越谷 麺酒房 武厳のブログ

越谷西口のラーメン食堂の店主の落書き帳です!

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初アルバム(^-^)v




パフォーマンスが凄すぎる!






ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国ソウルミュージックシンガー音楽プロデューサーエンターテイナー。通称JB

ファンクの帝王と呼ばれ、 The Hardest Working Man in Show Business(ショウビジネス界一番の働き者)と称される。シャウトを用いたヴォーカルと、斬新なファンク・サウンドが特徴である。

父はアパッチ族インディアンで、母はアフリカ系黒人アメリカ人アジア人の系統である[1][2]

「ナンバーワン・ソウル・ブラザー」「ミスター・ダイナマイト」「ファンキー・プレジデント」など、いくつものニック・ネイムを持っていた。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第10位[3]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第7位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第37位[4]


生い立ち

ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、サウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。このことは、本人が自伝などでも書いているが、他にも1928年テネシー州プラスキ生まれという説がある。成人後に、ジェイムズ・ジョセフ・ブラウンへと改名している。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。成長するにつれ、彼は犯罪に手を染め、16歳の時に車の強盗の罪で有罪判決を下され、1948年からトコアの教護院に収容される。

教護院での服役中に、ブラウンはボビー・バードと知り合う。バードの家族は、ブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンは、オーガスタまたはリッチモンド郡に戻らず、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念することとなる。ブラウンは、音楽へその情熱を傾けることとなった。

1950年代(ミスター・ダイナマイト)編集

ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティシド・ネーサンキング・レコードと契約を結ぶ。

バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。









これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードレイ・チャールズといった同時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展していき、上述のPファンクはもちろん、プリンスなどに強い影響を与えた。












1960年代(ファンク革命)
1965年にはムーンウォークという名前がついている( ☆∀☆)

因みに俺が誕生した年です!笑

めっさカッコいい🎵




↓こちらの曲も1965年に発表!
凄すぎます‼








スマホの画面がひびが入り、今日は代替機で投稿します。

ラインの友達の方、ご迷惑おかけしています(ToT)




おやすみなさい!
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ソウル・スターラーズ

1950年にサムクックが加入する。
サムクックが入る前の映像、かなり年代モノ❕










この曲が当時作って歌っているのが
ヤバいッス❗❗
めっさカッコいい❗❗



No.3       サムクック


ユー・センド・ミーは、アメリカ合衆国歌手サム・クック1957年に発表した楽曲。クックはそれまでゴスペル・グループのソウル・スターラーズ英語版)のメンバーとして知られていたが、この曲でソロ・シンガーとして成功を収めた。





YouTubeでサムクックの当時の映像は貴重❗❗❗❗





ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。

1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと共に音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。

クックの曲は、『ビルボード』のR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも上位に入った。1960年代には「チェイン・ギャング」(2位)、「ツイストで踊りあかそう」(9位)、「こんどの土曜に恋人を」(10位)、「シェイク」(7位)を全米トップ10に送り込んでいる。

黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXモハメド・アリとも親交を深める。1964年の「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」は、ボブ・ディランの「風に吹かれて」に影響を受けて生まれた、人種平等社会が訪れることへの期待を込めたメッセージソングであった。


まだ十代の頃、サムクックの爽やかすぎる声に、黒人音楽の荒々しさや重みを感じられず少し物足りない感じがしてましたが、今考えるとわかってなかったんだなと思いました。















1964年12月11日、クックはハリウッドの酒場で知り合った女性を「別の店へ行こう」と誘い出し、そのままイタリア製の高級スポーツカーでサウスセントラル地区にあるモーテルにチェックインした。酒場ではなくモーテルに入った事に驚いた女性はクックがシャワーを浴びてる間に、追われないようにと服を隠した上でモーテルを飛び出した。シャワーから出たクックは彼女を探し、全裸にコートだけを羽織ってモーテルの管理人室まで行った。この時かなり酔った状態で怒鳴りつけたりしたため、身の危険を感じた管理人の女性が発砲、クックは射殺された。裁判所は正当防衛と認定したが、クックの不審な死をめぐり後に多くの疑問が呈された。


サムクック享年33歳。


_<)


ゴスペルからソウルの橋渡し的な役目をした偉大Singerでした(ToT)


ポップチャートトップ40に30曲❗❗
R&Bチャートに31曲❗❗
ソウルという枠を超えた広い視野が彼に備わっていたからこその実績❗❗


凄すぎます。




では おやすみなさいヽ(^○^)ノ

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No.2

オーティス・レイ・レディング・ジュニア(Otis Ray Redding Jr.、1941年9月9日 - 1967年12月10日)は、アメリカミュージシャン。独特の歌唱法でソウルに多大な影響を与えた。



1962年  ファーストシングル






1965年 2年後にアレサがカヴァーして大ヒット❗❗








オリジナルがビング-クロスビー

上田正樹さんがライブで歌っていた!

静からだんだん動にうつる時はチキン肌❕




サティスファクション」((I Can't Get No) Satisfaction) は、1965年に発表されたローリング・ストーンズの楽曲。作詞・作曲はミック・ジャガーおよびキース・リチャーズ

カバーなのにオーティスの曲になって白人層からも大きな支持を得られてくる❕




事故の3日前に録音された「ドック・オブ・ベイ」は、翌年のビルボードで、1968年3月16日に週間ランキング第1位を獲得し、オーティスにとって唯一のビルボード誌週間ランキング第1位の曲となった[3]。それまでの曲調とは違うため、スタックス側やベーシストのドナルド・ダック・ダンは戸惑っていたが、本人がシングル化をレコーディング中に望んでおり、「俺の初めてのナンバー・ワン・ソングになるぜ」と語っている[4]






1967年12月10日
彼とバーケイズを乗せたツアー用の自家用飛行機が墜落レディング26歳、絶頂期わずか5年、死後にリリースされたこの曲が、R&Bチャート3週、ポップチャート4週1位を記録する、ちょっと複雑な気持ちにさせられる話しです。


しかし、わずか5年でソウル史に残る実績を築き上げたヤバいsingerです。


オススメというか好きなアルバム2枚❕ていうかアルバム全部好き❗❗❗❗笑

一枚目は死後2年後にリリースされた渋い一枚です。



_<)




2枚目バラードを歌うオーティス❗❗





出だしがサックスでヤバいッス❗❗





_<)

全然まだまだ足りないけどこのぐらいは聞いて欲しいッスヽ(^○^)ノ



おやすみなさい(^o^ゞ


ではまたm(__)m
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