田崎聡の【沖縄から食の風】⑮
「さとうきび刈り」
田﨑 聡氏(㈲楽園計画代表取締役、「食の風」代表)
2月のこの時期は、さすがの沖縄でも肌寒い。どんよりとした雲が低く空を覆い、雨の日が多い。
そんな時に限って、さとうきび刈りの重労働が農家を待っている。
沖縄本島南部は今でも手刈りのところが多く、本島北部や離島などのようにハーベスターを導入しているところは少ない。
今年で3年目になるさとうきび刈りは、私たちの援農プロジェクトの一貫である。雨の日は、水を含んでさとうきびが重くなり、担ぐ肩に食い込んでくる。
直径5cm、高さ3mほどにもなったさとうきびの茎をなるべく根元から切り倒す作業は、高齢者にはきつい仕事である。
地主である80歳になるオバアは、朝から平気で素早くさとうきび刈りをするのであるから、ビックリである。そのさとうきびを、10~15本ほどの束にまとめて肩にかつぎ、畑の中ほどから道路わきまで運んでいく。
束ねた束をさらに1.5mほどまで積み上げてひと塊にしておくと、札の順でトラックがユンボで吊り上げて高さ制限一杯にして、製糖工場へと運んでいく。
この時期、沖縄を旅行すれば必ず目にする光景である。現在、沖縄本島に製糖工場は南部の翔南製糖と中部の球陽製糖しか稼動しておらず、かつてあった製糖工場は休業中かショッピングモールに変わってしまった。
黒糖や和三盆は含蜜糖といい、現在は伊平屋島、粟国島、多良間島、波照間島、与那国島、小浜島、西表島の7離島だけで主に作られており、上白糖、ザラメ、グラニュー糖、三温糖などの分蜜糖は、先の本島2箇所に加えて、伊是名島、久米島、北大東島、南大東島、石垣島、宮古島で2箇所の9箇所で作られている。
ただし、黒糖工場は観光用などのニーズの高まりによって個人経営の工場も増えてきた。
南大東島や北大東島のような大規模さとうきび農家は、年収1000万円クラスの農家もあるが、大部分のさとうきび農家は、兼業農家が多い。
さとうきびの価格は、トンあたり2万円前後、つまりキロあたり20円前後という安価な農作物である。
さらに、2万円のうち、16,000円は国からの補助金なので、もし、FTAで輸入自由化されて補助金が撤廃されれば、実際の価格はトンあたり4000円、キロあたり4円で引き取られるわけだから、農家はやっていけるわけはない。
私たちの借りている畑が約300坪だとすれば、6トンほどの収穫だから年間12万円にしかならない。
肥料や手間を差し引けば、タダのようなものである。
それでもさとうきび畑を続けているのは、年1回の収穫作業をこなせばあまり手間がかからなく、台風にも強いからなのだろうか。育ててれば、必ず買い上げてくれる出口があるからなのだろうか。不思議である。
そもそも、日本のさとうきびの歴史は1609年に奄美大島の直川智(すなおかわち)が、中国から黒糖の製造技術を学び、成功させたことから始まった。
琉球は、奄美大島より後の、1623年に儀間真常によって中国より黒砂糖の製造法が伝わったといわれている。
江戸時代は、8台将軍徳川吉宗がさとうきび栽培を奨励し、薩摩藩に黒糖を作らせるよう命じたので、奄美大島では島民あげてさとうきびを栽培し黒糖を作ったが、島民にはひとつも黒糖を食べることを許さなかった。
薩摩藩は、その黒糖で得た利益で銃を買い、後に徳川幕府を倒したわけだから、徳川幕府が薩摩藩にさとうきび栽培を奨励したのは、徳川幕府にとっては失策だったわけである。
奄美の作家、島尾敏雄はこのことについて「島人の三百年に亙る苦しみは決して無駄ではなかった。島人が作ったさとうきびで、明治維新が実現できた」
と書いている。さとうきびの歴史は、世界の植民地の歴史でもあるのである。
特に、奄美大島は薩摩藩にも琉球王国にも支配されてきた歴史がある。
だから、奄美大島の島唄には哀切ない唄が多い。
私たちがこうして甘い食生活を送っていられるのは、奄美大島や琉球の島人たちが悲惨で過酷なさとうきび労働を強いてきたからこそ、成り立っているのだということを決して忘れてはならないだろう。
※田崎聡の【沖縄から~食の風】バックナンバーはこちら
http://ameblo.jp/seiwakaisenken/theme-10010079116.html
沖縄・奄美スローフード協会


