思案橋 | 不思議なことはあったほうがいい

はてなマーク この橋を、渡ろうか、戻ろうか。 はてなマーク


 人生にはそんな逡巡のときが必ず一度や二度はある。

 ‥‥ オオ、カッコイイネ!


 フツウは、西行法師にまつわるエピソードとして知られているのが思案橋伝説で、信濃の小県あたりにある山田峠というところを歩いていた西行、村の子どもらが、山菜取りをしているのを見た。子ども好きな西行どんは、

「こどもら、ワラビをとりて、手を焼くな」

と歌いかけた。「蕨」と「藁火」がかかっているシャレ歌。ところが、それを聞いた子どもがすかさず、

「法師さん、檜笠きて、頭を焼くな」

と返歌した。「檜」と「火の気」のかかっているシャレ歌。

で、西行どんは「このがきどもただものじゃねえぞ」と恐れて、その先の橋を渡らなかった…

戸隠権現におまいりに行く途中のことであったという。


 前回やったように信濃には「ものくさ太郎 」というプータローでも歌の天才っていうのもいましたし、長野は住民の学が高いのだなあーとイトコのゴマをすっておこう。(→参考「雑炊橋 」o(^-^)o)

 似たような話に、西行が歩いていると子ども等がササーと桜に登ったので、

西「猿稚児と見るより早く木に登る」VS.

子「犬のような、法師来たれば」

 コノガキメ! ヤリオルナアという「西行桜」という話も信濃にある。

 ※フツウ「西行桜」というとお能の花見禁止事件の話だが、生前の辞世のこともあるし、桜と西行はきっても切れないので意図的に創作された話なのかな?※

 その他、川でマメを洗う女をからかうと、杵があるなら搗いてみろ、でギャフン。冬なのに熱田とはおかしいなあとバカにしたら、「西へ行く」という名前なのに東へ行くとはおかしいなあ、でギャフフン。 

 もとは西行が天王寺へお参りしたとき雨が降ったので江口の遊女のもとに一夜宿をとろうとしたが、坊主はダメと断られ、「世の中を厭ふまでこそ難からめ、仮の宿りを惜しむ君かな」。女「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿、心とむなと思ふばかりぞ」……きどって歌なんて歌って、単純に仮宿を惜しんでいるのだとしか解釈しない西行と、人生そのものを仮宿とする仏教観を思えばこその拒否だったのにと、意外や遊女の返答にギャフン、という話で、『新古今集』にもある歌。

 こうした、歌版・水戸黄門(?)みたいな、名人や貴族が、以外な場所で出会った思ってもみない相手が、実は更なる歌の達人でウヘー! となる話は、和泉式部と小式部の再会話や、説教節奈良絵本お伽草子といった作品の、つまり中世のヒーローたちの特性の一つ。太田道灌の山吹の里の話(「紅皿/欠皿 」)もそう。歌じゃなければ、飛騨匠 の奥さんの話もそう。


 ゆきつくと、個人名は出さないが、「食わーん食わーん」「クッタクッタ」と狂言めいた話にさえ繋がってゆく。

 

 上には上がいるよ・調子にのるなよ。という教訓話‥。その相手が思わぬ<下層>人種であったことがミソ。


 ところで、我がご近所・茨城県古河の国道345号線上、向堀川に架かる「思案橋」は、これらとは違って、われらが石川さとみチャンドキドキの、もとい静御前伝説の橋。

 

 すなわち、頼朝の不興をかい、京を脱出した義経主従とシズチャンであったが、文治元年(1185年)吉野の冬はそれはそれは、厳しかった、このままでは敵に追いつかれてしまう…以下、引用は『義経記』


 義経(泣く泣く)「人々の心中を義経知らぬ事はなけれども、僅の契を捨てかねて、是まで女を具しつるこそ、身ながらも実に心得ね。是より静を都へ返さばやと思ふは如何あるべき」

 弁慶「是こそゆゆしき御計らい候よ。弁慶もかくこそ申したく候ひつれども、恐をなし参らせてこそ候へ。斯様に思召し立ちて、日暮れ候はぬ先に、疾く疾く御急ぎ候へ」

 かくして、ナンダカンダと口説くけれども静チャン、泣くより外のことなし。それで義経、鏡を取り出して

義経「是こそ朝夕顔を写しつれ。見ん度に義経見ると思ひて見給へ」

…すると静チャンは「今亡き人の様に胸に当ててぞ焦がれける。」そして、

静「見るとても嬉しくもなし増鏡恋しき人の影を留めねば」

…続いて秘蔵の鼓も彼女の手に…

………「今は何と思ふとも止まるべきにあらずとて、是非を二つに分けけり。判官思ひ切り給ふ時は、静思ひ切らず、静思ひ切る時は、判官思ひ切り給はず。互いに行きもやらず、帰りては行き、行きては帰りし給ひけり……」

 ホントはもっと引用したいけれども、とにかく、雪と氷の吉野路をさまよい歩いたあげく、静チャン、追手に捕らえられ、なんだかんだで鎌倉へ。そして、ああ、そして、愛の結晶は……男子であった。安達新三郎が嫌な役目を引き受けて、稲瀬川の汀の材木の上に投げ捨てられたる空しき姿……子どものことはあきらめて、せめてこの身さえ無事であればと八幡様に詣でたところ、「日本一」の白拍子を是非と所望の政子サマの前にて、有名な

 (_)「しづやしづ賎のをだまき繰り返し昔を今になすよすもがな、吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」。

 ※『吾妻鏡』ではこのへんのエピソードの順番が違っていたりするが、今はスルーするう。※


 その後、「明暮持仏堂に引篭り、経を読み仏の御名を唱へてありけるが、斯かる憂き世に存命(イノチナガラ)へても、何かせんとや思ひけん、母にも知らせず髪を切りて剃りこぼし、天竜寺の麓に、草の庵を結び、禅師諸共に行き澄ましてぞありける。姿心人に勝れたり、惜しかるべき年ぞかし、十九にて様を変へ、次の年の秋の暮には、思ひや胸に積りけん、念仏申し往生をぞ遂げにけり。聞く人貞女の志を感じけるとぞ聞えける」…エエ!…死んじゃった‥。(Д

 

 デモネ、その静チャンのお墓が埼玉県・栗橋にあったりする。ナンデ、ドウシテ?


 実は、その後、静チャンは、琴柱(コトジ)という侍女とともに、こっそり義経を追って奥州へ向かった、という伝説があるのであった。時に文治五年(1189年)春、故カバ園長で名をはせた東武動物公園の近くまで来たと思いたまえ。栗橋には東北への関所があって、容易に先に進めない‥。

 そして、とんでもない情報がモタラされた!「判官義経、衣川にて討ち死にス」!!爆弾


 ‥‥‥‥‥メソメソしていてもしょーがない。

 このまま、平泉まで行って、義経の菩提を弔おうか??

 しかし正史ではそのときすでに義経の「首」と称される腐った物体は鎌倉で実見にあっていたというし、どうしようか、行こうか帰ろうか…と悩んだ橋こそが、「思案橋」。いまやこの橋のたもとにはシズチャンの像まで立っている。

 

 結局、静は京都への帰還を決意する。

 失意と悲しみの帰り道…その付近にはその名も「静帰」という地名になった。

 ところが、帰路、道にまよった静は、道しるべにしようと、柳の枝をひき結び印とした。だが、これはただの道しるべではない。ほんらい、木の枝に何か結びものをするというのは、旅の安全を神に祈る行為としての手向けであるが、それはまた、自身のタマシイをそこに結びこめるという意味であり、己の存在(ウラミ)を残すという行為でもある。

 例え話。

 『万葉集』巻二、斉明天皇不在の折に、蘇我赤兄にそそのかされた有間皇子は、じつは赤兄のオモテガエリで、罪を被り、紀国へ護送された。そのとき、自分の運命を悲しんで<松が枝>を結んで歌ったという…

岩代の浜松が枝を引き結び、ま幸くあらばまたかへり見む」。

 しかし、彼は二度と生きて戻ることはなかった。おそらくその直後、「藤白坂」でくびり殺されたのだ。…後日、長忌寸意吉麻呂(ながの・いみき・おみまろ‥一説に柿本人麻呂)が、その結び松を発見して、おもわず嘆き咽んだ…

「岩代の野中に立てる結び松、こころも解けずいにしへ思ほゆ」…

 脱線。


 かくして、「結びの柳」と称されたこの柳は、今、農業公園の一画にポツンと残っているが、この公園のウリモノ(?)が迷路だったりするのはそういうイワレと関係あるのかしら?

 で、静チャンがここで歌を残したかどうか判らないが、別のものを後世にのこした。ここで疲れたので、お弁当を食べたとき、その箸を地面に挿した。これがまるで、あの生まれてすぐ殺された子の代わりのようにスクスクと成長して、一本の立派な椿の木になった…「静の椿」という。

 聖徳太子とか親鸞とかもお箸を大木にしているけれども、哀切度はこっちが上!

 

 こうして武蔵国高柳寺にたどりついた静は、ここで尼になり、その秋、この地にて、二十二歳でこの世を去った…エエ!‥なんだ、どうしても結局は死んじゃうんだ……。(Д

 侍女の琴柱、静の亡骸を埋めた場所に一本の杉の木を植えた…。つまり、墓標はなかったので、口伝だけが静チャンの短い人生の終焉を語ったのである。

 ……あくまでも伝説。だから確証がない。

 それで、遥か後年の、享和三年(1803年)に関東郡代・中川飛騨守という人が「静女之墳」という石碑みたなお墓をその木の下に建てた。これで静御前永眠伝説が完成する。

 

 この周辺はあの「一色さま 」ゆかりの土地でもあるから、水が出る。その後、例によって洪水や江戸川大工事の影響で、杉も枯れてしまった。さらに、お寺そのものが移転した。今、お寺の跡地は、栗橋の駅になっているが、例の墓石は現存していて、「これは観光になる!」と思ったかどうかしらぬけれど、昭和になってから義経と遺児の供養碑も建てられて、現在は町おこしに役立っておりますそうな。


 高柳寺は利根川を渡った向こう岸の光了寺というお寺になった。このお寺はもと天台宗であったが、親鸞が旅してきたとき改宗して浄土真宗になった。ここに幅一尺五寸五分・長二尺五分の「静女舞衣」(蛙獏龍の舞衣)というお宝が残っていて、これ、かの大旱魃のとき雨乞いしたけど、功験なく、神泉苑で舞姫が99人踊ったがやっぱりだめ。100人目に静チャンがひと舞するや「車軸の如く雨降り」「三日の洪水流れたり、さてこそ『日本一』あっぱれと」褒められたという、静ちゃん大出世の因縁の舞衣。

 洪水伝説の地に洪水アイテム…。ん?

 

 親鸞の歩いた土地に、お箸が大木伝説。(ちなみにこのお寺には聖徳太子の絵という宝もあるという)

 …その親鸞の奥さんとされる玉日姫は、この静御前伝説の地のちょっと北東、結城の里で布教にいそしんでおり、お墓もあるが、ここは結城紬で有名の里があったりしてすでに鎌倉後期には名産地となっていたという。この結城紬の原型は、古代・北常陸の倭文(シズオリ)、つまり、大陸渡りのアヤ織物に対抗して、メイド・イン・ジャパンを目指した技術(→「機織淵 」)であったが、静御前のシズヤシズの歌は、自分の静という名前に、倭文(シズオリ)、とをひっかけた歌であった。逆に、常陸二の宮・静神社は、「倭文」を「静」と書いたのだった。音が似ているからだけれども、それだけじゃないものはないか? 

 静神社は桜の名所で、三十六歌仙の絵がお宝自慢という因縁があるし、白ヘビが神使だったりする。

 桜といえば西行、西行といえば歌人、歌人といえば小町や和泉。女といえばヘビ。じつは例の「結び柳」のすぐそばに弁天さまが祀られているのも気になる。


 かくして、衣、歌、水というキーワードが「思案橋」にただよっている。

…その余韻を残したまま次回 へ続く