電力の社員の地元懐柔工作あれこれ
テーマ:ブログ反対派の仲間からの誘いで夫と出かけた寺家の祭の夜のことを思い出す。
「あんたらもお召(およばれ)かね・・・・」
驚いて思わず聞いたのは私だった。顔見知りの中部電力の社員が二人、座っているではないか。
「呼ばんがに(招かないのに)勝手に来たんだわ・・・・」
家の主人の母親が笑いながら言った。
「なんでも手伝いますよ」
「ダラメ、お前らに頼む仕事なんかあるかい」と主人。
「そんなに手伝いたかったら子守でもさっしね」とお母さん。
敵対する立場とはいえ、ほとんど毎日やってくる電力の社員は既に親しい間柄であった。
祭りの日は小さい子供が邪魔になる。子守をしてくれる人はとても有難い存在である。肩車したり、馬になったり、それから涙ぐましい電力の社員の「仕事」が始まった。
「あんたら自分の子供にも、こんだけ遊んでやったこと無いやろうね」と私
「・・・・はい・・・」
「あんたらも可愛そうに・・・・何の因果でこんなところで子守しとるんかねぇ・・・本当は本社でネクタイ締めて、革靴はいて、きれいなオフィスで仕事する筈やったんでないんかいね」
「・・・・・・・・・・・」
「地権者のお役に立つのが私らの仕事ですから・・・・」
「アホメ!そんな、おべんちゃら、こいて(心にも無いことを言って)機嫌とっても、電力に土地は売らんからな」
「今日は年に一度のおめでたい祭りやがね、そんな話は止めて、あんたらも飲まんかいね」とお母さん
「はい、頂きます!!」
こうして電力の社員を肴にして祭りの宴が始まったのであった。
「おい、中電、お前ら、ただ酒飲んどらんと、歌でも歌え」
「ええっ・・・歌ですか!」
「ダラ! そんな顔するな、チイチイパッパぐらいは知っとるやろうが」
「はいっ!!」
それから身振り手振りを交えた、へたくそな二人の歌を聴きながら、一同、笑い転げて夜は更けていったのだった。
珠洲原発は関西電力と中部電力と北陸電力の三社が合同で、二つの原発計画が同時に進行するというものだった。関西電力は高屋。中部電力は寺家。それそ゜れ半島の先端を境にして、富山湾側の寺家と日本海側の高屋。距離にして数キロの近さである。それぞれの事務所は市役所のある飯田町にあり、地元の北陸電力は旧社屋を改修し、前線基地さながら。三社合同で、地元の懐柔工作にあたるという、私たちにとっては極めて手ごわい布陣であった。
事務所の中の様子は、だいたい見当が付いていた。私たちが各種の申し入れで、直接乗り込むこともあったが、いろいろな立場で中に入る人があり、変わったことがあるとすぐに情報が入ってくる。なかでも毎日パンを売りに行くお兄さんは反対派で、どこかで原発が事故を起こしたりすると、とたんにピリピリして雰囲気が変わるという。
一見、ガードが緩い様だが、とんでもない。「物を買い上げる」という行為を繰り返しているうちに懐柔されるのはこっちの方で、電力の懐の深さが却って不気味だった。
高屋の関電の「仕事」はもっと徹底していた。雪が降ると一人暮らしの家の前に、朝、スコップを持った社員が立っている。高屋の地権者というだけで、飯田町で買い物をすると帰りは関電差し回しのタクシーが待っている。高屋から程近いところにあるスナックでは高屋の地権者は飲み放題、食べ放題。もちろん勘定は全部関電払い、カラオケで楽しい夜を過ごす人は後を絶たなかった。
こんな状態で最長で30年。市民運動として動き始めてからでも20年、こぼれ落ちる人を止めることはやはり難しい。一歩も引かない反対派でも、電力の誘いに気軽に乗って平然と反対を続ける人もあれば、「電力」というだけで、眉を顰める人もいる。なかには一度電力の誘いに乗ると、それだけで裏切り者とみなして、攻撃するばかりか、スパイ呼ばわりまでしてしまう人もある。農業者・漁業者・職人・商人・それに労働組合の人たちと、それぞれの職業によっても、微妙に考え方が違ってくる。当然事ながら、反対派もだんだん一枚岩ではいられなくなっていったのだった。
堪りかねた私たちは、現地の地権者が中心になって、予定地に共有地を張り巡らせる作戦に出た。一人二人が個人的に抜けても、共有地が動かない限り、面として持っていかれることは無い。
私たちの反対運動が潰れなかったのは、今にして思えば、この共有地の存在と、電力というだけで眉を顰める類の、清く正しい人たちだけが運動の主導権を握るということにはならなかった幅の広さに一因があると私は思っている。
「あんた、原発止めて、家に帰らっしね、万が一のことがあったら、他人事ではなくなるよ、あんたにも奥さんや子供がいるんでしょう・・・。止めて帰ってから、家族連れで遊びにいらっしね、みんなで歓迎して、ご馳走してあげるからね」
「あんたどんなに頑張っても社長や重役には、なれんやろう。何やててあんた、そんなに頑張るげね、原発止めて帰らっしね、原発止めても電気は足りる、あんたらが一番知っているやろう・・・・」
「珠洲市はいいとこやろう・・・あんたねぇ、人間の心があれば、こんなきれいな自然を潰して、毒を撒き散らしながらお金を生む、自分の会社のために、そんな機械を持ってくる仕事、嫌にならんかねぇ」
その頃、私はまだ若かったけど、こんな言葉を掛け続けた、お父さんやお母さんたちの真実が、私たちの運動を支え続けてきたのだと思う。原発が止まってから、定年退職したという電力の社員が尋ねてきたという話を聞くことがある。敵と味方に分かれたあの激しい闘いの最中にさえも、電力の社員とそんな関係を創る事ができた、私たちの運動ー、闘いは辛かったけど、関わったみんながそれなりに成長したのだと思う。
原発立地予定地で、実際何が起こったのか。







