===☆ ===☆ ===☆ ===☆ ===☆

9月の休館日:5日、12日、20日(火)、23日(金)、26日
10月の休館日:3日、11日(火)、17日、24日、31日

10月10日(月)は祝日につき開館、翌日火曜休み。

※台風などにより暴風警報が発令されると、臨時休館になる事がありますのでご了承ください。

辻本館長による台湾行の報告を、週二回ペースで更新中!

===☆ ===☆ ===☆ ===☆ ===☆
  • 25 Sep
    • 台湾行の報告(17)―「佐藤春夫と台湾」シンポ

      シンポジウム風景 わたくしの拙い発表のあと、「佐藤春夫と台湾」というシンポジウムが開かれた。司会、コーディネーターを、先に分科会で発表した邱若山さんが務めてくれた。台湾における佐藤春夫研究の第一人者。台湾舞台の春夫作品を翻訳した『殖民地の旅』という本もある。近く増補改訂版が出ると言う。 邱若山訳「殖民地の旅」・台湾文学館に展示されていた シンポには、分科会で発表した河野さん、橋本さん、鄧さん、許さん、それにわたくし、天理大学の下村作次郎さんも加わった。各氏発表での、言い足りなかった事の補足から始まった。鄧さんの、「霧社事件」に関して、「敵」の首を並べて記念撮影している写真がスクリーンに映し出された時は、さすがに衝撃だった。河野さんは自身編集の『佐藤春夫読本』を紹介、下村さんは拙著の『熊野・新宮の「大逆事件」前後』を紹介してくれた。 各人が一言ずつ話すだけで、かなりの時間を要したが、わたくしは魯迅をわが国に紹介した春夫の功績が忘れられている、というような意味のことを語った。戦前の岩波文庫の『魯迅選集』は、台湾でも一大ブームを引き起こしたはずである。さらに中上健次が生きていたら、台湾原住民文学に深い関心を示したはずである、何せ、熊野で世界作家会議というようなものを実現させたいと常に口にしていたのだから、と述べておいた。 台南の地は、春夫の代表的な作品「女誡扇綺譚」の舞台、邱さんは、亡くなった台南在住の歴史家黄天横氏が、「女誡扇綺譚」文学碑の建立を、長く熱望し志を持っていたことを告げてくれた。

      テーマ:
  • 21 Sep
    • 台湾行の報告(16)―緊張のなかでの基調講演

      いよいよ、基調報告をする6月5日が来た。ホテルから台湾文学館までの数分歩いただけで、すっかり汗が肌から溢れる感じ。相変わらず鳳凰木が目に飛び込んで来る。9時30分から10時 20分までが割り当てられた時間。演題は「熊野・新宮の「大逆事件」が問いかけるもの―佐藤春夫から中上健次へ―」。「主講人」としてのわたくし、「主持人」として林水福南台科技大学教授が務めてくれた。わたくしの紹介や、講演のあとの講評や感想の披歴など。 春夫記念館をスクリーンに映して説明する館長 感想を述べる林水福氏 林さんは、芥川龍之介や石川啄木の翻訳や研究を成される台湾の日本近代文学研究の重鎮、縁は奇なもので、わたくしの広島の知人、啄木の研究家でもあるIさんが、かねてから懇意になさっている由で、事前にわたくしのことを伝えてくれていたおかげで、「主持人」を買って出てくれた模様。 通訳が入る関係で、やや少ない目に用意した原稿だったが、目途はずれ。同時通訳であったため淀みなく話す必要に迫られた。そこで用意した数葉の写真が助け舟となった。スクリーン一杯に映し出された佐藤春夫記念館の外観と内観(応接間)、紀伊半島の地図、明治期の新宮の大通り、貯木場、大石誠之助の写真、中上健次の写真や揮毫などである。 佐藤春夫や中上健次の文学に、明治期、熊野新宮を襲った「大逆事件」が、いかに深く刻印されているかを話したつもりである。しかしながら、研究者の会であるから、ふたりの名前は知られていたようだったが、意外とその作品に接する機会がなさそうで、翻訳も成されていないのが残念なことであった。

      1
      テーマ:
  • 17 Sep
    • 台湾行の報告(15)―二つの分科会

      6月4日は、基調講演やシンポジウムは台湾文学館の大会場で行われたが、歌謡学会の方は分科会も同じところ、文学関係は、上の階に移動して。 文学関係分科会会場 分科会は、終日、3つのセクションに分けられて、発表20分、討議20分で行われた。学会発表と言うのは、時間的な制限が厳しく、途中で入るチャイムやブザーの合図が耳障りで仕様がない。その点、基調講演のようなものの方が、時間の幅に余裕があって話し易い。 ここでは、文学の部の報告のみに限るが、午前のセッションでは大東和重関西学院大教授が「王育徳の台湾語事始め―「歌仔冊」と「歌仔戯」―」、魚住悦子天理大学講師が「原住民作家パタイは「八瑤灣琉球人遭難事件」をどう描いたか」を報告。会場には、作家本人パタイも顔を見せ、熱心に聴き入っているのが印象的であった。下岡友加県立広島大准教授が「戦後の台湾俳人・黄霊芝の俳句観―「自選百句」を中心にー」を報告。 報告を聴くパタイ氏 午後の部では、佐藤春夫に関連するものが中心で、邱若山静宜大学副教授が「「女誡扇綺譚」と「南京の基督」―佐藤春夫と芥川龍之介の文学における理性と、感性と異国情緒をめぐって」、河野龍也実践女子大准教授が「佐藤春夫の台湾紀行を支えた人脈―知られざる伏線・東其石―」、橋本恭子一橋大学特別研究員が「佐藤春夫・島田謹二の師弟関係をめぐって―新宮と台湾、抒情性と批評性―」と題して報告。春夫の「女誡扇綺譚」は、芥川の「湖南の扇」と比較されることが一般的であったのが、「南京の基督」にズラせたところに新鮮味があった。河野さんの発表は、春夫と森丑之助を結びつける発端に、春夫を台湾に誘った東煕市の従兄の画家東其石の存在があったことを確認、其石はまた台湾に囲碁を普及することに貢献した事跡をも明らかにした。 午後の部後半は、台湾側の研究者の報告、鄧相揚國立曁南國際大學兼任助理教授が「佐藤春夫的水沙連印記與文學地景」(佐藤春夫の刻印した水沙連の記憶と文学風景)、許俊雅國立臺灣師範大學教授が「關於1930・1940年代佐藤春夫<女誡扇綺譚>的中譯及改寫」(佐藤春夫『女誡扇綺譚』の1930 年代、40年代における中国語訳と改作について)、邱雅芳國立聯合大學副教授の「金關丈夫與立石鐡臣:<民俗臺灣>的路上觀察者」(金関丈夫と立石鐡臣―「民俗台湾」の路上観察者―)。鄧さんの報告は、一昨日、実際に「水沙連」の周辺をご本人に案内してもらって見聞した後だけに、興味魅かれるものがあった。

      1
      テーマ:
  • 14 Sep
    • 台湾行の報告(14)―台湾歌謡音楽会「土地之歌」

      6月4日夜は、国立台湾文学館内のホールで、「臺灣歌謠音樂會 土地之歌」が催された。(台湾では、わが国のいわゆる旧漢字使用が一般的。ここではチラシの通り旧漢字で表記する。いままでも、適宜旧漢字を使用して表記してきた。)これも、「建築百年・文學發光」と題した催しの一環らしく、一般客も自由に観覧できるようだったが、わたくしたちへの歓迎の意味もあったようだ。それというのも、日本語版の解説が後方のスクリーンに随所で映されていたから。 呉東栄老師の「恒春民謡」 なかに、「恒春民謡」と言われるものがあり、開墾のために恒春にやってきた労働者たちが、日常の中で故郷の家族(主に大陸の福建地方が多い)を想い口ずさんだ歌が、恒春民謡の起源と言う。東部開墾、郷愁、離れ離れになった男女の物語、搾取された被植民者の涙の訴え、貧しい農村生活、孝行と善の勧め、恒春半島への賛美など、台湾の各地に伝わる数百年の歴史を有する恒春半島の哀歌もすべて恒春民謡に分類されると言う。 またCDなども出している旭陽民俗車鼓劇団(シューヤンシンスーチャグージュートアン)の演じた「牛犛歌」は、農閑期に発展した民間歌舞ということで、牛頭や壮丁、農夫など、素朴な農民で結成され、田植えや収穫などの生活の一面を、滑稽な動作やユーモアあふれる科白を美しいメロディとともに、台湾の先祖が開墾してきた状況を描きだしているのだと言う。 蔣進興らの「原住民歌謡」 原住民歌謡では、アミ族の蔣進興を中心とした馬蘭吟唱隊が「飲酒歓楽歌」や「珍重再見」などを披露、前者は主に老人たちが集まって酒を飲んだ後に歌われ、男女で歌詞と曲は違うのだと言う。その後、背後のスクリーンには「アミ族には「さようなら」という言葉はなく、歌舞で表します。」と表示が出て、一団の歌と踊りの中でフィナーレとなった。

      テーマ:
  • 10 Sep
    • 台湾行の報告(13)―いよいよ国立台湾文学館へ

      いよいよ6月4日、国立台湾文学館での国際シンポジウムの当日。 ホテルからみた台湾文学館の側面 ホテルの部屋から見えた大きな建物が、ちょうど文学館の横側であることが後ほど分かった、ほん目と鼻の先。日本統治下の台南州庁の建物、ちょうど今年は築100年に当たる。今回の催しも、100年記念で2015―2016年にかけて行われた「建築百年・文學發光」と題した種々の催しの一環。「臺(台)日交流文學特展」という展覧会も開かれている。 国際シンポジウムの開会のセレモニーのあと、陳芳明国立政治大学教授が「台湾文学のコロニアルとポストコロニアル」と題して、基調講演をした。植民地時代の台湾文学から、戦後におけるポストコロニアル文学への道程を、台湾史全体の閉鎖的状態から開放的状態への過程の中で位置づけ、豊かな多元性への期待を語った。陳教授は、3日後、わたくしどもが台北の「二二八記念館」を訪れた際、事件のビデオ解説として登場していた。 本会の後援が、すでに述べたように、日本歌謡学会と、佐藤春夫記念会であったことから、それぞれに基調講演が割り当てられ、この日は、奈良教育大学名誉教授の真鍋昌弘日本歌謡学会名誉会長が、「『田植草紙』の世界―日本歌謡の象徴性」と題して話した。夕刻のシンポジウムは、「台湾・日本歌謡縦横談」と題するもので、日台の研究者・音楽家などが登壇したが、日本側の研究者が、上代や中世の歌謡に限定的なのに対し、台湾側は現代の流行歌謡まで射程に納めて話し、戦前のいわゆる数字譜(文字譜)が分かりやすかったので復活してほしい、と発言した折には、日本側の研究者が、今、わが国ではもう誰も理解できませんよと応じていたのが印象深く、議論がかみ合わない場面も目立った。同時に、日本統治時代のわが国の歌謡が、台湾には比較的好意的に捉えられていたのだ、と感じた。それは、戦後まで続き、昨夜「赤崁樓」で聞こえてきた「有楽町で逢いましょう」や、翌日、安平古堡で聴いた若者の「長崎は今日も雨だった」などまでつながっているようだ。 シンポジウム「台湾・日本歌謡縦横談」

      1
      テーマ:
  • 07 Sep
    • 台湾行の報告(12)―台南、夜の散策

      わたくしたちが泊まる6月3日-5日の宿は、台南の中正路に近い「富華大飯店」、復元なってシンプルな照明で浮かび上がっている「林百貨」が眼の前。その「林百貨」を、台南の人々は1932年に建設された頃から「五層楼仔」と呼んだと言い、台南で初めてのエレベーターは今も復活して動いている。現在は、百貨店というよりも、一大みやげもの店の感。 林百貨店 大東さんの案内は、すっかり夕闇が迫って、しかも空腹を抱いたなかでの足早なものであって、「台南鄭氏家廟」などは時間的にもう閉鎖されていたが、照明の中に浮き出ているのが却って興趣をそそられる。 「全美戯院」の手書きの看板 露地から大通りに出たところに、「全美戯院」の映画館があった。いまだに手書きの看板を掲げているその映画館は、一昔前の日本の田舎の風景を思い出させてくれたが、ここがいま世界を代表する映画監督李安(アン・リー)のホームグラウンドであったとなれば、意味合いが違ってくる。2012年「ライフ・オブ・バイ/トラと漂流した227日」で、2度目の第85回アカデミー監督賞を受賞、話題になった。彼が10歳から高校時代までの多感時代を過ごした台南、連日通ったのがこの「全美戯院」とのこと。 さらに大通りへ出て、350年前オランダ人によって築かれた要塞である「赤崁樓」では、中で歌謡ショーが開かれていて、入場は叶わなかった。こうして、台南の夏の夜は更けてゆく感じだが、台南の町は、オランダの時代、鄭成功の時代、清から日本の統治へ、さまざまな顔を今でも垣間見させてくれている。

      1
      テーマ:
  • 03 Sep
    • 台湾行の報告(11)―台南の地に入る

      ホテルからみた台南の風景 高速鉄道で台南に着いたのは、沈む夕陽が影を長く際立たせる頃。時間にすれば7時前。 この夜、台南の細い露地を案内して説明してくれたのは、今回の発表者のひとり、関西学院大学教授の大東和重さん。大東さんは、2年間台南科技大学で教鞭を執っていたこともあって、台南の地を隅から隅までご存知。今年すでに休刊が決まっている岩波書店の「文学」の5・6月号に、「植民地の地方都市における「文壇」と「文学」-日本統治期台湾・台南の台湾人作家たちー」を書いておられ、わたくしは出かけてくる前に読み終えて来た。 ここで、Oさんが同行することになった経緯。Oさんは、かつてわたくしの同僚で、数学の教師。定年退職後、母校の大阪市大の国文科の大学院に入学して修士号を取得、その際非常勤で教えにきていた大東さんとは旧知。そんなことで、昨秋わたくしが初めて大東さんとお会いした折、Oさんも一緒で、台南行きで盛り上がった次第。 大東さんには、『台南文学』(2015年3月・関西学院大学出版会刊)という著書もあって、熱帯の台南では初夏に鳳凰木(ほうおうぼく)が一面に花を付ける描写から始まる。その最初の章が「佐藤春夫「女誡扇綺譚」の台南―「廃市」と「査媒嫺(さぼうかん)」―」である。「査媒嫺」とは、台湾に残っていた旧弊で、幼女を貰い受け一種の「人身売買」する制度、日本統治下でも残存していた。 6月初旬の台南、鳳凰木の並木が、一斉に緋色(ひいろ)に咲き誇って、風土色と歴史性とが豊かに感じられた。 文学館からみた街路の鳳凰木の花

      2
      テーマ:
  • 31 Aug
    • 台湾行の報告(10)―日月潭を廻る(下)

      「涵碧樓」の方からみた日月潭 わたくしたちは、湖を半周して、春夫が泊まった「涵碧樓」の方に廻ったのだが、そこからはラル島も望むことができた。そうしていまは、「涵碧樓大飯店」という高級リゾートホテルが立っている。それは、日本の植民地から解放された後、蒋介石総統の避暑地の名残りをとどめた場所でもあるのだと言う。 春夫が台湾の奥地まで、ビップ(VIP)待遇で入ることができたのは、ふたりの人物の恩恵である。下村宏と森丑之助。森については後に記すが、下村は、当時の日本統治下の台湾でのNo.2。 海南と号す文化人、歌人でもあった下村は、和歌山県の出身。わが国の敗戦時の玉音放送のプロデュースをしたことでも著名。 その下村が1931(昭和6)年9月、民間人朝日新聞副社長として、春夫とほぼ同じ道程で霧社から日月潭に足を運んでいる。まだ「霧社事件」の余燼冷めやらぬ時である。その折の写真が最近見つかった、と鄧さんが教えてくれた。 籠に乗る下村宏 原住民が担ぐ籠用の物は、おそらく10余年前に春夫も乗ったもの。そんな珍しい写真帳を、鄧さんから記念館に寄贈してもらった。 鄧さんも、明日、「佐藤春夫の水沙連の刻印と文学風景」と題して発表されるので、わたくしたちと一緒に、台中から高速鉄道で台南に向かった。「水沙連(すいされん)」」とは、日月潭や、埔里から霧社に至る広大な地域、丘陵や盆地、渓谷など、自然と資源に恵まれ、清代以降そう呼ばれてきたと言う。

      1
      テーマ:
  • 27 Aug
    • 台湾行の報告(9)―日月潭を廻る(上)

      霧社からいったん埔里へ引き返し、昼食を摂って、日月潭に向かった。今でこそ、台湾を代表する観光地となっているが、春夫が訪れた頃は、まだ観光地として始まったばかり。台湾電力会社ができて、水力発電工事が始められ、春夫もその恩恵で見学できているのだが(さまざまな挫折を経て、完成まで結局15年の歳月)、春夫が泊まったのは総督府の宿舎「涵碧樓(ハンビーロウ)」、そこから船に乗ってサオ族が住んでいるラル島まで歌や踊りを見にゆく。 遊覧船が出る辺 杵歌と杵音とは、サオ族のもっとも代表的な音楽で、女性が杵を使って石臼で稲穂を敲(たた)く音に由来すると言う。 日月潭は、ダムが完成して、水深が21m上がったことから、春夫が泊まった宿舎の場所はいまでは湖底に沈んでおり、ラル島にも人が住めなくなって移転を余儀なくされた。 わたくしたちが立ち寄った遊覧船の乗り場辺りには、サオ族が観光客用に演じる舞台があり、そこでは、春夫も眼にした「杵つき歌」が演じられていた。 サオ族の「杵つき歌」実演 春夫は、サオ族の文化が観光化されていることに、批判的な意見を述べているが、さらに観光化が進んだ風である。しかし、サオ族の人々は、いまでもなお祖霊信仰、祭祀、冠婚葬祭、部族の行事など精神生活を大切にしており、わたくしたちはその家の祭壇も見せていただいた。春夫が見たのは、旧暦8月の新年祖霊祭の行事であったことが、いまでは判明している。

      1
      2
      テーマ:
  • 24 Aug
    • 台湾行の報告(8)―「霧社事件」のこと

      ところで、これまで案内の労をとっていただいた、鄧相揚(トンシャンヤン)さんは『抗日霧社事件の歴史』という本を書いた方で、下村作次郎・魚住悦子訳で日本語版も出されている(2000年6月・機関紙出版刊)。 鄧相揚(トンシャンヤン)著『抗日霧社事件の歴史』 1930(昭和5)年10月27日、原住民族であるタイヤル族の6集落から集まった男たちが、公学校(台湾人子弟のために日本語教育をした学校)の合同運動会の場を襲撃、その後警察駐在所や役所などを襲い、日本人215名を殺害、本土の政府にも大きな衝撃を与える。鎮圧に軍隊を派遣、爆撃機と毒ガスまでも使用して制圧したとも言われている。「霧社事件」の折でも、原住民同士を闘わせ、野蛮な習俗として禁止したはずの「首狩り」を実行させて、「敵方」の首を並べて記念撮影をしたりしている。「霧社事件」の首謀者は、モーナ・ルーダオ。ルーダオの活躍をテーマにした映画「賽徳克巴萊」(「セデックバレ」)が作られている。タイヤル族のなかのセデック族の頭目であったルーダオ。セデックとは「人」、「バレ」とは「本当の」という意味。 映画にも出演し、多くの同胞を喪った生き残りの子孫という、その方の説明を聴きながら、祖先の「悲劇」に対する哀惜(あいせき)の念と、いま誇らかに語ることができる矜持(きょうじ)とを、その熱い語り口のなかから強く感じ取ったことだった。 現在の霧社の大通り。右奥にセブンイレブンのマークも見える

      テーマ:
  • 20 Aug
    • 台湾行の報告(7)―霧社の地で春夫の足跡を偲ぶ

      翌6月3日、原住民の方の案内で、埔里から霧社に向かう。佐藤春夫は、霧社から能高(のうたか・のうこう)へ、峻嶮な能高越えをして、再び霧社に帰っている。今でも埔里に住む人々にとって、霧社までは行くものの、山深い能高まで足を伸ばすことは稀(まれ)だと言う。 人止関の説明版 今でこそ車で行けるが、かつては人跡未踏の地とでも。「人止関」(ひとどめのせき)という呼称にもその名残り。春夫の時代は、日本の統治が霧社から能高にまで及んでいて、立派な警察署が各地に置かれていた。「理蕃政策」(りばんせいさく)と言われる、原住民に対するアメ(インフラ等の整備)とムチ(「日本文化」の強制)の対策は、一方で原住民同士の分断をも助長し(台湾原住民のなかで、漢民族に文化的に同化していたのを「熟蕃(じゅくばん)」、独自の文化を維持していたのを「生蕃(せいばん)」と称し、「生蕃」のうち、日本の統治を受け入れたグループを「帰順蕃」と呼んだ)、1930年 10月27日の「抗日霧社事件」の悲劇にも結び付いてゆく。(霧社事件で蜂起したグループを「反抗蕃」(敵蕃)と呼び、日本軍は「味方藩」を利用して鎮圧した。) 霧社では、事件の舞台となった運動場、当時と同じ大通りを残す霧社の街並みでは、ここでは1月だという桜満開の頃を想像し、かつて日本人のみ立ち寄りを認められていた場所には「セブンイレブン」の店が進出していた。春夫が日本語教育の概念化の在り方に疑問を持った、現地の小学校「仁愛國民小學」にも立ち寄った。 仁愛国民小学校内観 アンツーカーのグランドで子どもたちはバスケットボールに興じていた。通路の壁にはカラフルな絵が描かれ、「健康・品格・能力」の文字とそれぞれに英語表記も添えられていた。

      1
      テーマ:
  • 17 Aug
    • 台湾行の報告(6)―台湾の中心地・埔里の地へ

      台湾南投県集集鎮(鎮は台湾でもっとも小さな行政区のひとつ)は、人口1万1200人余。 1999年9月21日、M7・3の大地震が台湾を襲い、2000人以上の死者が出た。道路や建物などの損壊も甚だしく、震源地が集集であったことから「集集大地震」などとも呼ばれる。近隣の埔里(ほり)でも多大な被害を蒙り、鄧さんの家も倒壊、多くの資料も瓦礫(がれき)の中に埋もれた。 埔里で宿泊したホテルと町並み この夜の泊りは、埔里の宿。埔里は、九州より面積のやや小さい台湾のほぼ真ん中に当たり、「台湾のへそ」などとも言われる。春夫は書いているー「ここは台湾の殆んど中心地であり、高峯に囲まれた盆地であり、地勢の関係か蛇や蝶などの特異な種類があるので学問上でも有名な地方であると聞いた。物産陳列所には、なるほどピンに刺された蝶の標本が沢山あつた」(「霧社」)。蝶の種類は今でも豊富、マニアのメッカでもあるらしい。 春夫はこの埔里の地で、原住民が蜂起した「サラマオ(蕃)事件」(蕃というのは、原住民の集落の意味)の実情を知る。このとき春夫の行く手には、暴風雨による交通の寸断と、原住民の蜂起という困難が待ち受けていた。それから10年後、日本統治下最大の事件、「抗日霧社事件」が起きる。いまでも埔里は霧社への入り口である。

      テーマ:
  • 14 Aug
    • 台湾行の報告(5)―春夫が乗った二水から集集への気動車体験

      二水駅 さて、鄧さん夫妻の案内で、まずわれわれが目指したのは、二水駅。台湾縦貫線から集集(しゅうしゅう)線への乗換駅。ほぼ100年ほど前、佐藤春夫が乗車した旅程。春夫の頃は二八水、ちょうど駅舎を見学していたら気動車が入ってきた。さっそく飛び乗って集集まで向かうことに。もちろん100年前とは、軌道幅も違い、区間によっては、手押しの台車もあったようだが、人家がほとんどない檳榔(ビンロウ)樹林やバナナ畠などは、100年前のまま、春夫が眺めた風景と変わらないだろうと言う。 二水から集集へ向かう車中から。100年前春夫が見た風景とかわらないかも 春夫は暴風雨による被害で、途中も寸断され思い通りの行程にはならなかった。「二八水といふー化粧品にまがひさうな名の駅で本線を下りた。朝の九時すぎだつた。支線といふのが例のおもちやのやうな箱の汽車なのだが、それが通じてゐさへすれや、それでも有難いことには、その日の夕刻には、思ふところへ着けるものを、それが駄目だつた。」(「旅びと」)と述べている。嘉義(かぎ)から二八水までの車中のエピソードを扱ったのが、春夫の童話「蝗(いなご)の大旅行」である。 集集で下車して、終点の車埕(しゃてい)までは再び車。車埕駅では、昔の手押し車が軌道上に保管されていて、操作すれば少し進むことができた。見上げる山上には発電所が見え、いまでも稼働中とか。もともと集集線は、日本統治下、砂糖会社の私鉄、さらには電力発電所建設のための専用線として敷設されたもの。山の向うは日月潭(じつげつたん)に通ずると言う。

      1
      テーマ:
  • 10 Aug
    • 台湾行の報告(4)―昨年、新宮での国際シンポジウム

      2015年1月31日、新宮市の福祉センターで、佐藤春夫没後50年国際シンポジウムが開かれた。ちょうど「佐藤春夫と憧憬の地中国・台湾」と題する企画展が開催中で、そのテーマに即したものだった。 新宮での国際シンポジウム 天理大学教授の下村作次郎氏に「佐藤春夫の台湾―日月潭と霧社で出会ったサオ族とセデック族のいまー」と題して基調講演をしてもらい、北京外国語大学北京日本学研究センター副教授の秦剛(しんがん)さんと実践女子大学准教授の河野龍也さんに、それぞれ、春夫と魯迅、台湾での春夫を報告してもらって、お三方の座談会を催した。その事前の打ち合わせの席であったか、春夫が訪れた台湾や厦門(あもい)の地で、このような春夫に関する会が持たれれば良いと話し合ったことであった。それが予想外にも、はやくもこの6月に実現をみたのである。台湾での会は、下村氏の尽力によるところが非常に大きい。また、6月24―26日、台湾の対岸厦門(あもい)大学で開かれた「東アジア内部の自他意識」国際シンポジウムでは秦剛さんの尽力が大きく、河野さんも参加して、新宮でも披露した東哲一郎氏(春夫を台湾に誘った東煕市(きいち)の孫)の春夫詩に作曲したボーカルが、人々の注目を博したと言う。発表が20タイトルで、うち8タイトルが春夫に関するものであったと言う。 今年、厦門での東さん(左)

      1
      テーマ:
  • 06 Aug
    • 台湾行の報告(3)―桃園空港は「未曾有の」雷雨

      関西空港を発って台湾へ向かったのは、6月2日の午前。前日、同じホテルに宿泊した3人、下村さんの案内にすっかり安心しきっているふたり、わたくしと元同僚のOさん。Oさんが同行することになったいきさつは、いずれまた。 桃園空港着陸後の機内から フライトは順調で、ほぼ予定時間、日本と台湾との時差は1時間、昼前に桃園国際空港に着陸した。ところが現地は滝をも流すほどの勢いの雷雨、機内に留め置かれること約2時間、空港は停電で荷物の受け取りもままならぬ状況、ようやく受け取れてタクシーを待つこと約1時間。乗り込んだものの、高速鉄道(わが国の新幹線)に乗る予定で最寄駅板橋まで行くつもりが、運転手は渋りがち、浸水と交通渋滞とで大変とのこと。高速鉄道も時間通り運行しているかどうかも不明とのこと。結局は、目的地の台中まで高速道をタクシーで約2時間かけて行くことにした。台中では、下村さんの長年の知人鄧さんと落ち合うことになっていたが、駅ではなく、ガソリンスタンドに変更、4時過ぎにに合流。鄧さんの奥さんが用意してくれたお寿司の美味しかったこと。この夜のテレビニュースは、「未曾有の」雷雨を伝えていた。台湾のテレビは、多くの原住民を抱えている所から、共通語の訳を表示している。 台中で合流したガソリンスタンド

      2
      テーマ:
  • 03 Aug
    • 台湾行の報告(2)―国際シンポジウム開会のあいさつから

      開会セレモニーで挨拶する辻本館長 国際シンポジウム開会の際のあいさつのつづき。 「昨年は、初公開となった谷崎潤一郎の春夫宛書簡の展示、潤一郎の「春琴抄」の執筆時期の様子が、これまでの想像を覆(くつがえ)すものとして、注目されました。それに、「芥川賞を下さい」という、太宰治の春夫宛の書簡の展示を12月1日から今年の2月末まで行いまして話題になりました。展示終了間際に、太宰治の遺児で作家の津島佑子さんがお亡くなりになりまして、哀悼の辞を掲げておきました。津島さんは、新宮出身の作家・中上健次とも親しく、台湾の原住民と言われる人々の文学にも深い理解を蔵しておられたと聞いています。今回、台日「文学と歌謡」国際シンポジウムが、南台科技大学の皆さまのご努力と国立台湾文学館の皆さまのご支援で、ここ、台南の地で開催されますこと、そうして私どもの佐藤春夫記念会が共催の一角に名を記させていただけたことは、大変うれしく光栄なことに存じます。私どもの熊野の地は、はやくから木材を通して、台湾との交流を続けて来た土地です。いままた、佐藤春夫の文学を通して、私どもの文学館と国立台湾文学館とが交流の機会を持てましたことは、まことに有難く、有意義なことと、関係各位に、深く感謝申し上げます。さらに交流、友好の絆がますます深まるように努力して参りたいと思います。」 国立台湾文学館の内部

      テーマ:
  • 30 Jul
    • 台湾行の報告(1)―台日「文学と歌謡」国際シンポジウム

      国立台湾文学館正面。もとは日本統治下の台南州庁、築100年。 今回の台湾訪問は、6月4-5日に、台南にある国立台湾文学館で開かれた、台日「文学と歌謡」国際シンポジウムに参加するためであった。主催は国立台湾文学館、共催はわたしども佐藤春夫記念館を運営する「公益財団法人佐藤春夫記念会」と、日本歌謡学会とで、運営事務は、台南市にある南台科技大学応用日語系が務めてくれた。 日本側のコーディネートに当たってくれたのは、台湾文学に造詣が深い、天理大学の下村作次郎氏で、もともとこの会の開催には、1年前の新宮でのシンポジウムが機縁になっている。下村氏は、事前の打ち合わせに、再三台南を訪れてくれた。 シンポを予告した看板 わたくしは、開会のあいさつを依頼されて、次のように述べておいた。 「大正・昭和期に、作家、詩人、評論家として活躍した佐藤春夫の旧邸を移築して小さな記念館として公開しているもので、1989年に開館して、もう28年になります。一昨年は、春夫没後50年ということで、「春夫と中国・台湾」展を開き、シンポジウムなども行いました。私と同じく、新宮にお生まれの下村作次郎先生に来ていただいて基調講演をしていただきました。午後、発表をなさる河野龍也さんにもいろいろとお骨折りを戴きました。」

      テーマ:
  • 14 Jul
    • 羽化ラッシュはじまる

      7月に入り、庭の掃除中にセミの抜け殻を多数見かけるようになりました スタッフMです。 先日は6~7個も見つけたので、今日はずらっと並べて写真に撮ってみようと思ったら… 2個しか見つからず。 無念 この2個は大きさが違いますが、それぞれ別の種類なのでしょうか。 本日7月14日は熊野那智大社で「那智の扇祭り」(旧称:那智の火祭り)、熊野速玉大社では「扇立祭」と、両方で例大祭が執り行われます 扇立祭は夜祭りですので、これがあると本格的な夏を感じる一市民です。 --- 話変わって予告。 6月4・5日に国立台湾文学館で開催された「台日「文学と歌謡」国際シンポジウム」の報告記事を当館館長がブログにアップする事になりました。 何回かに分けて掲載していく予定ですのでお楽しみに!

      3
      テーマ:
  • 23 Jun
    • 「火花」の又吉さんがやって来た!!

      昨日、午後2時すぎ、話題作「火花」で芥川賞を受賞された又吉直樹さんがひょっこり記念館を訪れた。 展示を見られたあと、記念撮影とサインに応じてくれました。 あとで、館長が太宰治の手紙を展示している時に来られるかもと期待していたのですよと申し上げたそうです。 又吉さんは「落ち着いた、なかなか良い雰囲気の所ですね」と感想を述べられたそうです。 新宮出身の写真家、鈴木理策さんもご一緒で、「芸術新潮」のお仕事とのこと。 この後は川湯温泉に泊まられたそうです。 サインに応じる又吉氏。ありがとうございました いただいたサイン色紙。記念館内に飾らせていただいています。

      1
      テーマ:
  • 19 Jun
    • 春夫の愛した花

      今年もノウゼンカズラの花が咲き始めました 春夫が愛し、この花の名前は春夫の戒名にも用いられています。 ↑写真は、記念館の受付からみえる風景です。 誰が植えたか、石垣の上の南天の木にからみついて咲いています。 日当たりも良く、オレンジが濃く、南国らしい雰囲気です。 門のところのノウゼンカズラはまだつぼみ、 もう少ししたら木いっぱいに咲くでしょう。 ぜひ、見にいらしてください ↓ 因みに下の写真は昨年の開花の様子です

      1
      テーマ:

プロフィール

春夫さん

性別:
男性
誕生日:
1892年4月9日

読者になる

AD

カレンダー

1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

ランキング

総合ランキング
181464 位
総合月間
211617 位
学び・教育
2473 位
関西
2743 位

ランキングトップへ

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。