今は首都のプノンペンより遥かに平和な感じがします。

(プノンペンは、夜11時以降は、真っ暗でとても怖い雰囲気)


シェムリアップ初日。

4:30起床。

暗い中ツクツクに乗って、アンコールワットの朝日を見に行く。

夜明け前の静けさの中、ツクツクのエンジンの音だけが聞こえる。

少し肌寒い。


木のトンネルをくぐり、徐々にアンコールワットに近づくにつれて、興奮が抑えられない。

アンコールワットは、高校生の時からずっと行きたいと思っていた場所だった。


30分ほど走ってから、森の中から、アンコールワットが顔を出した。

静寂の中、ずっしりと僕たちを出迎えてくれた。

今までずっとずっと「見たい、行きたい」と思っていた場所が、今、目の前にある。  

なんともいえない興奮と、「いよいよここまで来たな」という一種の達成感を感じる。


境内で、朝日をじっくり待つ。

日が昇った。

アンコールワットを背景に昇る太陽は、美しかった。

アンコールワットのシルエットと、暖かい朝日は、きっとアンコール朝時代のクメール人も魅了したに違いないと思う。



シェムリアップ2日目。

今日は、アンコールトムなどの、周辺の遺跡を見てまわった。

これもアンコールワットに負けないくらい美しい。


時間も12時近くになったころ、おなかがすいたので、近くをぶらぶらしていた。

境内にある民家の近くを通ったところ、酔っ払ったおっさんに声をかけられた。

「うちで飯を食っていけ」という。

怪しかったけど、そのおじさんの家族も一緒なので安全だと思い、

とりあえず家へ上がることに。


そのおじさんはかなり酔っ払っていて、この上なく上機嫌。

娘さんたちが2人いるのだが、(19歳と20歳)

二人を指差しては、小指を立てる (「俺の子供だ!」)。

次に、親指を立てる (「かわいいだろー」)

そして、にっこーーーーと笑いながら、

僕たち一人一人と握手をし、大爆笑をする。

これを、最低20回は繰り返したと思う  笑


これをやる度に、娘たちが、恥ずかしそうに、「お父さん、もう辞めて」という素振をする。

とにかく、このおじさんは上機嫌だ。

どうやら、次女が、普段はシェムリアップで学校に通っているのが、

1ヶ月ぶりに家に帰ってきたという。

どおりで上機嫌なんだね。。。


彼らは、僕たちにカンボジアの家庭料理を振舞ってくれた。

これがまたおいしい。

魚のフライと、玉子焼きと、チキンの煮込み。


食後はいろいろな話をし、(次女が英語がしゃべれたので、通訳してくれた)

笑いが絶えないとても楽しい時間だった。


最後には、ブレースレットのお土産までくれた。

お返しに、紙で鶴を折ってあげたら、とても喜んでくれた。


これほど暖かい家族にあったことがあるだろうか。

お父さんはとにかく娘が大好きで、5分おきに自慢してくる。

娘たちもお父さんが大好きのようだ。

お母さんも、惜しみなく家庭料理を振舞ってくれた。

これまでの国でも、こういう経験はあるが、その度に、

その国が大好きになる。



(左に写っているのが、大味くん。

 同じ千葉県出身で、出身高校が、自分の母校のすぐ近くだった。)

カンボジアが大好きになった一日だった。


今は、カンボジアの首都プノンペンにいます。

ホーチミン市からおよそバスで6時間。

6時間が短く感じるようになった・・・

徒歩で国境を越え、いよいよ第三国目、カンボジアに足を踏み入れました。


国境を越えてから、すぐに気付いたのが、まずはカンボジア人(クメール人)の顔が

ベトナム人とまるで違うこと。 肌の色は濃く、顔ももっと濃い。

西に進むしたがって、自分とは見た目が異なる国へ行くことになる。


ここプノンペンで、まずしたことは、日本大使館に行きました。

そう、実は日本にいる彼女が、カンボジアにある日本大使館宛に手紙を出してくれていた。

「深夜特急」のドラマでご存知かもしれないけど、大使館は、旅人宛の手紙を保管してくれる。


すこし郊外にある日本大使館にきた時は、妙に嬉しかった。

異国の地で、高々と風になびく日本国旗をみると、

ワールドカップ予選で日本を応戦している時のような興奮を感じる。

大使館にはいるためには、厳重なチェックを受ける。

金属探知機を通り、荷物チェックを受けた後、中へ進む。


スタッフの方に問い合わせ、パスポートを見せ、手紙を受け取る。

なにかとても不思議な感覚だ。

彼女からの手紙を、異国の地で受け取るこの喜びと興奮が伝わるでしょうか???

日本では全てがE-MAILだったのが、旅をしだしてから、手書きの「手紙」の

ぬくもり、ありがたみをひしひしと感じた。




サイゴンからのバスでたまたま隣になった牧内昇平くんと今は旅をしている。

彼は、東大WARRIORS(アメフト部)の元副将で、同じ体育会系ということで、

気が合い、一緒にアンコールワットまで行くことに。

ダブルルームに泊まっているが、一人$2!!!!

しかもきれい。


今日は、バイクの運転手を1日雇って(二人で$7)、プノンペンとその周辺を見て廻った。

ホンダの100CCバイクに、運転手、俺、彼と3人乗り。

うしろに体育会2人。 重い。


観光した中に、Tuol Sleng という場所がある。

1970年代に、ポルポトという独裁者が、カンボジアで大虐殺を行ったことは、みなさんもご存知かと思う。

ポルポト政権は、カンボジアの人口の4分の1を、わずか4年間で殺した。

しかも、彼は若者(10-15歳)を洗脳し、子供達に、拷問や虐殺を行わせた。

この博物館には、痛ましい写真や展示物が多くあり、本当に心が重くなります。


どうしたら人がこのようなことを平気でできるのか?

洗脳されれば、いとも簡単に人を殺せるのか?

ポルポトは、いったい何を考えていたのか?


疑問ばかりが浮かんでき、それに答えられない。

解説を読んでも、どうしても説明がつかない。


とにかく、ここでどうこう書けるようなことで無い気がする。

ここにきて、実際何千個もの頭蓋骨や、

壁に敷き詰められている数々の写真をみないと、何も伝わらない気がする。


そして、今日は自分の知識不足を痛感する一日でもあった。

帰国してからもっともっといろんなことを勉強しないと、、、

明日は、アンコールワットのある町、シェムリアップへ向かいます。

そう、先月、人質事件があった場所です。

でも、今は大丈夫。













ベトナムを考える

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今はホーチミン市(旧 サイゴン)に居ます。

フエのあとは、ホイアン、ニッチャン、ホーチミン市と来ました。

ベトナム全土をバスで合計で43時間かけて縦断しました。

こ、腰が。。。



しばらく更新していなかったので、ここでまとめて書いちゃいます。


ホイアン


ホイアンは、16-17世紀阮朝の貿易中心地で、アユタヤ、マニラと並んで日本人街として栄えた町です。その後の江戸幕府の鎖国政策で衰え、今は日本人が住んでいた面影が僅かながら残されています。  


この町で仲良くなったDave (Britain,21)とはかなり仲良くなった。同じ年代、趣味が似ているということもあるけど、最大の理由は、こいつが、驚くほど大学の部活の先輩に顔が似ているからだ。(た○らさん) 世の中で、自分にそっくりの人が2人はいるとよくいうらしいけど、この人は、た○らさんそっくりです。まじで。

(この写真だと、伝わりきらない。。。)




このDAVEと、一緒にニッチャンヘ。


ニッチャン


ここはベトナムのリゾート地。白い砂浜、青い海、やしの並木・・・長いたびの疲れをここで癒しました。

  



この町で始めて「日本人宿」というところに泊まった。ドミトリーの部屋に入ると、どこか見覚えのある顔の日本人がいる。声をかける。   なんと同じ大学で、しかも自分が2年生のときに、合格発表で胴上げしたN君だった。お互い、かすかに顔を覚えていた。  しかも、彼もほとんど同じルートで旅をしている。 こんな縁の2人が、ベトナムで、ニッチャンで、しかも同じ部屋で会う確立って。。。  すごい偶然にびっくりし、思わずもう一度胴上げしようかと思った。 笑


彼とはビールを飲み、ビリアードを楽しんだ。もっと喋りたかったが、自分は急いでいたので、次の日の夜行バスでホーチミン市へと行った。


ホーチミン市


1975年にベトナム戦争が終結するまでサイゴンと呼ばれていたベトナム最大の商業都市で、フランス植民地時代からの建物が僅かながら残っている。町のところどころに見られる大きい街路樹に囲まれた道を、HONDAがビュンビュンと走り回っている。




ここでは、戦争証跡博物館クチトンネルに行った。


ベトナムに来て、やはりベトナム戦争について考えずにはいられない。

ここで、簡単にベトナムの近代史を紹介したいと思います。


19席後半にベトナムの阮朝は、フランスの侵攻に屈し、その後ベトナムはフランス植民地となり、激しい搾取に合う。反仏運動の先頭を切ったのが、ホーチミン氏だ。彼はWW1中に、中国で青年革命年会を結成し武力による解放を目指し、その後の独立運動の中心的人物となる。


WW2でフランスがナチスドイツに敗れると、今度は日本軍がベトナムを侵攻し、ベトナムは日・仏の二重支配による激しい搾取と弾圧に国はぼろぼろになる。


ベトナム共産党は反仏・抗日を旗印に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)を結成し、武装蜂起をするものの、双方の激しい弾圧にあう。


日本の敗戦後のポツダム宣言で北部は中国、南部はイギリスへと約束されるが、フランスがイギリスの協力のもと、再度ベトナムへ侵攻する。このときに、北緯15度線が設けられ、ベトナムは南北に分裂し、その後南部解放政策が始まる


1945年には、北でホーチミン氏がベトナム民主共和国を建国。ディエンビエンフーの戦いでベトナム軍に破れたフランス軍は、ジュネーブ会議で休戦協定を結ぶと同時に、ベトナムの統一選挙を約束した。


しかし、南ベトナム政府のジエム政権(アメリカの傀儡政権)はこの選挙への参加を拒否し、ベトナムの独立戦争は新しい局面を迎えることになる。


1954年には、反ジエム・反米をスローガンに、南ベトナム解放戦線が結成される。米のケネディ大統領は、ベトナム介入を本格化。その背後には、共産主義国家の独立・拡大を恐れる考えがあった(ドミノ理論) 米軍は、北爆を開始し、さらに枯れ葉剤毒ガス弾ナパーム弾による無差別攻撃を全土で広げる。北ベトナム軍はホーチミンルートと呼ばれる物資・武器支援ルートで解放戦線を支援し、ゲリラ戦を繰り広げる。


1968年、ベトナム軍と解放戦線は全土へ攻撃を広げ(テト攻勢)、各地を攻略していくが、米軍の激しい反撃にあう。米は、国際的に孤立していき、次第に撤退し、南ベトナム政府への支援を打ち切る。その後南ベトナム政府は自壊し、1975年9月30日にサイゴンが陥落しベトナムは解放された。翌年にはベトナム社会主義共和国が成立し、共産主義国家が成立した。


と、まぁこんな感じです。

間違っている部分があったら、教えてください。


1日と2日に、戦争証跡博物館とクチトンネルを見学した。

(クチトンネルとは、解放戦線がゲリラ戦を繰り広げるために、地下に掘ったトンネルのネットワークのこと。250KMにのおよび、中には作戦会議室、台所、医務室まである。トンネルは、人がぎりぎり通れるだけの広さ)


  

            


戦争証跡博物館には、戦争中の痛ましい写真が数多く展示されており、その多くが、目を覆いたくなるようなものばかりだ。特に、米軍が散布した枯葉剤の影響で生まれた奇形児の写真には、ショックを受けた。


この博物館はすこしバイアスがかかっていて、いかにも「米軍=悪」というコンセプトで書かれている。確かに米軍が行った数々の悪事は、痛烈な批判に値する。しかし、北ベトナム軍だって「反米」を大義名分に数々の非人道的なことをしたし、南ベトナム軍だって同じような拷問や虐殺を行ったのも事実だ。南ベトナムが解放された後も、新国家は南を支援したベトナム人を「裏切り者」として、「再教育」という名のもと、投獄し、彼らは全財産を奪われたという。


南に来ると、ホーチミン崇拝は影を落とす。ベトナム人の中でも、ホーチミン氏が代表する旧北ベトナム政府に恨みを持つ人は少なくないという。南部の多くの人は、ホーチミン市をいまだに「サイゴン」という。


ここに来て、改めて改めて、戦争の愚かさを痛感する。戦争証跡博物館に行った日は、ショックで何も食べられなかった。


戦争には、「勝ち負け」はないとよく言われるが、この戦争を通じて「いったい誰が勝ったのだろう?」と思う。確かにベトナムは米を倒して独立した。しかし、その代償があまりにも大きすぎた。米軍だって5万人以上の若い命を失った。なんのために???  


そして21世紀を見てみる。

同じことがイラクで繰り返されている。

「枯れ葉剤」は「劣化ウラン弾」へと姿を変え、「反共産主義」は「反イスラム」へすりかえられただけ。


複雑な過去がありながらも、ベトナム人は前向きです。

どこか日本人と似た気質がある気がします。

中国は、「先進国」を必死で繕っている現状を感じたが、ベトナムは政治の壁が高いものの、自由経済が浸透すれば、確実に経済発展を遂げるだろうな、と納得しました。


7月4日から、いよいよカンボジアへ。

カンボジアは、首都のプノンペンアンコールワットをみて、一週間以内にタイへ抜ける予定です。


最後まで読んでくれた人はありがとうございました。

またカンボジアで更新します。