2007年04月12日(木)

お知らせをひとつ。

テーマ:教育
新学期で、ちょっとバタバタしている松尾です。
しかし、新たな事が始まる、という感覚は、喜ばしいものです。
家の近所で古いマンションを解体しているのが気になりますが。
(アスベスト……)

さて、ちょっと雑学はお休み、告知をひとつさせてください。
だいぶ前からやっているのですが、「株式会社東大ネット」という家庭教師派遣業社で、スタッフとして働き始めています。当面の仕事は、その会社の公式ブログの編集と、公式メルマガの執筆発行。以前はこのブログに教育絡みの記事も書きましたが、現在はこちらに移しているわけですね。

 リンクはこちら→ブログ メルマガ

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それから、株式会社東大ネットはこちら

学生主体でやっている会社なので、つまらない人間関係をとやかくしないで済むし、なんとなく居心地が良いです。ただ、規模が小さいので、どうやって大きくしていくか、難しい課題ですが……家庭教師業界は、変な企業もいるし、ビジネスモデルの点で問題もあります。真っ当な仕事をして、きちんと成果を出して、業界全体をより良い方向に変えていければ、と思っています。(そういう想いを持ったスタッフが多いので、参加しました)

がんばりますヨ。



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2006年11月05日(日)

書評:凍りついた瞳が見つめるもの

テーマ:教育
児童虐待の被害にあった人の手記をまとめたもの。私は家庭教師として子供と向き合う上で子供の心理について知っている必要があることと、まぁ私自身が軽い抗不安・睡眠導入薬をときどき飲んでいることを公言しているような人間で、多少危なっかしい(家庭環境は比較的恵まれていた方ですが)という事もあり、この分野にはいくらか興味を持っています。古本屋にて、100円で購入。

凍りついた瞳が見つめるもの―被虐待児からのメッセージ
↑Amazonリンク

そもそもはこの本の編者・椎名氏が、以前に児童虐待について著書を出版したところ、それを読んだ、今は大人になっている、かつての被虐待児童が手紙を寄せた所から話は始まる。その数、数百通。それを纏め、専門家からの寄稿なども得て、あらためて一冊の本にしたのが本書です。1995年刊行。文庫版は97年初版。
今どき児童虐待の話ならどこででも聞ける、などというと不謹慎ですが、そういう世の中になってしまいました。以前より増えたのか、以前は埋もれていた事例が明るみに出るようになっただけか、そのへんは不明だけれども、虐待の果てに殺されてしまった子供のニュースは、毎週だか毎月だか、とにかく途切れる事なく聞こえてきます。最近は児童相談所の対応に問題のあったケースなどが特に報道されるようになっているところを見ると、特徴のない虐待死の事例は、だんだん報道すらされなくなっていくのかも知れません。一方で、「虐待」というテーマが知れ渡るにつれ、精神科の間では「実際には虐待と言うほどの扱いを受けたわけではないのに、自分は虐待を受けていたと考えてしまう」というケースが広範に存在することも認識されるようになり、まったく奇々怪々の様相を呈しています。

ま、それはそれ。この本の話に戻りますと、虐待とか精神障害とか、そういうケースについて通り一遍の知識しか持っていない、実態を良く知らない人に、ちょっとめくってみてほしい本です。文庫版38ページから載っている事例が出色です。

 第一章 言葉と暴力による虐待
 第二節 実の父親または両親から
 CASE4 不思議なこと

「……友達と仲良くなるにつれて、不思議なことがわかりました。ほとんどの人は私のように親や兄弟から暴力を受けたことはないようなのです。……私のように包丁を持って向かってくる親から逃げ回ったり、頭を殴られて次の日までいたかったり、ということは、誰もないようなのです。……私は驚きました。愚かなことに私は、子どもはどこの家庭でも暴力を受けているのだ、親は子どもの敵で家庭生活は戦いなのだ、と思っていたのです。成長するにつれて私の家庭が異常で、他の友達の家庭が普通なのだと気づきました。」

もう何をか言わんや、であります。唖然としますが、恐らくこういう勘違いは、被虐待児においてはそう珍しいことではないと思われます。幼い子供にとって家庭は全世界ですから、そこで戦争が起きていたら、世界中で戦争が行われていると考えてもおかしくないわけです。さらに、こういう家庭は両親も含めて外の世界から自閉する傾向があるので、この手記を書いた人は、中学生になるまで我々が持つ「家族」というものの一般像を知らずに育ってしまった。
こういう内容でなくても、家庭内ルールが社会では実は非常識だった! ということは良くありますよね。大半は笑い話で済むわけですが、この事例ときたら……

ついでに言えば、人は皆、多かれ少なかれ生まれた家庭での人間関係をモデルに自分の周囲の人間関係を形成しますから、虐待や夫婦喧嘩が横行する家庭に育った子は、我々が当たり前と感じる親和的な人間関係をなかなか取り持てない事になります。
緒形拳の最新主演映画「長い散歩」のワンシーンで、虐待されていた子供が、緒形演じる優しい老人が夜店で買ってきてくれた焼きそばを、景気良く「すぽーん」とアッパーカットですっ飛ばし「嘘つき。置いてけぼりにせんってゆーたやん。」と呟くシーンがあるんですが、このシーンは親和的な人間関係をなかなか取り持てない被虐待児の行動を活写した名シーンだと思います。まさにこんな感じで、幸せに暮らしてきた人間には予想もつかない仰天痛撃アグレッシブ・アクションで、好意を景気良くふっとばしてくれたりします。一度こうなってしまったら、本人も周囲も、本当に大変。もちろん、いちばん苦しんでいるのは本人です。
絶対に虐待など許してはいけない、と思います。

ちなみに、本書第3章は「我が子への虐待」かつての被虐待児が自分の子供を虐待してしまう、どうしたらいいのだろう、という悩みが語られます。また全体を通じて、この本に収録されている手記は既に大人になった被虐待児であるため、かつて虐待を受けてしまった人が親になる不安が繰り返し語られ、また虐待の世代間連鎖が繰り返し言及されます。ニュースだけ見ていると「罪のない子供を虐待するなんて、人でなしだ!」と単純な怒りを抱いてしまいがちですが、加害者側の複雑な事情にも想いを馳せられる一冊です。

類書と比べてどれくらい優れているかと言えば、類書をあまり知らないので何とも言えませんが、実に恐ろしい、一冊。

凍りついた瞳が見つめるもの―被虐待児からのメッセージ
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2005年12月20日(火)

数学漫談

テーマ:教育
卒論の進みが良かったので、ついでにいろいろ書きたくなって、一筆書いてしまいました。せっかくなのでアップしますね。数学をどうしたら好きになれるかについての、骨太の方針です(笑)

───────────────────────
皆さん数学は好きですか? そうですか嫌いですか。

五教科の中で最も不人気なのが数学だろうと思います。少し成績のいい子なら、他の教科は良いでしょう。英語は外国の人とコミュニケートするのに役立つし、音楽やファッションについて海外の情報を得るのにも使えます。国語は純粋に本を読む楽しみとつながるし、社会は歴史物語なんかが面白い。理科は物理現象について知る事ができたり、最先端の科学技術について理解する役に立ったり、宇宙について知ったりとエキサイティングです。生物学は医学とも関係して、自分自身の体と健康について知る助けになるかも知れない。それぞれに楽しかったり役に立ったりします。
それと比べて、数学って何だ。マーケットで買い物をするのに微積分は必要ありません。料理に入れる調味料を量るのに三角関数は使いません。この世において肉眼で見えるものを相手にしていれば、虚数なんてものにお目にかかることはまず有り得ません。三角形の内角の和が200度だと信じていても、車の運転はできます。何の役にも立ちません。端的に苦痛です。

さて学生の諸君。それでも諸君は学校や塾や予備校で数学を教え込まれるわけですが、この事実についてどう考えたらいいと思いますか。苦痛だからできるだけ避けたいですか。でも、そうしていると素敵な点数のついた答案用紙が返ってきたりして、何かと心憂いことが多いでしょう。そこで今日は不肖拙者が諸君に数学を学ぶ心構えを説いて進ぜよう、というわけです。耳かっぽじってよく聞くんだぜ。

諸君。無駄なあがきはよして、現実を受け容れなさい。数学の勉強をするのが無駄で不合理で苦痛だと騒いでみたところで、日本の学習カリキュラムには数学が入っているんですから。その事実を受け容れて、黙って定理を暗記し、計算練習を積み重ね、難問の解法を覚えなさい。安心してよろしい。これは無駄ではない。諸君がこれから生きていく中では、数学だけではなく不合理なことがわんさと諸君に降りかかってきます。意味もなく待たされたり、意味のない書類をつくったり、意味のない数字をパソコンに入力したり、それで意味のない計算結果を意味もなくプリントアウトして他の部署に回した挙げ句、その書類を読みもせずにハンコを押してくれる意味もなくエライ肩書きを持った上司と無意味に一緒に酒を飲んで飲みすぎて吐いちゃったから板前さんのつくってくれた美味しい料理も無意味だったね。そんな日常が諸君を待っているわけです。数学の勉強は、そういう無数の不合理と苦痛に耐える強靱な精神を鍛え上げ、徒労を少しでも賢く素早く処理する技術を磨く役に立ちます。諸君、数学は非常に有意義だから安心して取り組みなさい。問題をいかに素早く少ない労力で処理するか、その際にどのようにすれば精神を麻痺させ苦痛を感じないようにできるか、研究しなさい。雑念を払い精神を統一することです。心頭滅却、数学も上司へのお追従も楽し、です。

さて、しかし学生が百人もいれば、中に何人かは、数学が楽しいという人もいるものです。パズルを解く感覚で数学の問題を解くのだ、とか何とか言っちゃったりして。そうなれればしめた物です。だから、今度はそうなるための方法を諸君に伝授しよう。

先ほど諸君には「悪あがきはやめて、黙って数学の勉強をしろ」と言いました。それがポイントです。諸君、嫌々数学やってるでしょう。ダメですよそれじゃ。皆さん、大きいエビとかカニとか好きですか? エビカニが苦手な人って、指の先で恐る恐るつついたり、箸で突き刺したりして、一向に殻を剥けなくて食事が進みませんよね。数学も同じで、恐る恐るつついていても、一向に解けるようになりゃしないんですよ。やるならがっぷり四つに組め。足をひっつかんで胴体からもぎ取れ。そういう覚悟でがっぷり取り組めば、まあ少しはできるようになってきますよ。そうなると、嫌なものをいかに素早く処理するか、カニをいかに素早く解体するか、マニアックな喜びを感じられるようになってきます。カニの身を食べることはそっちのけで、他人のためにまで殻を剥き始めたら、しめた物です。そんなふうに解かなくても良い数学の問題まで、いかに素早く処理するかを競い始めたら、貴方は数学=パズル派の仲間入りです。エリートコースです。受験で数学が出来ると有利ですよ。センター試験で全教科要求する国立大学とかも視野に入ってくるし、文系で数学が出来ると、難関私大がぽろっと簡単に突破できちゃったりしますから。

さてさて。しかしね、これはまだ数学の奥義ではないのだよ。学生を千人くらい集めると、中には一人くらい「数学は美しいから好き」とかいう化け物がいる。こいつこそは数学の神に選ばれし者だ。こいつが真のエリートだ。ニュータイプだ。スーパーサイヤ人でも良い。
さあ、諸君どうすれば自分もこのスーパーエリートになれると思うか。これが数学の奥義だぜ。よーく聞くんだ。おい、そこ寝るな。

簡単です。たとえば諸君、恋をしたまえ。純愛トゥルーラブストーリーじゃダメだぜ。もっとドロドロしたヤツじゃなきゃ数学の神は振り向いてくれない。三角関係とかいいね。友達を裏切り恋人に裏切られるようなヤツがいい。人間関係とか、社会とかのドロドロ加減、汚さ、狡さ、どうしようもなさ、救いの無さを心の底から感じなさい。辛酸をしゃぶり尽くせ。答えが出ないと苦しめ。そうすると、綺麗に唯一の答えが出る数学が、神々しい美しさを持っているように見えてくるから。そしたら、まあ恋は忘れて、数学に打ち込みなさいな。大丈夫。君の好きだった男はダメ男だったんだよ。お前、世界の半分は女じゃないか。

アイザック・ニュートンは幼い頃に父を亡くし、母は経済的苦しみを解決するために牧師の妾になりました。この牧師は幼いニュートンを嫌い、邪険にしましたから、ニュートンは教会と教会が押し付ける聖書が嫌いになり、神の摂理を直接読み取るために宇宙の原理を探究しました。その成果がニュートン物理学です。彼は、人間関係や社会の汚さを幼い頃から叩き込まれていて、数学・物理学の美しさに神の救いを求めたわけです。私の言うことも、一理と言わず、0.5理くらいはありそうでしょう?

諸君が人生と数学を楽しめるよう祈ります。
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2005年10月30日(日)

信じるが、期待はしない

テーマ:教育
「信じるが、期待はしない」これ、子供を伸ばすコツではないかと思ったのですが、いかがでしょうか。

「期待する」とは、具体的に「こうなってほしい」と思うことですね。たとえば「今度のテストで平均点を上回って欲しい」といったことです。ポイントは、達成目標に具体的な期限と内容が設定されていることです。これが子供にとって達成可能なものなら良いけれど、子供の能力を上回る期待は、子供にとってかなり辛いことになります。特に小学校以前の小さい子にとっては、親の期待に応えられなかった、という意識は自己評価を大きく下げます。それに期待してしまうと、はやく達成されないか、次こそはうまく行かないか、と大人の側もだんだん焦ってしまいますからね。冷静に見ることができなくなってしまいそうです。
「信じる」とは、達成目標に具体的な時期や内容を盛り込まない期待の仕方、と思っていただければいいでしょうか。「この子はこの子なりの価値観とペースで、うまいことやっていくだろう」といった考えで、おおらかに見守ることです。「期待しない」といっても、放り出すのではない。期待しないけど、信じることはするのです。

これだけで全てが解決される、というものではありませんが。でも自信に乏しい子、あるいは他人の評価を気にして結果を隠そうとするタイプの子、隠しごとやウソが多いタイプの子には、効く気がします。

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2005年10月26日(水)

教育ってなんだろう?

テーマ:教育
教育のネタも書きます。教育って何だ?

受験が勉強ではない、というのは、もう間違いなく言えることだと思います。テストの点が良くて東大に入ってきた人の中に、どうしようもないヤツはいっぱいいる。オウム真理教にだって、スーパーフリーにだって東大生はいた。汚職を摘発される政治家にもいる。受験に強いことは、人間の価値や知恵の深さとはまったく無関係です。それに、小学校受験や幼稚園受験で良い学校に入った子が全員そのまま高学歴になるわけではない。中学受験で大学付属中学に入った子達は、一般入試で大学に合格した学生より明らかに勉学の面で劣る。早い時期に勉強させて良い学校に突っ込むことは、実に子供を伸ばすどころかダメにすることの方が多いようなのです。加えて、やはり小学生に受験勉強をさせるというのは、どうしても酷な気がします。小学生が自発的に「受験する」というのは、多くの場合は事実上不可能です。やはり意志が固まるのは十代も半ばにさしかかってから。それまでは、受験勉強なんかよりもっと大事な、学ぶべき事があるような気がします。

受験を抜きにして、国語算数理科社会、いわゆる学科の勉強が教育でしょうか。これは誰でも一度は疑問に思ったことがあると思いますが、こういう「教育」が子供に与えるもの、たとえば二酸化炭素は酸素や窒素より重いとか、鎌倉幕府は1192年に設立されたとか、二元三次方程式だとか、そんなものを我々は社会人になってから使ったか。使いませんね。しばらく前まで、大企業の採用担当者は「大学の勉強は何を学んでも良い。清少納言を学んでも良い。マルクス経済学を学んでも良い。ただし会社に入ったら全部忘れてもらう。社員としての教育は、会社に入ってから施す」という考えだったと言います。(今では社員教育コストを惜しむ傾向や、英語の必要性増大から、TOEICの点などを要求する企業も増えているようですが)大学の成績などより、むしろアメフト部で鍛えた根性とかの方が評価される。小学校の教育は良いとしても、高校・大学といった高等教育を、学者になるわけでもない幾多の青少年に突っ込むことは有意義なのか、どうか。全て無駄とは言わないが、これほどの社会的資本を注入するに足るものなのか。

では、心の教育か。しかし、心の教育って、何を教えればいいのでしょう? 前向きで健全な青少年を育てることか。私は前向きで健全な人達が、心を病んで苦しんでいる人達に対し、善意の微笑みを浮かべながら差別したり心ないことを言ったりするのを知っています。深い人間心理への洞察? 人生の真実への眼差し? なにも若々しい心に、そんな薄暗い、鬱病の原因になるようなものを植え付けなくたって良いじゃないですか。そういうものは、偶然の事故で負った心の傷から、少しずつ開花していけばいいものです。心は自然と育つものであって、学科の教育みたいに制度的に計画を立てて育てられるもんじゃないだろう、というのが正直な感想です。また、社会学には「学校とは読み書きや計算を教える場である以前に、時間厳守や集団行動の仕方、反復作業を厭わない精神など、工場労働に必要な性格を人間に植え付けるための場として、産業革命のころに誕生したのだ」という意見すらあります。我々は子供を学校に入れて、豊かな人間性を開花させようとしているのか、それとも工場機械の一部に加工しようとしているのか。私が学童時代に読んだ国語や道徳の教科書が、子供の心の豊かな成長を願って編纂されているのは間違いありませんが、同時に学校で叩き込まれる「整列! 気を付け! 礼! 着席!」が、産業労働者向けであることは間違いないようでもあります。そして自分自身もそれで育った私達は、もはやそれにまったく疑問を抱かないほどに、産業主義に毒されてしまっている……ような気も、しないでもありません。よく分かりませんが。

私の教育の基本は単純です。生き抜くための、幸せを掴むための、そして周囲を幸せにするための、パワーを身に付けて貰うこと。それが自分の教育の目的だと考えています。現在の社会がどうだとか、教育制度、受験制度そのものが間違っているとか、そういうことは関係ない。その間違った社会に迎合するも、その社会に抵抗するも、その社会を改革するも、それは子供一人一人の自由。ただ、それぞれのやり方で、それぞれの主義で、あらゆる状況において、如何なるアクシデントに見舞われても、それを克服して自分と周囲の幸福を守り抜ける力。そういう力を身に付けてほしい。
受験産業を通じて教育に携わるのは、そこが今日の青少年が生きる環境であり、かつそこで私の教え子達が成功することが経済的・政治的な力を得ることにつながるからです。いくら受験の弊害を言い立てたところで、実際に子供たちがその中にいる以上は、その中で如何に善く生きるかを子供たちに教えねばならない。また、そうして自分と周囲の幸福を守り抜ける力を持った人が経済力・政治力を得れば、ハードウェアの整備(スクールカウンセラー制度の拡充、ドメスティックバイオレンス被害者のためのシェルター増設などなど……)も可能になる。
ただし、社会改革家を育てる気はあまりありません。というのは、あまり欲張って「社会全体を良くするんだ」みたいな理想を抱く人は、かつての左翼革命家達のように、しばしば間違いを犯すからです。もっと具体的に、「自分の周囲の人達に幸せになって欲しい。誰かの幸せを邪魔するようなことはしたくない」といった考え方のほうを信頼します。あくまで直接的な人間関係を通じて、自分の身近な人を幸福にできる力を重視します。
そういう力を身に付けさせる教育をするには、私はまったく力不足ですが……しかし、そういう考えを伝え、子供自身の努力を引き出すことはできるかも知れません。

なお「あらゆる状況において、如何なるアクシデントに見舞われても」という所から、私の教育の「自立主義」が導かれます。誰かがいないと自分の面倒が見られない、という人は、その人を失うと立ち直れなくなってしまうかも知れない。自分一人立ち直れないならまだしも、周囲の人にしがみついて、周囲の人まで苦境に引きずり込んでしまうかも知れない。だから、互いに支え合うのは良いけれど、一人でもやっていける体力は必要だ。そう考えて、自己観察、自己批判、問題発見・分析・対策立案といった能力は重視します。いま一人ではやっていけないという人には、一人でやっていけるようになるまでのケアを用意するなり、うまく人に頼っていけるようなスタイルを模索するなりして、その人に可能な幸せを模索する。とにかく不幸な人が周囲を不幸にする、という悪循環は断ち切りたい。具体的にはドメスティックバイオレンスの世代間連鎖など、ですね。

甘えのある生徒には自立せよと呼びかけてやれば変わるかも知れないし、自立できるだけの体力のない生徒、支えきれない困難を抱えてどうにもならない生徒には、その状況から脱するために必要なケアを与えて、最終的に自立して幸福を実現できるよう道筋をつけてやりたい。自分、および自分の周囲の何人かを幸せにできる、そういう力を持った人間が増えれば、妙な思想だの何だのを鼓吹しなくても、社会は良くなるはずだ。それが私の計画です。

あーっまったくっ!
無理! 絶対無理! 自分にこんな力ないっっっ!!
でも、できる事を模索します……

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2005年09月19日(月)

反面倒見主義:本人の自覚の重要性

テーマ:教育
塾の広告には「面倒見主義」なんていう文句が踊っていたりしますが、それで良いのでしょうか。教育の目的が「技能を身に付けさせること」にあるのなら、何でも面倒見て、お膳立てして……というのは良くないのではないかと思います。生徒を頼らせてしまい、自分で自分のために勉強するという意識が育たず、他人任せのヤル気のない勉強になってしまいますし、勉強内容の面でも生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまうでしょう。上位の成績をとる「できる子」というのは、けっして面倒を見てもらったおかげでできるようになるのではないのです。

「生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまう」とはどういうことか、もう少し詳しく考えてみましょう。これは特に数学、算数において見られる傾向なのですが、子供の中に、奇妙な間違い方をする子がいるのです。たとえば小学生が「45個のあめ玉を兄弟で分けます。兄と弟の個数の比が4:5になるように分けると、弟は何個のあめ玉をもらうことになりますか?」という問いを解く場合。以下のような解答を書く子がいます。

 4 + 5 = 9
 45 x 9 = 405
 405 / 5 = 81
 答え:81個

あるいは、こんな答えもあります。

 45 / 5 = 9
 9 x 4 = 36
 答え:36個

正解は25個で、二人とも間違いです。では、この子達はなぜ間違えたのでしょうか。ヒントは模範解答として与えられる、以下の式です。

 4 + 5 = 9
 45 / 9 = 5
 5 x 5 = 25
 答え:25個

さっきの二人は、実はこの模範解答を必死に暗記しようとした子達なのです。一人目の子は「比の数字を足し合わせる」というのは覚えていましたが、その結果出た「9」という数字であめ玉の個数を、どうするんだっけ、かけ算かな? と思いだし間違えて、失敗してしまったのです。後者の子は「先に割って、あとでかけ算」という点は覚えていましたが、その前に「比の数字を足し合わせる」のを忘れて、そのへんにあった数字を適当に当てはめてしまいました。
こんな小学生の様子を見ると「この子はどうしてこんなに簡単な問題ができないのだろう、考えれば分かりそうなものなのに」と思うかも知れませんが、何のことはない。この子達は「この世のどこかに模範解答というものがあり、それを正確になぞるのが勉強だ」という思い込みを植え付けられてしまっているのです。どこかで一度こうなってしまうと、その後の勉強はすべて「模範解答の暗記」になってしまいます。ひとつひとつの出題形式について解法を暗記していたら、小学校の算数だけでも数え切れないほどのバリエーションがありますから、小学生の頭は簡単にパンクします。あの問題とこの問題の解法を混同し、何度も何度も間違い、それによって自信を失い、ますます「自分の考えは間違っており、この世のどこかに正しい解答はある。自分はそれを暗記し、正確になぞらねばならない」と信じ込みます。悪循環で、算数のできない、ついでに自信もない、マニュアル思考人間、いっちょうあがり、です。
中学高校と進めば、あるいは成績上位の方に目をやれば、ここまでひどい例は少なくなります。しかし、ある賢い方法を実行すれば勉強ができる、と信じているタイプの子は、案外好成績の子の中にもいます。たとえば以前、病弱で高校を中退したが大検を取って東京大学を受験し、一回落ちた。今年は合格を勝ち取りたい、という浪人生の相談を受けたことがありましたが、この子は英語の読解法などに関して参考書の進める方法をそのまま実行しており、山のような参考書が書棚をひとつ埋めていました。そのくせ、ひとつの問題集を最後までやり遂げたこともない。優れたマニュアルを探すことには熱心だけれど、自分の選んだ道を最後まで信じて走りきる、ということができないのです。しかし、このような「正確にマニュアルをなぞる」タイプの思考法では、予想外の出題や曖昧な設問に対応できない。そして、東大文系の問題というのは極めて曖昧な出題の仕方をするのです。必要なのは知識ではなく、問題文から何を答えるべきかを読み取る「センス」です。センスは理屈ではなかなか育たない。自分で感覚を全開にして設問を読み、出題者の意図を感じ取らねばならないのです。

先日、観世流宗家・観世清和氏のお話をうかがう機会に恵まれました。観世流というのは、能楽の最大流派です。この観世清和氏の仰るところでは、大人に対する能の稽古は、決して手取り足取りはやらないと言います。ただ、弟子の舞い方が下手な部分があると「おい見とけ」と言って師匠が舞ってみせる。そして弟子に一言「分かったな?」と言うそうです。一見非合理的にも見える。しかし、そこで弟子は必死に己の技術を磨くガッツと、理屈ではなく自分で必死に研究した結果としての技術を体得することができるのだと言います。これには耳を傾けるに足るものがあるように思います。清和氏は、お父上からこの「分かったな?」式教育を施され、どうしても分からないところはこっそりお父上の書斎に忍び込んで、分からないようにお父上の舞を収めたビデオテープを盗み出し、稽古せねばならない部分を必死で繰り返し見て、衣服のちょっとした歪み方からようやく父と自分の体使いの違いに気付いたと言います。果たして自分の教え子が、この観世氏と同じだけの努力をして私の数学解答法を盗んでいるかどうか。とてもそこまでの気迫・気概はないでしょう。つまり多くの子達は、面倒見よろしく何でも与えてもらうことに慣れ、「勉強しよう!」という進取の精神がまったく欠落してしまっているのです。

教育は第一に本人の自覚を求めることでなければならない、と思う次第です。

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※もっとも、これは本人が精神的に自立し、自分で勉強に取り組めることが前提なので、精神面に問題がある子には、この方法がすぐに通用するとは限りません。
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2005年09月12日(月)

面倒見の良い教育が良い教育か?

テーマ:教育
このところ、ちょっと「月曜教育特集」の内容について悩んでいます。言いたい事が言えていないような、胡散臭いことばかり言ってしまっているような。それで先週は一回記事を落としてしまいましたが、今日は気を取り直して、私が疑問に思っていることを書いてみたいと思います。

塾の広告には「面倒見主義」なんていう文句が踊っていたりしますが、それで良いのか。教育を「技能を身に付けさせること」としてみると、面倒見のいい教育というのは、問題があるんじゃないかと思います。ひとつには、生徒を頼らせてしまうので。もうひとつには、生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまうので。
「生徒を頼らせてしまう」というのは、技能習得の仕方、勉強の仕方に関する問題ですね。面倒見のいい塾というと、生徒が解いた試験の解答を分析して、分析結果を綺麗な成績表にまとめて、それを読めば自分のどこが弱点でどんな勉強をすべきかが書いてあって、細かくレベル毎に別れた自分にピッタリのレベルのクラスに所属して勉強し、分からないところはいつでも先生に質問できる、といったところでしょうか。しかし、生徒というのはそんなに何もできないものなのでしょうか。自分の受けた試験結果を自分で分析することもできないのか。それを自分でまとめて頭にぶち込むこともできないのか。どんな勉強をすべきか自分で分からないのか。塾のクラスが多少ハイレベルすぎても根性で追いつけないのか。分からないところは自分で解答を読めば分かるんじゃないのか。それくらいの自己管理ができないで、果たして社会に出て役に立つ人材になれるのか。義務教育9年+高等教育3年を終えた18歳の若者が、自分のケツも自分でふけなくていいのか。せめて自分の本分である勉強くらいは、自力でできなくてどうするのか。
そして、上位の成績をとる「できる子」というのは、概してこれらのことを自分でやっているものです。塾側がこうした作業を生徒から奪って、お仕着せの学習環境に子供をはめ込んで、本当に勉強ができるようになるのでしょうか。実際に勉強ができる子は、まったく違うやり方をしているというのに。

塾がいくら丁寧に面倒を見るといっても、それには限度があります。自分で自分を見る以上に、他人が自分を見ることなどありえない。自分は自分を24時間監視できますが、教師はどうせ一日2時間も会っていれば長く会っている方で、その間も多くの生徒を同時に見るのだから、実質的には10分見てもらえればいい方です。そしていくらピッタリ教師が一対一で生徒にへばり付いたとしても、本人の自覚がなければ、身の入った勉強などできるものではありません。家庭教師が2時間3時間とへばり付いて問題の解法を解説をしても、その解説内容をぜひ身に付けようと生徒が耳を傾け、考え、自分の頭の中を整理し、構築し、自分の今までの間違いを見つけだすようでなければ、何を言っても無駄というものです。ダラダラと練習問題を繰り返しても「やっぱり勉強はつまらない」とか「やっぱり自分はできないのだ」とか、勉強の邪魔になるような信念を強化するだけのことです。勉強を自分自身に関係する問題と捉えて、自分の現状を分析し、必要なものを模索し、自ら勉強を進めるようでなければ、勉強ができるようになどならない。

「生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまう」という勉強内容の問題は、来週論じましょう。

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2005年08月29日(月)

自立の効用

テーマ:教育
ここ数回、家庭教師についてばかり書いてしまいました。家庭教師に興味のない人にはつまらなかったでしょう。本日は教育一般について。

私は幾つかの原則をもって教育に携わっています。そのうちのひとつが「子供を独立した個人として扱う」という事です。そのように考えるほうが、様々な意味で子供にとって有益だと考えています。理由は幾つかありますが、大雑把に言えば、個人として尊重されることで自覚が高まったり自信が深まったりすることと、個人として自立を要求されることで厳しく育てることができる。「君は自立できる」「君は自立せねばならない」という、飴と鞭の双方の意味を持つわけです。

これが子供の心の成長や成績の向上に役立つであろう事は、なんとなくわかるでしょう。しかし、それがどこまで重要かと言われればピンと来ず、実際には「分かってはいるけれど、つい……」という親御さんが多いのではないかと想像します。ちょっと考えてみましょう。

現在、成績が振るわないとしましょう。どれだけできていれば「成績が振るっている」と言えるかは基準次第なのですが、とりあえず本人が納得できていない状態が「成績が振るわない」状態です。
ここで、自立した子なら「やっぱ、こりゃ、あかんよな」と勉強を開始するでしょう。(それができていれば、そうそう「振るわない」状態には陥らないでしょうが)
それに対して、自立できていない子というのは、どうなるか。そういう子は、そもそも「何が問題か認識する」という作業を他人にやってもらう事に慣れてしまっています。なんとなくまずい、というモヤモヤ感は持っていても、それを解決すべき問題として捉えられない。周囲で見ている教師や親御さんは「どうしてサッサと勉強してこの状況を変えないんだろう?」とヤキモキするでしょうが、それは「これは勉強して解決すべき問題なのだ」という認識があるから。本人の気持ちの中では、それは解決策のある「問題」ではなく、あくまで「もやもや」でしかないんですね。「これ、まずいんじゃないの?」と指摘されるまで、解決のための行動を起こせない。
さて、ようやく周囲が問題を指摘しても、「自分が解決しなければ誰も解決してくれない」という覚悟がありませんから、問題を先送りします。彼らにとっては、食事は待っていれば出てくるものだし、部屋は学校に行っている間に掃除してもらえるものです。「自分が問題を解決しないと状況は変わらない」という発想が希薄ですから、「こりゃ何とかしないとなぁ」と思っても、思うばかりで行動が出ない。何をすべきか指示される事に慣れていると、自分がどういう方向へ動くべきか分かっていても、指示がない限り動けないなどという事になります。ビジネスの分野では「指示待ち人間」という言葉がよく聞かれますが、就職活動の際に「指示待ち人間」として採用してもらえない人間は、決して就職活動を始めた途端に指示待ち人間になったのではなく、学生時代から指示待ち人間なのです。
それ以前に、「勉強しなくて良いの?」と言われて反発する例も多いでしょう。他人への文句や反発が多いのは、伸び伸びと自分の力を発揮できていない人間の特徴です。「けっきょく問題を解決するのは自分だし、解決できなくて困るのも自分だ。これは純粋に、自分の問題なのだ」と分かっていれば、周囲から何を言われようが自分の取るべき行動は決まっており、従って何を言われようが問題にはならないはずです。親御さんに「勉強しなくて良いの?」と問われてお子さんがムッとするのは、それだけお子さんにとって親御さんの言葉が無視できない、親御さんの影響を強く受けている、親離れできていない、という事に他なりません。
さて、勉強する段になっても、自立できていない子は一向に勉強が進みません。勉強は、自分にとって十分なレベルの教材を使ってやっていれば、必ず理解できない問題にぶつかります。そのとき、「これも自力で何とかするしかないのだ」という発想が無いと、理解が成立するまでかじり付いていく事ができず、「疲れたから休憩」とマンガを読み始めたりしてしまう。
この「勉強は始めたが、まだ甘えが残っている」というパターンは、比較的優秀な成績を取っている子にも見られる現象です。例えば「数学の模範解答が読んでも理解できない」という子は多いですが、解答が読んでも分からないのに、どうして勉強ができるのでしょうか。確かに数学の解答というのは、日本語の文章とも違って、特殊な読解能力が要求されます。他人の書いた式の意味を理解するというのは、存外難しい。しかし問題が解けないだけならいざ知らず、解答の意味が分からないなどという事態は、相当ひどい状態だとも考えられないでしょうか。答えを教えてもらっても、まだ分からないのですから。そのような事態を放置していられるのは、なぜでしょうか。「分からなくてもいいや」という甘えがあるからではないでしょうか。
また、良い教材を探すことに異常に熱心な子、というのもしばしば見られるパターンです。参考書に載っている「パラグラフリーディング」のような、名前のついた特殊な解答法を忠実に実践していたりもします。こうした傾向は「解決策は他人が示してくれるので、それを学ぶべし」という思考法の存在を示しています。「他人が教えてくれるものに従う」これは要するにマニュアル思考です。マニュアルを良く読んで、それに従おうとする。優れたマニュアルを探し出せればそれでも何とかなるかも知れませんが、現実には予想外の事態がつきものです。そういう時に、とりあえず対応できる粘り強さ、力強さが無いと困る。このタイプの子達には、どんな路面でも走れる四輪駆動ジープのパワーがありません。中にはサラブレッドのように速く走る子もいますが、危うさがつきまといます。

この通り、本当に自立できている子というのは実に少なく、ある程度以上の好成績を収めている子の中にも、かなり甘えた考えの持ち主はいるものです。そしてその考えを払拭できれば、周囲は圧力をかける必要がなく、本人は周囲との軋轢に悩むことなく、驚くほどのパワーとスピードで成績を向上させることが可能です。
さて、いかがでしょうか。「自立が大切」という私の原則、説得力があるでしょうか……

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2005年08月22日(月)

家庭教師業の未来

テーマ:教育
前回、前々回と家庭教師という業態について書いてきましたが、それにしても家庭教師という仕事にはいかがわしいイメージが絡みついています。またイメージだけでなく、実際にかなりいかがわしい人間が紛れ込んでいる業界だとも思います。信頼できる教師に出会えるかどうかは、まったくもって当てずっぽうです。
私は常々、個々の家庭教師の技能をきちんと評価できるようにしなければ「家庭教師」という存在自体がいかがわしいイメージを払拭できないと考えています。指導方針を表明し、過去の指導歴を数字も含めて示し、数字に表れない部分について指導を受けた人の主観的な評価も併せて示し、それらが詐称でないことを第三者が保証する。学生アルバイトは、ほとんどが生徒一人しか指導しないのだから過去の指導歴などといっても仕方がありませんが、それにしても学生アルバイトの家庭教師というものの実体を明らかにすることには意味があるでしょう。

しかし、仕方がない部分もあるかも知れないとも思います。きちんと能力を評価され、保証された家庭教師がいたとして、彼を雇うためにいくら払わなければならないのでしょうか。それほど優秀な人間は、家庭教師業界にもそう多くはいないでしょう。そんな中で「あの人は優秀だ」となれば、その人の給与は途端に跳ね上がってしまう。そもそも一人の子供に、社会的に有為な才能ある人材を一人ぴったりつけて勉強を見させるという事自体に、無理があるのではないでしょうか。学生なら、少し才能のある人間でも「学生だから」「アルバイトだから」という理由で、その労働力を安く買い上げることもできるかも知れない。そうすれば家庭教師というものも可能になるかも知れない。
ちなみに、家庭教師は普通子供の学校が終わる時間まで仕事がありませんから、平日はまず一人しか指導できません。仮に平日毎日生徒をとれたとして5名。土日に各二人ずつ、計4人見て、それから浪人生一人を平日昼に見たとして、計10人。一人週2時間とすると、一週間で20時間。一年は52週間ですから、年間1040時間。年収500万を保証するにも、時給5000円です。加えて、これでは365日一度も休めませんから、ちょっと無理があります。さらに教師も税金や国民年金に入り……と考えていくと、まともな大人の仕事ではない、という結論を出さざるを得なくなります。

私もいずれは多人数を指導する方向へ向かうつもりでいます。家庭教師には限界があります。しかし、家庭教師ならではの部分もあります。なんとか家庭教師という形式を、もっと社会のために役立つものとして日本の教育制度に組み込めないか。優秀な人材を家庭教師業界に確保し、こまめなケアを必要とする子供、こまめなケアさえあれば大きく伸びることができる子供を、社会に貢献できる人材に育てる手助けはできないか。

現在思いつく方法は、学校教師・塾講師・予備校教師といった、他の形式で教育に携わっている人が、研究目的で家庭教師の仕事をする、というものです。家庭教師は、アルバイトとしては時給の高い仕事ですが、まともな職業として見るには無理があります。それなら、本業を持っている人が副業としてやるにはちょうど良い。同時に、家庭教師は一人の子供を丁寧に見ることで、非常に多くの有益な情報を得られる仕事でもあります。学校教師・塾講師・予備校教師が、自分より30も40も年下の子供を理解せねばならなくなったとき、この副業は多くのヒントを与えてくれるでしょう。
学校教師・塾講師・予備校教師が指導法や子供の日常について研究し、合わせて助けを必要とする子供が丁寧な指導を受けられるシステムとして、家庭教師を日本の教育システムの中に位置づけ、市民権を与えることはできないでしょうか。

ま、こんな事は、夢か妄想の類ですが。(苦笑)
しかし、とりあえず悪徳業者と悪徳教師の排除は
ぜひ実行したいものですが。
とりあえず、現状の家庭教師業界では、
あまりお薦めできない、というのが正直なところです。
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2005年08月15日(月)

本日おやすみします

テーマ:教育
すみません。
先週、「次回の内容」を予告したのですが、
教育特集、おやすみします。
レポートに、集中します。

友人と話したのですが、
先週、先々週と書いたような対応をとるには、
かなり冷静さが必要ですね。

学校教師や家庭教師であれば、可能かも知れない。
しかし、あの記事のネックは、
御両親という立場を考えた場合のことです。
実の我が子が、何か破綻した行動に出たとき、
果たして冷静に対応できるか。難しいでしょう。
既に破綻的な行動をとっている子供が相手です。
御両親に対する信頼も、かなりガタがきているはずで、
この対応は、極めて難しい。

第一に言えることは、
リラックスせねばならないと言うことですね。
視界が狭くなっていては、冷静になれるはずもありません。
自分の状況を冷静に見るのが困難だと思ったら、
誰かの助けを借りると良いでしょう。
近くに信頼できる人がいれば良し。
Blogで悩みを語れば、
だいたい誰かが優しい言葉をかけてくれるものです。
自助努力としては、やはり日記がお薦めです。
書きたいときに書きたいことだけ書きます。

 ○月×日
 疲れた。なぜ自分は子供を理解してやれないのか。
 今日も怒鳴ってしまった。子供は怒鳴り返してきた。
 あんな言葉、親に向かって言うものだろうか?
 余りにひどくてここに書くことも出来ない。
 疲れた。助けてほしい。もう限界かとも思ってしまう。
 どうしたらいいの? 誰も答えてくれない。
 昨日も、一昨日も、夕食の支度をしていて涙が出た。
 何とかしなければいけないのは分かっているが、
 どうしたらいいのか、わからない。
 無能。本当に嫌になる。どうしたらいい? 小さな自分。

うんぬん。
出来事だけではなく、想いなどもぶつけると、
次第に心の中が整理できます。
私は、Blogに書く場合と比べて、
自由に書けるので、ノートに日記をつける方が好きです。
(一方、Blog日記は交流が生まれるところが長所です)


他にも思うところはありますが、
とりあえず。
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