「世に生を得るは事を為すにあり」


司馬遼太郎が書物の中で坂本龍馬の

言葉として紹介しているようです。


「事」とは、仕事や大切なこと。


こちらのサイトではこう説明しています。
↓ ↓ ↓
http://sakamoto-ryoma.webisu.biz/2010/01/29_0427.html


『人生の目的は、出世したり、事業や学業で成功して、
財産や地位・名声を手に入れることとは限らない。
事を為すこととは、夢や目標を実現すること。
人生で何かを成し遂げること、人生に意味を
持たせることが大切だ』


せっかく生まれたのだから、その意味をかみしめ、
何かを成し遂げることという意味でしょうか。


また、「事」には、生命、行為という意味もあるようです。


だから、

仕事や大事といった結果だけでなく、
生きている行為も大事にする。


せっかく得られた自分の生を全うすること。
生き切ること。
今を生き生きと生きること。


生を得たこと、生きていることを感謝し、
生きている瞬間を躍動させる。

そう意味も含まれているように思います。


そして、
「事」には、つかえるという意味もあります。


こちらの記事から
↓ ↓ ↓
http://www.sbi-com.jp/kitao_diary/archives/201502209988.html


『東洋思想では、仕事とは天につかえることだと考えます。
此の仕事という字は「仕」も「事」も、どちらも「つかえる」と
訓読みします。では誰に仕えるのかと言うと、天に仕える
ということです。天に仕え天の命に従って働くというのが、
東洋古来からの考え方であります。嘗ては働きに出ることを、
「奉公に出る」と言いました。之は「公に奉ずる」「公に仕える」
という意味です。』


自分という「個」は、私という側面と

同時に社会の一員という側面があります。


せっかく得られた自分の生を、社会の一員としてどう活かすのか?

私という自分のためだけでなく、世のため人のためという考え方。


大袈裟に考えなくても、
その構成員たる一人ひとりが夫々の役割を果たす。
自分の出来る範囲で、自分以外の誰かのためにことを成すこと。


こう見ていくと、
いろいろな意味の「事」があります。


土佐の商人の家系で、上士と郷士という

身分が激しい中で虐げられながら土佐藩を脱藩。

勝海舟と出会い海軍操練所を経て海援隊結成。

薩長同盟を締結。

大政奉還の成立に尽力。
日本人初のハネムーン・・・・


短い人生の中で数々の事を成してきた坂本龍馬。


いろいろな意味もひっくるめて、
せっかく生まれたのだから、どんどん「事」を成していくことを
龍馬は伝えているのかもしれません。


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こちらの記事から
↓ ↓
なぜ、あの人は「やる気」が続かないのか
最新脳科学が解き明かす、そのメカニズム



「その課題を『自分が選んでやっている』
『自分の意思で決めてやっている』。
そういう感覚が必要なのです」

「大切なのは、仕事なら結果ではなく仕事そのものに
価値を見出したり、勉強でも点数よりも学ぶことに
楽しみを見つけたりすること。
そうすれば、やる気を安定して長く持続できる
可能性が高いのだ。」


この記事によれば、脳の中にある線条体という場所が、
やる気に重要な鍵を握っているようです。

この線条体で報酬を予測することが
やる気につながると考えられています。

でも、
誰かから与えられる報酬・ごほうびによって、
一時的に大きなやる気を引き出すよりも、
小さくても自発的なほうがやる気は持続するとのこと。

モノゴトへの考え方・取り組み方の違いが
やる気に大きな違いを生み出すということ。


・仕事や勉強は自分の意思で、自分のコト「自分ゴト」として取り組む。
⇔仕事や勉強は誰かにやらされている。「ヒトゴト」である。

・仕事をする意味、勉強をする意味をはっきり持つ。
⇔何のために仕事をしているのか、勉強しているのかわからない。

・モノゴトに情熱を持って取り組めること。
⇔何をするにも面倒くさい。

・物事を好きになる力。
⇔これは自分がやるような仕事ではない。
こんなことのために仕事をしているのではない。

・モノゴトを楽しむ力。せっかく貴重な自分の時間なのだから楽しむ。
⇔捨てばち、なげやりになってしまう。

・目の前のことに一処懸命になれる。真剣になれる。
⇔すべてのことに斜に構える。ココロを込められない。

などなど・・・

やる気は自分のココロ次第とも
考えられるのではないかと思います。
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今日は、こちらの記事から
↓ ↓ ↓
http://grapee.jp/7355

この記事からいろいろなことが考えられます。
出題者の「意図」や「前提」を考える良い内容だと思います。

この出題自体が、算数の簡単な式を出題しているのですが、
算数的に考えるのか?
数学的に考えるのか?
もっと広く考えてよいのか?

この質問は、
「前提」を定義していません。

そもそも、
出題者の「意図」も提示されてません。

そう考えると、
出題者の「意図」を想定して、自分で「前提」を定義して
その「前提」に基づく答えを導くこともありです。

そして、この記事も含めて
こういう出題が出ると
算数的・数学的に答えを出すという
「前提」のもとで出題を考え、答えを論じている。


という視方をすることはとても重要です。

ちなみに、
算数的、数学的だけの考え方でなくても良いということ
という「前提」で考えると

■無理やり算数的、数学的につなげない
前提として考えている範囲を変える

6÷2(1+2)= 3 3
6÷2 (1+2)はつながらないので単独で考える。

6÷2=3 (1+2)=3

■そもそも「答え=正解」を出さなくても良い
何でも「答え」を出さなければいけないという前提を変える

6÷2(1+2)= 答えなしor答えを出せない

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吉田松陰を育んだ母の「日風呂」

本日からNHK大河ドラマ「花燃ゆ」が始まります。
吉田松陰の妹・文が主人公で井上真央さんが演じます。


その吉田松陰に関して、恐らく文にも通じる
お風呂に関するご紹介です。

こちらの本から
↓ ↓

心鳴りやまず [ 内藤 泰春 ]

松陰の生家である杉家は、松陰の祖父である七兵衛の
本好きゆえの散財により、滝が嫁いでくる前から
とても貧しい家でした。
加えて松陰の父・百合之助が13歳の時に家が全焼し、
以来より一層貧苦にあえぐようになりました。

その松陰の生家である杉家に、松陰の母の滝が嫁いできた時、
こう宣言したそうです。

「今日から、毎日風呂に入ります。」

「日風呂」とは、毎日お風呂に入ること。

江戸期には風呂を沸かすことは現代とは違って、
とても大変な重労働でした。
何人ものお手伝いを雇っている武家屋敷ですら、
数日に一回入るのが普通だったようです。

父・百合之介は、初めは身分不相応だと言って
毎日風呂を沸かすことに反対したそうです。

それにも関わらず、滝は杉家で毎日風呂を
沸かすことを押し通しました。

しかも、大変な重労働である風呂を
沸かす作業は全て自分ひとりの力で行いました。

それは、

『貧しさのあまりに心まで貧しくなって
しまってはどうしようもない。
温かい湯につかることで、心まで温まり、
翌日も頑張る意欲が生まれるはずだ。
寒さは気力を萎えさせてしまう。』


という理由。

杉家は、貧しさゆえ、毎朝暗いうちから深夜まで
働く半農半士であったようです。

毎日重労働で家族全員疲れ果てていた。
疲れから心も荒んで行くことを滝は憂いてのこと。

滝の「日風呂」の習慣によって、
身体も心も休まり、家族のアカギレもなくなったようです。

この本を見ると、
幼いころの吉田松陰は、毎日の兄の梅太郎と
一緒にお風呂の入り、そのお風呂の中で、
家族のこと、国のこと、未来のことを
仲良く語り合っています。


幕末の激動の時代の中で、松下村塾から
明治維新を支えた数々の偉人たちを生み出した吉田松陰。

母である滝の強さと優しさ、そして、
母の暖かい「日風呂」がその吉田松陰を
育んだのだと思います。

こちらの動画から



「どーせ無理」と、
やったことがない人が、適当なやらない言い訳を教えてくれた。

「どーせ無理」は、とっても簡単な言葉なんです。
これを唱えていると何もしなくて済むから
とっても楽ちんになれる恐ろしい言葉なんです。

失敗をマイナスだと思っている大人たちがたくさんいたから。
その人たちが、みんなの可能性と自信を奪ってきたんです。』

日本では、大企業や公務員だけでなく、
まだまだ、多くの場所で、

「みんなと同じことをやっていないと落ちこぼれになる」
「目立たず、大過なく、無難に」

という考え方があると思います。

皆と同じようにして、個性を無くし、
失敗をしないように無難にことを荒立てない。

皆と同じでないことはいけないこと。
何かにチャレンジして失敗をしてマイナスになる
くらいなら何もしない方が良い。

だから、ある意味やさしさから
人と違うことや、新しいことへのチャレンジすることに
「どーせ無理」とアドバイスを教えてくれます。

でも、生まれたときから諦め方を知っている人間など一人もいない
いつの間にか「どーせ無理」と諦め方を知ってしまう。


「どーせ無理」と教えられた子供たちは
何をしていいかわからなくなる。
何ができるかもわからなくなる。

この「どーせ無理」が危険なのは、
こんな言葉で未来をあきらめてしまった人たちは
自信を失ってしまうこと。

そして、自信を無くしてしまった人たちは
・お金で自信を買う
・自慢をすることで自信を保つ
・人を見下すことで自信を維持する

・結果を出したくないから、当事者として手を染めず評論家になる
・自分はどーせダメなのだからと捨てばちになったり
・今が良ければよいと頑張る事をしなくなる
・夢や目標を持ってチャレンジしなくなる
etc

それだけでなく、
自分の自信を感じていたくて、
自信を守りたくって、人の努力の邪魔をして、
他の人の自信を奪ってしまうことがあります。


もっとエスカレートすると、
頑張れないから、生み出せないから奪ったり、
誰かを傷つけたり、やけになって自分を傷つける。

こういう悪循環をどんどん生み出してしまいます。

だから、この悪循環を断ち切るために、

「どーせ無理」は、
「みんなと同じことをやっていないと落ちこぼれになる」
「目立たず、大過なく、無難に」
といった一律的な偏った”常識”、モノの視方で縛られた考え方から
間違って教え込まれたこと。


今、世の中はもっと多様な価値観、多様な考え方があること。
「自分の特徴を活かせる場所は、どこかに必ずある」
そうしていろいろなことにチャレンジし、自分の可能性をどんどん
伸ばしていく考え方や常識もあるということ。


そういう背景をしっかりと捉え、
植松さんが言っているように

◇「どーせ無理」「どーせ自分なんて」て思わずに

「だったらこうしてみたら」で夢はかなう。


◇出来ない理由を探すより出来る理由を考える。

今できないことを追いかけることが夢!

人間にとって大事なことは、
出来なかったことが出来るようになること。

だから、できることを追いかけることが大事。
やったことがないことを追いかける。

そうすることで、少しずつでも
自信も可能性も生まれてくると思います。

『日本の、特に大企業に勤める人や公務員の考え方に多いのが、
「目立たず、大過なく、無難に」というものです。
これは、メジャーリーガーからみればまったく非常識な考え方です。

自分の個性を放棄し、アピールの機会をみずから見逃すなどという
のは、自分の人生を土足で踏みにじるようなものです。

インディオでもメジャーリーグでも、「いらない人」
などという常識は存在しません。
「自分の特徴を活かせる場所は、どこかに必ずある」というのが常識です。』
いらない人は1人もいない タック川本著

この著者はアメリカメジャーリーグのスタッフで以前に、
アマゾンでインディオと生活を共にいていたこともあったそうです。

アマゾンのインディオ達は、老若男女
すべての人が役割をもって生活しているそうです。

また、メジャーリーグの組織では、常に「適材適所」で人を活かすこと、
すべての人を活かすことが、インディオの智恵と同じで、
組織全体の力を最高にすると考えているそうです。

片や、日本では、大企業や公務員だけでなく、
「みんなと同じことをやっていないと落ちこぼれになる」
という考え方があります。


皆と同じようにして、個性を無くし、
失敗をしないように無難にことを荒立てない。

皆と同じでないことはいけないこと。
何かにチャレンジして失敗をしてマイナスになる
くらいなら何もしない方が良い。

そんな考え方がかなり蔓延しているように思います。

そして、落ちこぼれは役に立たない。
役に立たないから「いらない人」といった
考え方にもエスカレートしてしまっていることも
多々見受けれられます。

でも、この著者が言うように、
「落ちこぼれ」「いらない人」などという考え方は、
常識ではない世界もあるということ。


そんな常識ではない考え方、モノの視方があること
を知ることはとても重要です。

だから、
一律的な偏ったモノの視方で縛られ、その偏ったなモノの視方で、
自分は落ちこぼれでいらない人間だと諦めてしまっている人がいたら、

今、世の中はもっと多様な価値観、多様な考え方が
あることを思い出してください。


いらない人は一人もいない、
「自分の特徴を活かせる場所は、どこかに必ずある」
という常識もあるということ。

いらない人は一人もいない-【電子書籍】

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『私たちには、さまざまなポテンシャルがある。
そして、私たち自身の魅力が見えておらず、そこに無頓着である。
外から見れば、あるいはネガティブに見えることですら、
視点を変えれば、 気づき得ない魅力となることがまだまだ日本にはある。

日本人の「稼ぐ力」を最大化せよ 谷川史郎著

この本の中で、日本(日本人)の
魅力のひとつとして寛容性を挙げています。

中国から伝えられ独自の文化に発展させた「禅」を例にとり、
外からやってきたものに対する多様性を許容する寛容さは
日本が十分誇れる能力と述べています。

この寛容さを考えたとき、日本人の短所と言われている
「あいまいさ」を思い浮かべます。

何ごともはっきりせず、白黒つけず、自分の意見を言わない。
「あいまいさ」がモノゴトを先に進めないなど
デメリットになることは多いことは事実。

でも、視点を変えてみれば、寛容さという視点からみれば、
白黒をつけないことで相手を追い込まず許容してあげる
良さもあります。

白黒をつけ過ぎると、相手を追い込み逃げ場を与えない。
逃げ場を失った相手は、猛反撃にでるか自分に致命的な傷を負う。

戦争で考えてみれば、逃げ場を失った人達は自ら命を絶つか
捕虜として苦しい状況を強いられる。

そこまで追い詰められると、恨みが恨みを生み
今度は逆に相手が追いつめてくる・・・

過去から繰り返される戦争を思い出してしまいます。

日本では、戦国時代、戦をしても雌雄が決まればそれ以上
相手を追い詰めることはしなかったと聞きます。
(そうでない戦も多々あったようですが)
和睦という形で決着をつけることも。

相手を徹底的に根絶していまうと、代々の恨みを生み
血で血を争う戦が連綿と続いてしまう。

そうして、双方が致命傷を負っていけば、
地域全体が活力を失うだけでなく、
他の地域から責められてしまう危険性も高い。

想像の域ですが、共生せざるを得ない風土や環境が
寛容の心をつくったのかもしれません。

そう見ていくと、「あいまいさ」は
やさしさの表れのように感じます。

いつもは、ネガティブに思っていることが
視点をかえれば自分の魅力になる。

自分をネガティブにばかり見ている人は、
一度視点を変えてみることをお勧めします。

視点を変えてみると、いままで気づかなかった
自分の魅力が発見できそうです。


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クリスマスの今日、

8歳の女の子から「サンタはいるんでしょうか?」との投書に
真剣に社説で答えたアメリカの新聞「ニューヨーク・サン」のお話。


長文ですが、全文掲載します。


『ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。
きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、
見たことがないと、信じられないんだね。
自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。


でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、
ぜんぶがわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、
にんげんって小さな小さなものなんだ。

ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしか
わからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうと
するには、まだまだなんだ。


じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。
愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、
サンタクロースもちゃんといるし、愛もサンタクロースも、
ぼくらにかがやきをあたえてくれる。


もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい
世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世に
いなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。

サンタクロースがいなかったら、むじゃきな子どもの心も、
詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶ
なくなってしまう。

みんな、何を見たっておもしろくなくなるだろうし、
世界をたのしくしてくれる子どもたちの笑顔も、
きえてなくなってしまうだろう。


サンタクロースがいないだなんていうのなら、ようせいも
いないっていうんだろうね。
だったら、パパにたのんで、クリスマスイブの日、えんとつ
というえんとつぜんぶに、人を見はらせて、サンタクロースが
来るかどうかたしかめてごらん。

サンタクロースが来なかったとしても、なんにもかわらない。
だってサンタクロースは見た人なんていないし、サンタ
クロースがいないっていうしょうこもないんだから。


だいじなことは、だれも見た人がいないってこと。
ようせいが原っぱであそんでいるところ、だれか
見た人っているかな?
うん、いないよね、でも、いないってしょうこもない。
世界でだれも見たことがない、見ることができないふしぎな
ことって、ほんとうのところは、だれにもわからないんだ。


サンタクロースはいない? いいや、ずっと、いつまでもいる。
ヴァージニア、何千年、いやあと十万年たっても、サンタクロースはずっと、
子どもたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。』


この社説にあるように、
サンタクロースがいなかったら、
むじゃきな子どもの心や詩をたのしむ心も、
人を好きって思う心、子どもたちの笑顔も
ぜんぶ消えてなくなってしまう。
とてもさみしい、とても味気ない世界になってしまう。


そもそも、サンタクロースがいないってことは
誰も証明できない。


目に見えないことはいくらでもある。


たとえば、今息を吸っている空気。
たとえば、今聞いている音。
たとえば、今この時の時間。
たとえば、大切な人を思うココロ。
自分自身だって、鏡やカメラで間接的に見えるだけで
直接的に見える人はいない。


でも、それらの目に見えないことは、
日常的に何も疑わずにあると信じていない?


それは、自分がわかってる(つもりの)ことだから。


でも、自分がわかっていることなんて、
全部の中では本の一握り。


わかっていないからこそ、探求し、
科学が生まれ、新しい発見や発明が生まれる。


だから、目に見えなくても、
自分の頭で理解できなくても、
あると信じることがとても重要な気がします。


その存在を無邪気に信じて、プレゼントを待ちわびる
子どもたちに、今日一日サンタクロースになった人は
世界中にたくさんいるはず。


大切な人に、ココロのこもった贈り物を
贈った人も・・・


サンタクロースは必ずいます。
サンタはいると信じる人のココロの中に。


サンタクロースっているんでしょうか?改装版 [ フランシス・P.チャーチ ]
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「グリッド」物事に対する情熱と物事を最後までやり遂げる力

こちらの記事から
↓ ↓
http://logmi.jp/32006

「グリッド」
この研究チームが行った調査の結果では、
成功を収める人たちは、共通してある1つの性格を持っていました。

それは生まれ持った才能や高学歴や知能の高さではなく、
外見の良さでも、身体的能力の差でもありません。


『この成功の収める人たちが共通して持っている性格「グリット」とは、
物事に対する情熱であり、また何かの目的を達成するために
とてつもなく長い時間、継続的に粘り強く努力することによって、
物事を最後までやり遂げる力
のことです。

大切なことは、1つの夢や目標を実現するために毎日毎日、
朝から晩まで、夢中になって頑張り続けることです。
それも短期間でない。』


成功というコトバが誤解を生むかもしれません。

この記事でいっている成功とは、
何事にも成果を出しているという
ニュアンスが近いと思います。

成果を出すためには、
物事に対する情熱と物事を最後までやり遂げる力
が重要。

「アリとキリギリス」や「ウサギとカメ」
などの昔からの物語にも共通する考え方です。

この記事では、
グリットを持った子供を育てるために1番役立つと思われる、
「グロースマインド・セット」という考え方を紹介しています。

グロースマインド・セットとは、
「知能は生まれつき固定されたものではなく、後天性のもの、
努力を重ねることによって変えることができるものである」
という考え方。

だから、
自分は特別な才能や知能がないと
嘆く必要は全くないのです。

怖いのは、自分は特別な才能や知能がないと諦めて
何もしないこと。


何もしなければ、自分の可能性を伸ばすことは出来ないから。

先ずは、
頑張れば必ず良い結果が出せると信じて頑張ること。

そして、
努力の仕方、頑張り方、学び方を知ること。



失敗を恐れずに積極的に挑戦し、たくさん失敗して、
失敗から学んだことを次に生かし積上げること。

何がいけなかったのか、どこが良かったのか、
失敗から学ぶ姿勢を持ち続け、次に生かすこと。


そうしていけば、必ず結果が付いてくると思います。
こちらの記事から
http://banboo.cloudapp.net/fmm/app387/index/disp?code=AQCV3Zpy-w2iUzJKPYYLF_93eGYPUy6HIPHe3sVbD1PpnxJDzRZ_GCeFSfrqb8494R0mOyzaWcl00Z3hUQplOHaseWMd19uq3Jp1o_VSi_kl1jbC4i05KodiI_3UsUxK-0VA1vRqcirAEe2aauhajwm90DC0uvRXqUy9qEcRC5PSFFwNOOtmUdbn0392Id6FsJZ2ZHRmr18dZ9Zag1V5C5D-dmwOTIxuHLXkFhsGGoLweO5uFedhm_QORcBZW-K9d_rd9oaoGx8Bkr_N3eslUKqMqqxyJOYmfpWC7F_fRoW97WM4SS3IkyFIwcxA7PaMJQ--o4XFlzrVXvZs_P49FVGN&state=dfb4337bc554cf843cfff3e93056c0a5#_=_


大切な人と「くつろぎたいとき」に、
こころもカラダも触れていたいと思うのは
自然な感覚、自然な感情。

この動画は、商品のコンセプトを、
その気持ちと情景を伝えていると
自分自身は思います。

だから、
その気持ちや情景やコンセプトや想いを
見据えられず、
「股間に手を当てる」部分だけを指摘して、
クレームに当てはめるべきか?

この作品云々でなく、
モノの視方、感じ方、伝えたいこと、感じて欲しいこと・・

価値を提供する側、その価値を受ける側も
もう少しそのモノ、その事の背景を知るべし。

そして、
価値を提供する側はその”責”を負っている自覚を持つべき。

この記事を書いた人に・・・

そのような主体として自覚と責任感を思いに込めて
この記事が出来上がったとは思えません。

どういう意図・目的を持って記事を書いたか
を伝えてほしいところです。

価値を受ける側も、その価値を育てるべく、
それを識別する”良いお客”になる目線、
評価項目を持つべ木状況のような気がします。