5・「ふんばろう」の限界:国際的支援モデルとなり得るか


(1) 支援活動の質的転換:どこで戻るべきであったのか

自然災害時の被災者支援と一口に言っても、その実質は多種多様な手法と目標が混在し、時間の推移と共にそれぞれの活動の必要度が変化していくものである。簡単にまとめてみても、生命の危険を回避するための救援活動から始まり、数日分の食料・衣服の支援、安全安心圏の確保(避難所から自宅、仮設住宅への移動)、地域社会の復旧、復興へ、と様々な段階が設定される。


それぞれの段階で、支援者が持たねばならない目標と役割が異なってくることは言うまでもない。発災直後の救援段階では物資の無償配布が主流となる。段階が進む毎にその比重は小さくなり、替わって、心のケアや雇用促進のためのキャッシュ・フォー・ワーク等々が導入されていく。最終的には、行政と住民とが推進する地域の復興へと至る。


いずれの支援段階にも共通している前提は、「ゴールを明確にする」、「支援の撤退時期を折り込んでおく」ことである。特に被災地への物資支援は、経済的自立を被災者に促し、「支援漬け」に陥らぬよう配慮しなければならない。このことはボランティアの現場ではほぼ常識となっている。


他方、過度の無償物資支援が被災地の民業・企業活動を圧迫することも当然予想される。被災地の現地経済を速やかに回復させるためにも、無償支援は計画的且つ、現地の復旧状況を精査した上で見極めをはかるべきで、ボランティア団体にはそのような現地調査能力とその責任も求められてしかるべきである。(各段階の支援を、単純に発災からの経過時間を基準として区切ってしまうのも問題である。地域差、個人差を十分に配慮した上での支援活動が求められることも言わずもがなである。それだけに、被災地の現場に密着したボランティアは重要である。)


支援の必要性を認められないときや、支援側のオーバー・キャパシティーが明らかになった場合、ボランティアがすみやかに現場から撤退することは当然である。


「ふんばろう」の立ち上げから各種プロジェクトが実践に移されていく経緯を著者は本書の前半でまとめているが、その流れを見ていくと、明らかに支援の目標や方法が変化しているのに、それ以前に使っていた枠組みをそのまま利用する形で対応しようとしている点が随所に伺える。

そもそもの「ふんばろう」発足時の組織形態は、ツイッター等で著者が情報を拡散し、賛同者・協力者が集まったところから始まるバーチャルなグループであった。当初の具体的な活動は、アマゾンの欲しい物リストを経由して支援物資を被災地に直送させたことである。つまり、「ふんばろう」は支援に必要とされた情報のハブとなり、物資支援をしたい全国の人たちを被災地へと仲介する役割を担っていた。その試みは著者が言うまでもなく、数万個単位の物資を被災地に発送した実績をあげ、緊急支援としての評価は高いものであろう。(惜しむらくは、開設したホームページ上に、ある期間、被災地の個人情報が何のセキュリティーもなく全世界に公開されていたこと、緊急支援の枠を超えた業者の営業再開支援関連品まで見境無く仲介したこと、は残念であった。)


このように情報のハブとして立ち上がった「ふんばろう」であったが、代表=著者のその時々の判断で次々に業務拡大を続ける。情報のハブ機能として立ち上がった組織に、支援現場での実働ができるのかどうか。先にも引用した中原は、示唆的な証言を紹介している。


「今回の大震災では災害支援のポータルサイトが多数登場し、援助物資や募金先などの情報が巷に溢れた。一方、それらの情報が被災地に支援に入るボランティアの武器となった例はほとんどない。[ピースボート現地責任者の]山本は開発の過程に問題があると言う。
「次の災害に備え、アプリケーションを含む被災地支援の独自システムを、共同で開発できる技術者が現地にいたら嬉しいですね。だいたい、そういう人は被災地にやってきません。だからできあがったものが使い物にならないケースが多いのです」 …… 「被災地の現場って、それが全てになってはいけないんですね。インターネットが全てを解決するとか、アイパッドがあれば大丈夫、そんなことは絶対にない。どうやって使いこなすか、大切なのはそれを使って、どれだけ多くの支援が実現でき
たかだと思います」」  (中原、pp.123 - 124.)


まさしく「ふんばろう」は情報のハブ機能からの脱皮を模索したわけだが、中原がその必要性を指摘したように「被災地に支援に入るボランティアの武器」となるような情報支援を一つの選択肢として検討したのであろうか。結果は、「家電プロジェクト」に代表されるが、スタッフが直接現地に出向き、他のボランティア団体と同様に配布支援をするという路線に向かう。そのために必要な情報の拡散と収集に「ふんばろう」はそれまでのハブ機能を用いているが、明らかにバーチャル・ベースではないリアル・フィールドでの直接行動へと移行している。その結果は先に見たように、個人ボランティアに相当の負担をかける経営的合理性を無視した体制ができあがってしまった。「ふんばろう」は支援方法の質的転換のタイミングを見逃していたのである。


「ふんばろう」は情報ハブ機能を従属的な地位に置くという方針転換をした時点でオーバー・キャパシティーに陥ったことは明白で、この時にこそ支援から撤退するべきであったと評者は考える。(補足すると、個人メンバーが支援から撤退すべき、ということではなく、「ふんばろう」が組織として撤退すべき、という意味である。)


そうでなければ、より重点的に、情報ハブ機能の強化を図る方向性を採るべきであった。個人支援については、現地の状況が刻々と変わる中、ネットに上がってくる情報だけでは把握できない面がある。そこで、より多くの支援をしたいのであれば、個人支援よりもむしろ、現地に長期滞在して住民と密接なコミュニケーションをとっているボランティア団体への間接支援を仲介する方策もあったはずである。この方面での情報ハブ機能の強化は十分にあり得た選択肢である。


このように次々とプロジェクトを立ち上げつつ、支援活動を続けてきた「ふんばろう」であるが、著者の思惑通り、これは先進国にも推奨される災害支援モデルとなるであろうか。例えどんなに被災地で支援実績をあげたとしても、その方法論やコンセプトに不備があれば国際的に対応できる標準化は無理であろう。


そこで、先進国でのボランティア、支援活動にも関連の深い、OECD加盟国で推進されたDeSeCoプロジェクトと「ふんばろう」の理念の対比を試みたい。



(2) DeSeCoプロジェクトとの対照

※このDeSeCoプロジェクトに関する以下の説明部分は、評者が2010年の日本科学史学会で行われたシンポジウムの講演原稿の一部に加筆修正を加えたものである。


日本国内では教育学方面以外ではさほど知名度の高くないと思われる DeSeCo プロジェクトについて紹介する。このプロジェクトが提示するキー・コンピテンシーというものが、「ふんばろう」の理念との対照事例として格好のものとなっている。

これに関する基本的な情報は下記の文献にまとめられている。


ドミニク・S・ライチェン、ローラ・H・サルガニク(立田監訳)『キー・コンピテンシー 国際標準の学力をめざして』(明石書店、2006年)


ここで「DeSeCoプロジェクト」と省略をしているプロジェクトの正式名称は、「コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎」(Definition & Selection of Competencies; Theoretical &Conceptual Foundation)プロジェクトである。


最初にプロジェクトの形式的な側面から紹介する。推進母体は、スイス連邦とOECDに加盟する12ヶ国で、教育行政担当者と学際的な研究者が参加する協働研究として進められたものである。(日本は参加していない。)期間は、1997年に開始され、2003年に最終報告書がまとめられた。参加者の内訳をより詳しく述べると、各国の行政担当者は教育、福祉、労働問題、経済などを扱う部局から集められ、研究者は教育学、社会学、経済学、人類学、哲学等の幅広い領域からメンバーが集まっている。


DeSeCoプロジェクトの内容であるが、目標としたものは、伝統的な学力や技能では測りとれない、教育分野における国際比較指標の開発、というものであった。その目標が設定された背景として、複雑な現代社会を取り巻く諸問題、特に行政の側が学校教育だけではない、社会教育をも含めた教育問題として取り組むべき課題への対応を迫られてきたことがあげられる。国際社会に生ずる様々な文脈での多様化と自由化、急速な技術革新と情報化、環境保護と経済成長のバランス、等々の諸問題を、「個人と社会が自らの能力を獲得・向上させることで解決策を導き出せるよう」、政策・行政が教育の観点から誘導をしていく。これがDeSeCoプロジェクトの基本的な方針である。

この方針を実現するためにプロジェクトが設定した、個人と社会に求めていくことになる能力の最上位概念が「キー・コンピテンシー」である。キー・コンピテンシーは「人生の成功と良好に機能する社会」を実現するために必要な、個人と社会に求められる能力、と定義される。


従来、漠然と「学力」と一括されていたものや、技能や知識といった個別の能力(コンピテンス)に限定しない、正確に言えば、従来の個別のコンピテンスの上位概念となるものがキー・コンピテンシーなのである。

DeSeCoプロジェクトの議論はこのキー・コンピテンシーの確定に集約された。キー・コンピテンシーの存立条件は次の3つである。



(A)社会や個人にとって、価値ある結果をもたらすものである。
(B)色々な状況で生じる重要な課題への適応を助けるものである。
(C)特定の専門家だけではなく、全ての個人にとって重要であること。



この存立条件を巡って、更に議論しなければならない課題も取り上げられている。例えば、「そもそもキー・コンピテンシーは存在するのか?」 「キー・コンピテンシーの正当化と根拠付けは可能なのか?」 「文脈、文化、年令、階層、ジェンダー、専門性を超えて、キーコンピテンシーはどこまで普遍的なのか?」といった問題である。



これらの諸課題を巡る議論が進められた結果、DeSeCoプロジェクトは次の3つのフレームワークをキー・コンピテンシーの本質として抽出した。すなわち、


(1)自立的に活動する能力
(2)異質な集団と交流する能力
(3)相互作用的に道具を利用する能力


である。これらを個人と社会が獲得し、現実の場面で適用していくことが「人生の成功と良好に機能する社会」への鍵となる。各国の行政はそれを実現するための政策を教育の方面から後押ししていくことになる。国際的な連携の場面では、これらの能力の獲得を新しい教育評価の指標として採用し、統一的な比較を可能とする基盤を整備していくことが今後の課題として設定されている。


上に掲げた3つのフレームワークには、それぞれ下位コンピテンシー、より具体的な能力、が設定されている。順番に掲げると、


(1)自律的に活動する能力
①大きな展望、あるいは文脈の中で行動すること
②人生計画や個人的プロジェクトを設計し、実行すること
③自らの権利、利益、限界、ニーズを守り、主張すること


(2)異質な集団と交流する能力
①他者とうまく関わること
②協力する力
③紛争を処理し、解決する力


(3)相互作用的に道具を利用する
①言語、シンボル、テクストを相互作用的に活用すること
②知識や情報を相互作用的に活用すること
③技術を相互作用的に活用すること(技術の可能性を理解すること)


とりたてて注解が必要な項目は(3)とその下位コンピテンシーについてであろう。ここでの「道具」とは物質的な道具ばかりではなく、言語や伝統的な学問も含めた社会的文化的な「道具」のことを指している。そして「相互作用的」とは、道具利用を単なるスキルとして認識するのではなく、その道具を用いることで自分と世界がどのように関わっていくのかを反省する態度のことを含意している。ここでまとめたキー・コンピテンシーを個人と社会は獲得し、必要に応じてそれを発揮することが求められる。


以上が、DeSeCoプロジェクトとキー・コンピテンシーの概要である。


このキー・コンピテンシーを考える上で忘れてはいけない大事な点は、DeSeCoプロジェクトそのものは教育政策のレベルで議論をされているが、最終的な目標はキー・コンピテンシーを備えた個人・社会を育成すること、つまり「個人と社会が自らの能力を獲得・向上させることで[諸課題の]解決策を導き出せる」ことに置かれていることである。これを備えた市民であれば、現代社会のあらゆる場面で適応していける、と想定されている。



この書評で取り扱っている話題の文脈に引きつけて言えば、災害が起きた場合の対応法、支援者の現場での行動原理すら、このキー・コンピテンシーを各自が発動させることで問題解決に向かうことが期待されるということになる。


著者が主張する構造構成主義(構造を理解して状況を把握し、目的に適応した方法を導く)と、それに基づいた「ふんばろう」の掲げるスキームは、残念ながらこのキー・コンピテンシーのコンセプトを越えるものではない。


なぜなら、(1)の「自律性」はともかくとして、これまで何度も述べたとおり、「ふんばろう」の「反行政」の態度は明確で、(2)の「異質な集団と交流する能力」を端から備えていないことになる。(DeSeCoが求める個人の態度は、良好に機能する社会の構築を目指した行政との「対話」である。)さらに(3)「相互作用的に道具を利用する」という発想も、目的さえ確定すればよいという「ふんばろう」の認識からは届きようも到達地点に位置するものである。



「ふんばろう」の行動原理との比較を考える上で特に重要となるのは、「相互作用的」という概念である。上でもまとめたとおり、「相互作用的」とは、道具の利用を単なるスキルとして認識するのではなく、その道具を用いることで自分と世界がどのように関わっていくのかを反省する態度のことを含意している。(一緒に言及されている「道具」とは、物質的な道具ばかりではなく、言語や伝統的な学問も含めた社会的・文化的な「道具」のことを指している。)


さらに言い換えると、自分の行為がどのように世界と関わりを持つのか、これを常に意識しながら行動できることがキー・コンピテンシーの重要な要素として求められている。自分の行動というものはある目的を伴う形で遂行されるであろうから、その目的が実現された際の、周囲への影響関係まで考慮した上での実践が必要である。


一方、目的を設定しただけで後のことは何も考えないという態度はあまりにも単純すぎるし、現実と切り結ぶ際に無力である。


「ふんばろう」の著者は「状況」と「目的」の把握を第一に考えているが、「状況」についてはかなりの説明を費やすものの、「目的」については説明不要とばかりに、本書ではほとんど言及がなされていない。(第4章に至っては、「目的」についての説明が恐らく忘れ去られている。「まず「状況」について説明しよう。」(p.135.)と言っておきながら、その後に「目的」についての説明が一切ない……)


「僕らの目的は被災者支援」(p.202.)、「すべてを失った人たちが、もう一度、前を向いて生きていこうと思えるような条件を整えること」(p.175.)と断定する著者がはまっている陥穽は、この言明が実は現場において、何物をも特定しない空疎な文言となっていることである。その反動ということでもなかろうが、「これも支援である」、「あれも支援である」、……と無限に増殖を繰り返し、歯止めのきかない「支援」プロジェクトが続々と現れる構造をここでも背負い込んでしまっていることになる。


自らの行為、道具を利用することによる世界(被災地)への影響関係を全く考慮しなければ、このような歯止めのきかない支援が続出することも納得できる。別の方面を考えると、肝心の「被災者」の存在はどこに行ってしまったのかという批判も出るだろう。被災者がその支援を受けることでどのような影響を受けるのか、一部の人だけに支援が回ることは住民の分断を助長しないのか?結局それは住民に不幸をもたらすのではないのか?このように考えていくことが「相互作用的」という言葉には込められている。


遺憾ながら、「ふんばろう」にそのような配慮を感じさせる行動原理を、評者には見て取れなかった。

ここまでの比較をまとめると、DeSeCoプロジェクトと「ふんばろう」モデルの違いは、


①「異質な集団と交流する能力」が「ふんばろう」には前提されていない
②特に「反行政」の態度は、DeSeCoプロジェクトでは前提にすら置いていない。
③「ふんばろう」には「相互作用的に道具を利用する」という態度が、目的達成以後の影響評価という観点から欠如している。



とまとめられる。

このような問題点を抱えるモデルが、既に政策レベルでDeSeCoプロジェクトを進めているOECD各国で採用・推奨されることは期待できまい。少なくともDeSeCoプロジェクトを乗り越える論点を提案する必要はあろう。せいぜい「反行政」という点でシー・シェパードあたりは乗ってくるかもしれないが、この点に関してはもはや評者の関知するところではない。


おわりに


以上、著者の論点をとりあげて批判をしてきたが、次の点については誤解を招かないよう、再度強調をしておきたい。


震災直後から現在に至るまで、「ふんばろう」の支援によって救済された被災者が多数いたことはまぎれもない事実である。このことを否定することは決してしない。これを確認した上で、「ふんばろう」が支援活動から逸脱している論点(国際的モデルとしての提言、組織論の普遍性の主張、など)について評者は批評をしたのである。


一つの成功事例のみで被災者支援モデルを構築しようとすること、これは組織論のみを前面に押し出し、他の団体組織の活動や支援論をほとんど参照しない独善的・内向的な「ふんばろう」の態度と連動しているが、これらの点を批判の対象としたのである。

最後に、一言しておきたい点は、著者が徹頭徹尾、自らの「素人」性を免罪符としてボランティアの現場に口を差し挟もうとする態度である。


素人ならば、先達から学べばよい。


学ぶ態度を放棄し、自説を検証もせずに吹聴するような振舞には、同じ研究者として評者は深い失望を覚えるのである。かくいう評者も、ボランティアや支援論に関しては著者同様、素人であることを隠しもしない。むしろ、本書の批判を素人がするのは好ましいことだろうとすら考えている。素人同士の議論で片が付く話ならば、わざわざ多忙な専門家にご登場を頂く必要もないからである。


本書の著者は余計なことを書かずに、一連の活動報告のみに留めるべきであった。


[参考文献]


仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉』(名古屋大学出版会、2011年2月)

遠藤薫編著『大震災後の社会学』(講談社現代新書、2011年12月)
  特に、本書収録の第5章 新雅史「災害ボランティアの「成熟」とは何か」

中原一歩『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』(朝日新書、2011年10月)


ドミニク・S・ライチェン、ローラ・H・サルガニク(立田監訳)
『キー・コンピテンシー 国際標準の学力をめざして』(明石書店、2006年)
[原書はD.S. Rychen & L.H. Salganik, Key Competencies for a Successful Life and a Well-Functioning Society, 2003, Hogrefe & Huber Publishers.]


[参考]

「始まりは、たった1つのツイートだった 被災者支援用Amazonほしい物リスト誕生の瞬間」
http://togetter.com/li/150888


日本赤十字社の「国内災害救護Q&A 」
http://www.jrc.or.jp/saigai/qa/index.html



日本赤十字社の「生活家電セットの寄贈事業について11/08/26」
http://www.jrc.or.jp/oshirase/l3/Vcms3_00002173.html


(了)