奈良カウンセリング 山本精神分析オフィスのブログ

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自我のスプリッティングは、通常単純に(スプリッティング)と言われ、乳幼児が自分の養育者にはよい面と悪い面があり、よい経験と悪い経験を共に認識できる以前の、前言語期から始まっていると思われ、対人関係において強い力を持つまた一つ別の処理過程である。二歳児において、外界のあらゆることをよい要素と悪い要素とに割り振って、自分の知覚を組織化する欲求を観察することが出来る。この傾向は(大きい)と(小さい)との間に違いがあるという感覚とともに、幼少期の人間が体験を組織化する最初の方法の一つである。アンビバレンスとはある恒常的な対象への両価的な感情の併存を意味するので、人は対象恒常性がもてるまでアンビバレンスを持つことはできない。かわりに、外界の対象に対して、良い自我状態あるいは悪い自我状態のどちらか一方でいるはずである。スプリッティングは大人の日常生活でも、複雑な体験を理解するのに、引きつづき有力で魅力的な方法である。善なる内部のものが戦わねばならない。はっきりと邪悪な敵が外部にいるという認識を発展させることが、不満の多い集団にとっていかに魅力的であるか、政治学者は立証している。善対悪,神対悪魔など、二元論的見方は我々の文化に蔓延している神話である。

似たようなスプリットのイメージは民間伝承において、あらゆる社会信念体系において見出だすことが出来る。

スプリィティングの機制は、不安を和らげ自尊心を維持する防衛機能として非常に効果的なものとなりうる。しかしもちろん、スプリッティングは常に歪曲を伴うので、その点は危険が存在する。

臨床的には、患者が一つの非両価的な態度を示し、その反対の態度(我々のたいていが両価的に感じるものの裏面)とは全く関連がないとみなす場合、スプリッティングは明白である。たとえば、あるボーダーライン女性は自分のセラピストを完全によい人と体験していたが、これは、面倒見が悪く敵対的で間抜けだと彼女が言う公務員の同僚とは対照的であった。

あるいは、セラピストは突然、まったく緩和されてない激しい怒りの標的となるかもしれない。前の週にはセラピストは何をしょうがよい存在とみなされていたのに、今週は悪の権化、怠慢そのもの、あるいは無能者とみなされるのである。スプリットしているこのクライエントに、セラピストに対する形容の不一致や矛盾を直面化しても、あれほど良い人だと思っていた人がこんなにも悪い人になってしまったことに、特に関心を引かれることもなく、考える価値もないと思うだろう。よく知られていることだが、精神科病院や精神保健センターのような施設の中では、ボーダーライン患者は内的にスプリットするだけでなく、(投影同一化によって)その機関のスタッフの中にスプリットをつくり出す。こういう精神保健従事者はボーダーラインのクライエントへのケアにかかわっていくうちに、自分たちがある議論を繰り返していることに気づくものである。すなわち、患者にいたく同情し、彼らを救済し育てたいというスタッフがいる一方、他のスタッフは彼らに対して強い反感を持ち、直面化し限界を設定したくなるということである。こうした理由で、防衛都のスプリッティングは必ずしも良い評判を得てこなかった。体験を組織化するのに習慣的にスプリッティングを使う患者はケアをしてくれる人たちを、くたくたに疲れさせてしまう。