7年前のボスニアからのメッセージ その2
テーマ:紛争・平和その1 の続き。
申請書提出の2ヵ月後の2000年7月上旬。
私は大学院のクラスメートと、クロアチアの首都ザグレブにいた。
第二回秋野豊賞として助成を受けた私の調査テーマは、
「紛争後の心理社会ケアと和解」だった。
紛争が起こったあと、
壊れた建物を修復し、
警察や軍を再建し治安を回復し、
正当かつ民主的な政府を擁立し、
経済活動を活性化させ、
それでも、その社会が本当に平和になるには、
「和解」が不可欠に違いないと思っていた、当時の私。
本当は、当時日本で専門にしている人がいなかった
「兵士の武装解除と社会復帰(DDR)」をテーマにしたかった。
でも、クロアチアとボスニアでは、DDRは行われていなかった。
結局この9カ月後の2001年、自費でシエラレオネに行き、
少年兵とDDRの調査をすることになるのだが。
クロアチアとボスニアへの出発の数日前、
Canonの一眼レフを買った。
デジカメがようやく普及し始めた時代だけど、
当時はそんなのは軟派だと思えたのだ。
現地調査に行くとはいえ、アフリカばかり考えていた
私につては全くなかった。
Yahooの検索エンジンに、思いつくキーワードを
入力した。
Croatia
Bosnia
Peacebuilding
Conflict
Reconciliation
Reconstruction
NGO
Psycho-social
・
・
・
引っかかったNGOや援助機関に片っぱしからメールを送り、
関係する活動をしている団体や個人を紹介してもらう。
和解に関する書籍に出ている団体に連絡し、
ボスニアとクロアチアで活動している個人・団体を
知らないか聞く。
クロアチアのいくつかの大学のホームページにアクセスし、
クロアチア語の辞書を見ながら学生用掲示板を見つけ、
情報提供を呼びかける書き込みをする。
これを3日間集中して行ったら、
必要なインタビュー先がほとんど確保できた。
あとは、現地で引き続き見つければいい。
クロアチアに調査に行く同級生は他に4人いた。
そのうち、私とマイクだけが、ボスニアにも行くことにしていた。
マイクは、ボスニアの難民キャンプでボランティアとして
2年働いた経験があり、現地の言葉もぺらぺらだった。
知人を通じて、皆が泊まる宿を確保してくれた。
ザグレブ空港から市内に向かうバスの中で、
マイクから、ボスニア語・クロアチア語で1から1000までの
数え方、時間、曜日の言い方を教えてもらった。
ホテルに着いたときには、間違えずに言えるようになっていた。
この時の私は、出発の数日前から始めた勉強で、
ボスニア語・クロアチア語である程度の会話のやり取りが
できるくらいになっていた。
当時の集中力と記憶力はあなどれない。
ちなみに現在は、「白ワインください」しか覚えていない。
ザグレブは、都会だった。
普通のヨーロッパの都市と変わらない。
それはそうだ。最も破壊されたのは、東部のボスニアとの
国境付近だった。
一方、ザグレブに着いたときから、
私はある種の居心地の悪さを感じ始めていた。
大学の掲示板経由で知り合ったクロアチア人の女子学生2人が、
南部の町ドブロブニクからわざわざザグレブまで来てくれた。
「ザグレブは、戦争の被害をほとんど受けていないくせに、
国際社会からの支援を得るために 被害者のふりをしてるのよ。
本当の被害者は地方の町なのに、首都は地方には
何もしてくれない」
「私たちが内戦中、地下に避難しておびえていた時、
ザグレブのテレビ・ラジオ局は何一つそのことを報道しなかった。
やっと戦争の報道が聞こえてきたと思ったら、
『ザグレブの高級ホテルのシャンデリアが砲撃で壊れた』
ですって。あきれちゃう」
私が訊く前からあれこれ堰を切ったように話してくれる2人。
相槌を打ちながらも、本当につらい経験なら、
他人にこんな風に話すことはできないんじゃないかと感じていた。
あくまで、自分の経験に基づく実感だったけれど、
それを感じるのと同時に、居心地の悪さはまた大きくなった。
ザグレブを離れる前日、いつもは落ち着いたマイクが興奮して
やってきた。
クロアチアで有名な平和活動家の女性とアポが
取れたというのだ。
待ち合わせ場所のオープンカフェには、60歳くらいの
落ち着いた風格のクロアチア人女性が座っていた。
忙しい人だから、一人質問は3つまでと決めていた。
彼女の前に座った時、私の中のもやもやした感情は増大した。
何とか自己紹介をした。
「トラウマをはじめとする心理社会ケアと和解問題について、
調査をしています」
「心理ケアの問題と和解問題は、全くの別物よ」
それだけ言って、じっと私を見つめる女性。
その質問と答えの意味するところは、ただ単に、
人々が和解しないのはトラウマ等のせいではない、ということ。
それはそのとおり。
でも、それ以上に、「和解」という問題について、これ以上の
質問をすることを躊躇した私は、彼女への質問を
早々に切り上げた。
私の中で日々大きくなっていた感情は、後ろめたさ。
そして、その後ろめたさを見抜かれそうな人に対する、恐怖心。
私は何のために、誰のために「平和構築」や「和解」について
調べているんだろう?
そんな気持ちを抱えたまま、クロアチア東部の町ブコバル、そして
ボスニアに向かった。
つづく






プロフィール
<contact@jccp.gr.jp>
著書、掲載物など








1 ■和解
せやるみさん
読んでいて、北アイルランドに行った時の事を思い出しました。僕の場合は、大学がセットアップしたスタディ・トリップだったので状況は違いますが。
あの時、ガイドしてくれたおじさんがBloody Sundayの現場を案内してくれた時に涙ぐんでいました。彼の肉親がその事件で亡くなっていたということはその後に聞きました。その時の事を思い出すと、後ろめたさという感情がよくわかる気がしました。
それにしても、せやさんの行動力はかっこいいですね。
つづきを楽しみにしてます。
けんた