2009/5/11

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『柄谷行人 政治を語る』(図書新聞)という、かなりベタなタイトルの新刊をさくっと読む。

 そして、かつて中上健次全集が出たとき、自分が『異族』の巻の解説を書き、以来引っかかり続けていた箇所があるのを思い出した。

 というか、柄谷さんが『トランスクリティーク』を出した時も、『世界共和国へ』を出した時も、俺はその中上健次が書いたあるフレーズのことを思い出し、しかし誰にも言えずに来たのだった。
 熊野大学でも言い出すタイミングがなかったように思う。

 それは単行本では473ページ目にある。

 “シナリオ・ライター”という道化役の、つまりは進行役のせりふだ。


「エクスチェンジなんだ。皆な交換なんだ」


 
 俺は『異族』の中で、この「皆な交換なんだ」以外の文を覚えていない。
 そのくらい、この言葉は異様なテンション、かつ異様な位置で語られる。
 シナリオ・ライターは、ほとんど馬鹿げたことしか言わない。
 だが、ほぼ唯一この箇所で、彼は自分を茶化さずに長ぜりふで“文明論”を語る。

 せりふ部分の帰結はこうだ。

「フジナミの市で白い花が咲いている。ここでまっ赤な花が咲いている。台湾で朱色の花が咲いている。フィリピンで、マニラで紫の花が咲いている。同じフィリピンのダバオでは黄金色の花が咲いている。それぞれ交換されたものの色だ」

 『異族』の圧倒的な平板さは、単に描写の希薄性から来ているのではない。
 むしろ、登場人物がそれぞれ、互いを真似合い、あるいは交換可能なように書かれることにこそ、この未完の長編の奇怪さがある(例えば、234ページ、「タツヤはシムが遠い記憶の中の出来事のようになったその頃の夏羽のような気がした」というように、誰もが誰かになりかわってしまう。それは登場人物の多い本作では当然、避けられるべき事態なのだ)。
 
 しかし、俺はそのことについて当時、解説で納得のいく解釈をしていたとは思わない。
 なぜ、中上はここで薄っぺらさを選び、あまつさえ「エクスチェンジなんだ。皆な交換なんだ」というせりふまで書き入れたのか、を。

「あるのは逃げようもなく人を襲う反復ではなく、簡単に等記号で結ばれてしまう生の希薄さだ。
 反復ではなく交換。その耐えがたい軽さをあえて書きおおせてみせること。これこそが中上が現在の生の様式を引き受け、タツヤとともに運動しようとしたことの本当の意味ではなかろうか。土地なきサーガに至った理由、シナリオ・ライターに歯の浮くような『皆な交換なんだ』という言葉を語らせた理由も、すべてそこにありはしないか」
 と、1996年の俺は書いている。


 しかし、少なくとも今、解説に書き足しておかねばならないことがある。
 驚くべきことに中上がこの長編を未完で終えて他界した年(92年)、柄谷行人は『探求III』の連載を開始しており、カントについての思考を発表し始めたのだった。
 のちにトランスクリティークの核となる「資本=ネーション=国家」という把握は、すべてそこから来ている。
 柄谷さんは国家やネーションを、商品交換とは異なる交換様式から派生したとみなし、文明をいわば「皆な交換なんだ」と言い出すのである。

 柄谷さん自身は『政治を語る』の中で、98年にブレイクスルーがあったと語り、「資本=ネーション=国家」という等式がその年に生まれたと言う。
 だが、中上が『異族』に「エクスチェンジなんだ。皆な交換なんだ」と書き込んだ80年代中盤、柄谷行人がこのアイデアを中上健次に語っていたとしたら。ないしは、湾岸戦争反対署名のために柄谷・中上が急接近した91年(この年、中上は中断していた『異族』の完結編を書き始めている)、中上健次が柄谷行人に「交換」を語ったのだとしたら。

 中上健次『異族』を、今、「資本=ネーション=国家」の等式を下敷きにして読むこと(むろん、現在の柄谷理論ではなく、あくまでも等記号でこの三者が結ばれているという平衡的な観念のみを下敷きとする)は、決して無意味ではないだろう。
 確かに『異族』は資本の小説としても、ネーションの長編としても、国家をめぐる物語としても読めるからだ。

 



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2008/9/6

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 明日は福岡サンセット
 今年最後の夏フェス出演。
 出番は14時半過ぎで、40分間ほぼ演奏しっぱなし。
 暑さとの勝負になるだろう。
 今夏やってきたことの頂点を見せる気合いでまいります。

 ライブの衣装と同時に、火曜日からの大学授業の準備も一緒に荷造りしていて、自分がどういうイメージでくくられるべき人間か、しだいによくわからなくなる。

 
 ちなみに、来週土曜日の文芸漫談下北沢タウンホールにて19時より)のため、『岬』『枯木灘』と読み直しを進め、『地の果て至上の時』に突入。
 何度読んだことかしれないのは、付箋やドッグイヤーや書き込みの跡の多さでもわかる。
 なので、別の文庫を使うことに。

 当日も触れる予定だけれど、『軽蔑』を読み直したおかげで(8/25分を参照)、今までの中上読書とはまったく違う切り口が生まれている。
 特に文芸漫談の今回の対象である『枯木灘』において意外なほど顕著なのだが(しかし、なぜかこれまで指摘されてこなかったと思う)、テキストのいたるところに「草」と「木」と「花」が出てくるのである。
 「土」や「日」や「風」にテーマ的な注目が集まりがちだった中上健次テキストには、『軽蔑』ならずとも本来的に植物が異様なほど横溢していることに俺は驚き(中には、「秋幸は一本の草だった」とさえ書かれている)、ひとつとして落とすことなく数えあげてみたりしながら読書を進めているのだった。

 続きは舞台で。


 SAVE BURMA!


 
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2008/8/25

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 この夏、中上健次『軽蔑』を“季語に注意しながら”読み直す、という話を少し前に書いた。
 俳人・宇多喜代子さんが「今の季語はなんだ?という電話を、『軽蔑』の執筆中に中上さんはよくしてきたものだった」と言っていたとも書いた。

 読み始めてすぐ、俺は自分が記憶を改竄していることに気づいた。
 宇田さんは“季語”と言ったのではなかった。
 「花」と言ったはずなのである。

 『軽蔑』に“季語”への目配せはない。
 しかし、花は頻出する。

 特に中上健次全集11のp180が興味深い。
 ヒロイン真知子が新幹線で移動する間、窓外に花が連なっている。
 それを中上はこう書く。

 「藤の花なのか、桐の花なのか、紫色の花が混じるのに気づき」

 花の種類を作者はしばし同定出来ない。
 藤か桐かなどという迷い方は、花の形からすればあり得ないことである。
 そして、やがてこの“紫色の花”は栴檀(せんだん)と名指される。
 名指された途端に栴檀は、真知子によって「その花が神仏ででもあるように救けて欲しいと祈る」対象とされる。

 この箇所以降、花は明らかに意図的に出現する。
 シーンを変える場所、心理の変わり目に花が出てくる。

 花は中上によって、まさに「散種」される。

 意識の頂点は全集11のp373である。
 このページには、木槿、コスモス、紫陽花、つゆくさ、曼珠沙華、雛罌粟、萩と七つの花が次々に出てくる。
 すでに真知子が恋い焦がれた男、カズさんは死んでおり、その男の体が分裂して花になったような印象さえ受ける。

 ある批評家によって、『軽蔑』は“鏡像的分裂”を秘めた小説とされていたはずだ。
 真知子が踊り子としてポールにからみつき、鏡の中で腰を突き出すとき、身体は確かに鏡の中で幾つものイメージに分かれる。
 しかし、“鏡像的分裂”なら、すでに『日輪の翼』に顕著である。
 小学館文庫の同作解説で俺が指摘した通り、「一宮と諏訪が合わせ鏡になっている気がし」、四つ乳房があるララがいて、ツヨシらは二本のペニスを持つとからかわれるのだから。ちなみに、この小説の中でオリュウノオバは七人の老婆に分裂してもいる(『軽蔑』の花の最大分裂の数と同じ!)。

 したがって、むしろ『軽蔑』は「花の分裂」を指摘されるべき作品であり、当然、分裂というからには本体がなければならないだろう。
 その本体とは何か。
 中上作品に多少とも触れたことのある人間になら、もう答えはわかっているはずだ。

 中上が故郷の被差別部落を「路地」と呼び、小説のトポスとしたとき、象徴的に作品内に咲かせた実在しない花。
 夏芙蓉。
 つまり、『軽蔑』はこの「夏芙蓉」の分裂をテキスト上の特徴とした長編なのである。

 「路地」が資本によって買収され、再開発にあって消滅したあと、中上は「夏芙蓉」を様々に変化させた。
 先に引用した『日輪の翼』では、主人公ツヨシが七人のオバらを連れて故郷を出奔するとき、高速道路の路肩に「今まで眼にしたものの丁度三倍もの背丈」の「夏芙蓉」を置く。巨木化したその「夏芙蓉」を境に、中上の作品世界は「路地」から外に開かれていく。

 とすれば、一切「路地」の出てこない『軽蔑』は、作者が神話性の高い「夏芙蓉」を捨てて、それを卑俗な花々へと分裂させながら、なおも作品の強度を保とうと苦闘した小説だと言える。

 付け加えておくと、前に挙げた全集11、p180がおそらく意識の境目で、中上は無意識から湧き上がってきた紫色の花への興味を抑えきれず、それを藤といい桐といいながらテクスト上に書きつけようとし、やがて栴檀とした途端、それが「夏芙蓉」の新しい姿だと気づいたはずなのである。
 事実、このページ以降、花は意識的に現れるようになる。
 それまでは意味を背負っていなかった花々が、一気に物語上での役割を担い始める。

 宇多さんが花の名を聞かれ、その盛りの季節を聞かれたのは、したがってp180を書いたあとからということに、俺の推測ではなる。
 中上は「夏芙蓉」との訣別を意識し、神話的世界から現実へと作品を移行させた。
 その軌跡に随行したのは卑俗な、しかしだからこそ中上に満足を与えたはずの花である。
 神話を現実の卑俗な関係一般で塗り替えてしまうこと。
 路地をありとあらゆる困難な場所へと拡散させること。
 中上は花とともに、そうした闘争を続けた。
 
 『軽蔑』では花を追うといい。
 中上健次の戦いの痕跡にそれが咲いているのが、ありありとわかるから。



 

 
 
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