使いかけのノート

げんきママです

こんにちは。

 

最近雨の中、傘を指して歩いていると、

書きたいことが、天から降ってきますもやもや

 

実家を整理すると、昔の使いかけノート、大量に発見されます。

全部最後まで使い切ってあるノートの方が少なくてあせる

 

水と紙は、大事にしなくちゃだめなんだよ。と母にものすごく厳しくいわれて育ったはずなのに、なんでだろう。

 

小さいころの私。文具屋さんに行くのが大好きだった。ドキドキわくわくして新しいノートを買ってくる。

 

一目ぼれのノートに出会うとかなりテンションが上がり、ノートの使い始めが楽しくてたまらない。

 

どんな感じに始めようか、どんな文字?どんなペン使おうか。

 

なんて、激しく妄想した素敵ノートとは程遠い仕上がりになる、最初のページアセアセ

 

自分の字に納得がいかないだけじゃなくて、構成力もアートな腕前も持ち合わせてないから、そんなかっこいいノートになるわけがない。

 

かなりかっこ悪いノートの出だしにテンションだだ下がりブー

なんどやっても同じ。

 

実力もないのに、その1ページ目を受け入れられる包容力もなくて、いつも、ビリっと最初のページをちぎり、リセットボタンを押すかのように、また1枚目をやり直すのだった。

 

納得はいかない。

 

かなりの妥協をしながら、2,3ページ進んだところで、もうこのノートを使っていくことの違和感が耐えられなくなって、部屋のあっちの方、視界に入らないところに追いやるのだった。抹殺。リセットボタンを押す瞬間。

 

実はこれはノートだけの話ではなくて、私全体の問題だったなと今頃気づく。

 

私は20代の時まで、いつでもどんな時でも、1から始められるように、1からやり直したくなったら、リセットボタンを押そうと思っていた。

 

生まれた場所、小さいころ育った場所に、ずっといたくなかったし、次々自分のことを知ってる人がいないところに行きたかったガーン

 

納得のいかない毎日を、まるでノートのごとく、いつでもちぎって最初からやり直す。気に入らなければ、そのノートをほおりなげて、また新しいノートで出発したい。そんな気持ちをもって生きていた。

 

そう思ってたことすら忘れていて、最近ふと、ずっとかなり前から同じノートを続けることに、違和感なく生きてることに気づいたうずまき

 

前のページに自分の嫌な字や内容が書いてあっても、さほど気にならなかったし、なんとなく懐かしく思ったり、その時の自分を思い出して笑ったりできるようになっていた。

 

前のページもすべて含めて自分。という認識があった。

 

この土地にきて18年。町のどこかで誰か知り合いに会う、知ってる人に会う確率があがってきたギザギザ

 

昔だったらそんな空間、とっても嫌だったと思う。

 

いつも新しいノートを今日から始めたかったし、ちょっと前の嫌な自分を知ってる人がいる町にずっといるなんて耐えられなかったはず、確か。

 

2,3年、せめて10年でどこか別の場所に移りたいと思ってたと思う。結婚して子育てをして、引っ越ししないことが普通になっていて、知ってる人に挨拶する回数が増えていってることを、普通に楽しく受け入れてる。

 

年をとって鈍感になったといえばそれまでだけど、これが成長、これが大人になったってことなのかな?とか感じる。

 

新しいノートに取り替えたい気持ちを持ってること、ありませんか?なんか納得いかない。やりだしたことに違和感がある。って時。

 

今、まさにそう!だったとしたら、その時はそのノート、取り替えていいと思います。どんどん取り替えて、わくわくして、また納得いかなくて・・・を繰り返して大丈夫。

 

その時は、それが正解。違和感なく新しい自分に取り替えていいと私は思います。

 

ある日、ふと、自分が使ってきた、途中で投げ出したノート、続きを使おうかなと思える日がくるので風船

 

 

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私は強くなった笑い泣き

というか、今までの考えをアンインストして、初期化した。

いつからだったのだろう。ずっと考えてみた。

きっと就職した頃からだ。
この会社に正社員として働き出したあの頃からもやもや

私はいい人であるべき

これが、自分の中で最優先事項であり、疑問を抱くこともなかった。

この会社の一員である以上、いい人であることが当然、いい人であろうと思ったくるくる

そして退社して、結婚して母になり、更にその気持ちは継続された。

誰かの奥さん、誰かのママは、いい人であるべきで、それが何より大事だと思った。

いい人でいたかった。嫌な人と思われたくなかったお願い

私が想像するいい人は、誰かのためになにかやれるほどすごいひとじゃなくて、

害にならない人、問題に上がらない人である。なんてかなりショボい人。

そんなちっぽけなポジションに長くいたら、それでいいのかどうかも気づかなかったけど、

実はそれは、他の誰かのためじゃなく、嫌われたくない自分のための立ち位置だったことに最近気づいた。

きっかけはテニスだった星

勝負の世界に生まれ育ってない私としては、テニスで試合をしても、勝ち負けなんかどうでもよかった。

正直なところ、勝ちたくない。自分が勝つということは相手が負けることを意味し、

相手が嫌がることをやりたくない私としては、試合をすると、心の整理ができなくてどうしていいかわからなくなっていった。

生まれつきなのか、育った環境の影響か、負けず嫌いな娘に言われてハッとした。

「いい人と思われて何になんの?」

嫌な人と思われたくないっていう感情、そう言えば若い頃はあまりなかったアセアセ

そんなことより自分がしたいことが大事。別にみんなに嫌われてもいいから、やりたいと思うことがあった。

加齢のせいにしてはいけない。ましてや、結婚や子育ての結果、こんな考えになりました。なんて馬鹿らしい。

いい人になるのはやめようタラー

というより、いい人だと思われたい自分と、さよならしよう。

嫌な奴だと思われたところで、死ぬわけじゃない。試合中、そんな風に思われることもあまりない。

普段の生活で、相手の気持ちが気になるなら、害にならないいい人とか、そんなんじゃなくて、本当に優しい人になればいいし、

嫌な人じゃないけど優しくもない。って人からも卒業しようパー

生きてく上で、いい人なんて何の意味もない。ちゃんと役に立つ誰かになろう。

そう思ったら、どんどん攻めるテニスをやることに1ミリの迷いもなくなってきた雷雷雷

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