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12月の休館日:5日、12日、19日、24日(土)、26日、28日~翌月3日

※月曜と祝日の翌日、年末年始(28日~1月3日)が休館日です

企画展「風船画伯・谷中安規と佐藤春夫」開催中!

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  • 30 Nov
    • 映画の撮影がありました!

      去る10月29日、映画の撮影のため田中千世子監督率いる撮影班が来館しました。出演者として、俳優の佐野史郎さんも記念館に…!個性的な役で有名な方ですよね。何の役で知ったかで年がバレそうです今の若い方は何の役の人として認識しているんでしょうね。田中監督は撮影のため記念館に何度かいらしてますが、佐野さんは新宮入り自体今回初めてだそうで。「新宮は遠かったでしょう」と言うと、尾鷲までは来たことがあるとのこと。尾鷲から新宮も中々距離がある気がするスタッフMです。遠方からなら誤差の範囲でしょうか。撮影ののち、サインを頂いたりなどしました。書く時は眼鏡を外すようです。写真を撮るタイミングがつかめず、なんだかデジャヴを感じる構図です…ねサイン色紙は廊下に飾らせていただいてます。自画像がかわいいですよ。佐野さんのサイト橘井堂(きっせいどう)の雑記帳には、ご本人による来新の記録が記されています。神在月三十日の記事です。田中千世子監督のドキュメンタリー映画「熊野から イントゥ・ザ・新宮」は平成29年秋の完成目指して鋭意制作中とのこと。完成が楽しみですね

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  • 26 Nov
    • ギャラリートークのお知らせです

      現在開催中の企画展「風船画伯・谷中安規と佐藤春夫」のギャラリートーク開催のお知らせです。-----------------------------------日時:12月4日(日) ①11:00~ ②14:00~(1日2回・解説それぞれ1時間程度)解説:辻本雄一館長参加費:310円(入館料) ※日曜日につき、高校生以下無料----------------------------------- 午前・午後、内容はどちらも同じとなっております。なるべく前日までに電話かFAXでお申込みください。TEL・FAX共通 0735-21-1755FAXの場合は、お名前と連絡先、午前午後のどちらが希望か明記してください。皆様の参加をお待ちしております! ギャラリートークとは……?当館では、館内の和室に集まって館長による展示の解説を聞く形式となっております。学校の授業みたいな感じですが、突然指名される緊張感はありませんよ(笑)解説の後は、改めて展示室を周ったりします。展示がより一層楽しめるようになるギャラリートーク、ぜひお気軽にお越しください。 

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  • 15 Nov
    • 谷中安規企画展始まりました!

      本日15日より、企画展「風船画伯・谷中安規と佐藤春夫」が始まりました! 来年の3月12日までやります!今回も資料を数多くお借りすることができ、充実した展示になっております。谷中安規が版画家という事で、展示している版画は小さいものも含め20点以上!色刷りのものもあり、今回の展示はビジュアル的にも楽しいものとなっております。書簡や草稿、ペン画など、初公開のものもいくつかあります。特にペン画の描き込み具合には惹きこまれてしまいます。チラシの背景にもペン画の一部を拝借しました。不可思議ワールドが展開されていますので、是非とも現物をご覧ください!(展示の都合上、すべて開けなくて残念です)今回は、絵が好きという方も楽しめる展示ではないかと思います。ご存知与謝野晶子から谷中に宛てた書簡や、内田百閒からの葉書など、文学好きが「おおっ」と思う展示だって多いですよ。芸術の秋ということで、両方楽しんでいってくださいませ。谷中安規が書いた「桃太郎」も、書き下し文なら別室(書斎)で読めますよ。辻本館長が解説するギャラリートークも日程調整中ですので、追ってお知らせしたいと思います。---谷中宛ての葉書を見ると「今日ヒマだから、お前もヒマなら夕方来い」(要約)とかいう葉書を速達で送っていたりして、なるほど当時はそんなスピード感覚でやりとりしていたんだなぁと面白く思うスタッフMでした。佐野史郎さん来館の件もそのうちアップしたいです。 

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  • 30 Oct
    • むささびブックス発行しました!

       前回更新した館長の台湾行報告でもふれていますが、10月1日に記念館より『むささびブックス④ 講演記録集 佐藤春夫没後50年国際シンポジウム「佐藤春夫と〈憧憬の地〉中国・台湾」展に寄せて』が発行されました。タイトル長い!(お申し込みの際には「むささびブックス4」で通じます・笑)タイトルの通り、2015年1月に行われたシンポジウムの講演録です。下村作次郎先生の基調講演「佐藤春夫の台湾―日月潭と霧社で出会ったサオ族とセデック族のいま―」や、パネリストとしてお迎えした、河野龍也先生の「佐藤春夫が語らなかった台湾・福建」、秦剛先生の「佐藤春夫と魯迅」講演も収録しています。他、館長による国立台湾文学館でのシンポジウム報告、河野先生の厦門大学でのシンポジウム報告、「佐藤春夫と〈憧憬の地〉中国・台湾」展ギャラリートーク資料など。100ページ超えのボリュームです。1冊500円。記念館内で販売する他、通信販売も行います。1~3冊ならスマートレターでお送りするので、かかる送料は180円と普通郵便より安いですよ。代金は後払い。送料や振込手数料等は申込者様負担となります。詳しくは 0735-21-1755(TEL/FAX共通)まで。お申し込みはFAXかメール(haruokan@rifnet.or.jp)推奨です。本のタイトル、冊数、申込者様のお名前、住所、電話番号を書いてお送りくださいませ。聞き間違いを防ぐためにFAXかメール推奨ですが、お電話でも受け付けております。本と一緒に請求書をお送りするので、記載の口座に振り込むか、現金書留などでお支払いください。お問い合わせもお気軽にどうぞ!記念館に買いに来られる場合も、本を買うだけでしたら入館料もかかりませんし(受付で買えます)気軽にいらしてくださいませ。私はテープ起こしに係わっていましたが、春夫が台湾で書き残した一文?など、「へぇ~」が散りばめられた面白い一冊ですよ。

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  • 26 Oct
    • 館長のつぶやきー台湾行の報告(26)―付け足し(2)【終】

      佐藤春夫記念館を訪れたラポガン氏2月に急死した作家津島佑子は、台湾の蘭嶼(らんしょ)島の原住民作家シャマン・ラポガンと3月に日本で対談の約束をしていたのだと言う。ラポガンを訪ねて、2度ばかり蘭嶼島を訪れたことがある。1982年、蘭嶼島に低レベル放射線廃棄物施設が作られる。ラポガンらは反対に立ち上がったが奏功せず、1995年搬入停止になるまで存続した。そのことへの連帯の意思表示もあったのだろう。下村作次郎さんが日本語訳したラポガンの小説『空の目』(2014年草風館刊)を、わたくしは昨年に読んでいた。そうして、トビウオ漁を描くその描き方と、中上健次が土にまみれてつるはしを振う労働者の描き方とに、非常に近いものを感じた。対象を突き放すのではなく、対象と一体となる、対象に溶け込んでいく、一体となった透明感のようなもの、そんな感じがとても似ている。シャマン・ラポガン著・下村作次郎訳『空の目』中上も生存中はおそらくラポガンの存在を知らなかったであろう。しかし、台湾の原住民族を、わが国の近代文学の素材に初めて取り上げたのが、佐藤春夫であったことからすれば、同じ熊野の地出身、そのDNAが中上にも受け継がれ、中上が目指した世界作家会議とは、原住民と言われるような人々が描く文学世界に日を当てることにも繋がっていこう。それは、グローバル化といわれる世界からは、明らかに取り残された「弱者」の視点を供えた作家たちだった。中上の衣鉢を継いだ津島佑子は、他の「弱者」へとともに、台湾、原住民への眼差しも最期(さいご)まで保ち続けていたのだろう。絶筆の長編「狩りの時代」は、そのことを証拠立ててくれている。ラポガンと親しい下村作次郎さんは、この9月にも蘭嶼でラポガンに会い、今夏、自伝的長編小説『大海浮夢』の日本語訳に悪戦苦闘した報告をしたのだと言う(台湾で2014年刊・日本語訳本17年刊行予定)。そうして、この夏、原住民族への謝罪を表明した蔡英文総統は、タオ族の島・蘭嶼島へも足を運んで、核貯蔵施設存廃問題と真正面から取り組むとし、「蘭嶼は歴史上、台湾で最も困難な責任を負わされた。どうやってこれを補償するかは、台湾が向き合わなければならない問題だ」と強調したのだ。民主化や人権を捉える観点は、少なくともわが国よりも台湾の方が、ずっと真摯(しんし)で、真剣であると感じ入ったことだった。  *2015年1月の「佐藤春夫と<憧憬の地>中国・台湾展に寄せて」のシンポジウム記録などを収めた『むささびブックス4 』が刊行されている。お問い合わせは、佐藤春夫記念館(TEL・FAXとも0735・21・1755)まで。

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  • 23 Oct
    • 館長のつぶやきー台湾行の報告(25)―付け足し(1)

      「台湾行の報告」も(24)で終了のつもりであったが、妙に尻切れトンボの印象もぬぐえないので、蛇足を2回に分けて付け足す。おセンチで終わってはいけないのだろう。「佐藤春夫―台湾・原住民―中上健次」の連鎖を、いささか述べてみたい。二二八記念館正面その前に、過日訪れた二二八記念館で、多数の犠牲者の中に、王育霖の写真を見つけたときは、やはり衝撃を覚えた。王育徳(1924―1985)の兄。王育徳については、6月4日の大東和重さんの「王育徳の台湾語事始め」の報告で、学んだばかりであった。王兄弟は台南の生まれ。兄の影響もあって、王育徳は台湾歌謡の「歌仔冊」(歌仔戯の豆本・歌仔戯は台湾で生れた唯一の伝統演劇)蒐集(しゅうしゅう)に務め、演劇活動にも邁進して行く。日本の敗戦、王育徳らが、自分たちの台湾語が自由に話せるときが来たと思ったのも束の間、「二二八事件」で公開銃殺などを目の当たりにし、さらに兄も殺害されて、王育徳は身の危険を感じて香港に移住、さらに日本へ密入国して亡命、以後二度と故郷の土を踏むことはなかった。日本亡命後も退去強制に対する不服申し立ての闘い、台湾人日本兵遺族への補償を求める運動など、台湾語研究の学者としての顔と共に台湾独立運動家としても活躍。王育徳にとっては、「台湾が独立することは台湾人が台湾語を取り戻すこと」という強い信念に裏付けられてのものだった。台湾へのアイデンテティは、原住民と言われる人々へのアイデンテティを尊ぶこととも共鳴し、台湾の多様性ある文化をも照らし出してくれる。8月、今年も恒例の熊野大学が新宮の地で開かれた。ひとつのメインは、台南で改造されたという、満艦飾の大型トレーラーを舞台にした、やなぎみわ演出の「日輪の翼」上演であった。「日輪の翼」用改造トレーラー・新宮公演用パンフよりまた、対談の場で、柄谷行人は「中上健次と津島佑子」と題して話し(「文学界」10月号所載)、中上健次の遺髪を継ぐ者としての津島佑子を論じた。「兄妹の関係」とも述べた。それを聴きながら、わたくしは、中上が元気な頃口にしていた、熊野の地で世界作家会議を開きたいと言っていたことが、頭から離れなかった。その頃のわたくしには、世界作家会議のイメージは捉え難かったが、いまでは、すこしばかりイメージできるようになった。

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  • 19 Oct
    • 台湾行の報告(24)―台湾を後にして

      台北では、地下鉄に乗る機会もあったのだが、切符はコインで、30分以上乗ったのに60元(日本円にすれば約3倍)、わたくしは高齢に違いないのだが、席を譲ってくれた。日本で言う「優先席」は、「博愛席」とあった。孫文の博愛主義から来ているのだろうが、「優先席」よりも、何かしら「温かみ」を感じる表記だった。 現在の総統府、手前の芝生の所に下村宏総務長官の公邸があった 1階が一般にも公開されているというので、ルネッサンス様式の行政庁舎台湾総統府(1919年建立の台湾総督府)を見学しようとしたが、何故かその日は見学は叶わず、警備員が厳重に警戒している様子で、黒塗りの車が盛んに行き来していた。女性初の総統、蔡英文政権が5月に誕生してからは、本土の政権からの締め付けが厳しくなったのだと言う。埔里で会った県の観光課長とかいう人は、本土からの観光客は9割近くも減ったと述べていた。帰国して見た新聞では2割強とあった。場所によっても違うのだろうが、今年の年末にかけて、ジワジワと経済的なダメージが広がるのではないかと心配していた。2014年3月18日から4月10日までの、学生による国会議事堂占拠は、いわゆる「ひまわり運動」として日本のマスコミでも大きく報じられた。サービス貿易協定批准(わが国でのTPP交渉のようなもの)に向けた審議が時間切れで打ち切られたことに対する抗議がきっかけらしい。一般市民が随分忍耐強く見守っていた印象が強い。6月8日朝、律儀な河野さんはわざわざ宿まで訪ねてきてくれ、桃園空港まで同行して見送ってくれた。空港では、台南から来た下村さんと合流、少し時間があると言うことで、ロビーの喫茶コーナーで、タピオカ・ミルクティーというものを呑んだ。ぶどうの粒のようなでんぷん粉を丸くしたものが入った、いま若者に人気の台湾発祥の飲料だと言う。太目のストローで吸い込む感覚、ぐにゃっとした食感を台湾ではQQ感と呼ぶんだと物の本にあったが、妙に口ざわりを悪く感じさせるものだった。空港は到着した時とは違って停電もなく、明るい雰囲気だった。 桃園空港内風景 帰国して8月、蔡総統が「先住民族の日」の1日、「先住民族は苦痛や不公平な待遇をうけてきた。政府を代表して謝罪する」と述べ、台湾史上初めて総統が公式に謝罪した、という記事を見た。リオデジャネイロオリンピックの開幕間際の記事が大きく報じられていたなかの小さな記事だった。わたくしは台湾訪問直後であっただけに、ストンと腑に落ちた。そうして、わが国の「民主度」との差を痛感し、妙に寂しく、悲しくなった。

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  • 18 Oct
    • 筆供養のお知らせ

       今年も筆供養を開催する運びになりましたのでお知らせします。 11月3日(木)文化の日、記念館前庭にて午前10時より(雨天時は熊野速玉大社双鶴殿) これまでは市民会館の筆塚で筆供養を執り行ってきましたが、現在は文化複合施設建設工事のため、記念館に場所を移しての開催となりました。場所が例年と違いますのでご注意くださいませ。 今回は開催場所移動で勝手が違う上に、筆供養の経験のあるスタッフがいなくなった為に規模縮小も検討していたのですが、濱中規子さん自身の強い希望もあって、今年もまた濱中さんに歌っていただく事となりました。いつもありがとうございます。 茶道裏千家淡交会南紀青年部による呈茶もありますし、筆を燃やせないのと場所が違う事以外はほぼ例年通りの筆供養になると思います。 皆様ぜひご参加くださいませ。参加費も必要ありません。今ちょうど咲き始めた金木犀が残っていれば(そして当日晴れれば)、優しい香りに包まれた筆供養になりそうです。式典の後にはお茶とお菓子が参加者に振る舞われます。お気軽にいらしてください。尚、用意したお菓子がなくなり次第終了となります。

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  • 15 Oct
    • 館報21号出ました!

      館長の台湾行の報告が続いておりますが、ここで館報発行のお知らせを。10月1日に新宮市内に配られた広報10月号に折り込み済みの館報21号ですが、今回からPDFファイルのアップロードも行う事にしました。佐藤春夫記念館だより21号↑クリックでPDFファイルが開きます。(閲覧にはAdobe Readerなどのビューアーが必要です)内容は、H28年6月に台湾で行われた「台日「文学と歌謡」国際シンポジウム」の報告記事、森丑之助を研究されている笹岡敦子さんによる寄稿、寄贈資料の紹介などです。配布のない地区の方、当館まで来られない方にも読めるようになりました。記念館の過去一年の活動を知っていただければ幸いです。

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    • 台湾行の報告(23)―台湾国立博物館と二二八記念館と

      国立博物館正面台湾総督府の嘱託として、長い間原住民族の研究を続け、原住民からの信頼厚かった森丑之助(1877-1926)が在籍していた博物館(現・台湾国立博物館)に、いままったくその痕跡が窺えなかったのは残念で、やや失望した。おそらく展示されている原住民族の諸資料は、森の収集に拠るものが多いであろうと思われるのに。建物は、1915年完成のドームを抱くギリシア風建築、イタリア産の大理石が使用されていると言う。1920(大正9)年 9月、佐藤春夫が原住民族が住む台湾の奥地まで足を伸ばすことができたのは、森の適切なアドバイスと(春夫は森から贈られた著書『台湾蕃族図譜』を手に奥地に入った)、時の総務長官(台湾でのNO.2)下村宏の特別な計らいのお蔭である。その時の森の春夫宛書簡を、春夫は終生肌身離さず大切にしていた(現在、佐藤春夫記念館に保管。『佐藤春夫宛 森丑之助書簡』平成15年3月刊)。春夫の「女誡扇綺譚」が、ふたりに捧げる形になっているのも、その証し。二二八公園内にある国立博物館周辺では可愛らしい台湾リスが、木に登ったり、草を食んだり自由に遊んでいた。公園内をしばらく歩いて、一番南側にある「台北二二八記念館」を見学した。台湾の「負の歴史」がまさに凝縮されている場、「抑圧や沈黙」から脱皮してようやく1997年に日の目をみた場。日本統治時代の「台北放送局」、ここから二二八事件の情報が、台湾全土の抵抗運動を誘発したのである。そこが「台北二二八記念館」になっている。台北二二八和平記念碑・1995年2月建立日本統治から国民党政府へ。1947年2月 27日、台北市内で闇タバコ販売が発覚、拳銃事件に発展、その後全土に広がった抗議運動のなか、知識人や学生が無作為に殺害された。その実数さえ分からない。最近の研究では、1万8000人~ 2万8000人の範囲であろうと言われている。以後40年間、台湾は戒厳令下に置かれる。その二二八事件の生々しい足跡を、色々な資料から再現、民主化する台湾の試金石の役割をも担うのが、この記念館、記念碑なのであろう。

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  • 12 Oct
    • 台湾行の報告(22)―小龍包と茶館と

      お児さんを連れ帰った河野さんと、語学学校から駆けつけたと言う奥さん、それにわたくしたち(SさんとOさんとわたくし)が落ち合ったのは、小龍包の店「鼎泰豊(ティンタイフォン)」でだった。ベビーカーや老人優先という決まりがあるらしく、順番待ちの長い行列ができていたが、待ち時間は比較的に短かくて済んだ。河野さんがお児さんをベビーカーで連れて来ていたから。鼎泰豊の「小籠包」評判通り、小龍包のジューシーさは群を抜いたものだった。紹興酒も高級なものらしく、小龍包に良く合った。まだ、街中の通路に行列待ちができているなか店を出て、奥さんとお児さんは先に帰り、わたくしたちは近くの茶館を覗いたが休みであったため、タクシーで台湾大学のそばの茶館へ行った。台南出身のSさんは、子どもの頃から茶を立てたと言う。趣味人のOさんは、盛んに感心して、Sさんの手並みを注視していた。急須を温め、茶器に湯を注ぎ、器を温め、茶葉を入れて、一度目は捨て、まずは香りを賞味する、その後二度目三度目と客用の茶杯(湯呑)に注いでお互い賞味してゆく。わが国の茶道とはまた違った、台湾風の作法には長い歴史と簡素な佇まいが感じられた。茶館で茶をたてるSさん春夫が「南方紀行」で厦門(アモイ)の4、5人の芸者が「爪子(コエチイ)」を齧(かじ)る様子を描いているが、その「爪子」が「茶うけ」(おつまみのようなもの)として一皿出ていた。とても老齢のわたくしの歯に負える代物ではなかった。帰国して、Oさんは、自分が所蔵している茶器を記念館に持参して、実際に茶を立ててみてくれた。そうして、新潮社の「とんぼの本」シリーズ『中国茶と茶館の旅』に出ている「紫藤廬(ツートンルー)」こそが、わたくしたちが訪れた茶館の名だと興奮気味に教えてくれた。当主が日本統治時代に建てられた自宅を茶館として開放したのは1981年。台湾大学の教授を務めた父の下に集まった芸術家たちのように、茶を飲みながら談笑できる場を提供したかったからだと言う。「紫藤廬」は、畳をインテリアに取り入れた最初の店として、また文化サロンの役を果たしてきた店として、台北で知らない人は居ないと言う。わたくしたちが茶をよばれた1階の奥も畳の間で、四角な下駄があつらえられていた。入口の庭先には藤棚があったようだが、もう23時半の閉店間近かでは、暗くて花房の様子までは分からなかった。

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  • 08 Oct
    • 台湾行の報告(21)―台北の下町「万華」散策

      河野さんが、お児さんの迎えがあるということで、一時退出した後、わたくしたちはSさんの案内で、台北の下町・万華をブラついた。アーケード内にある、飛び上るほどの痛さを堪えて、足揉みマッサージにも挑戦。肩もみもサービスということではあったが、とても肩もみと言えるものではなく、手の肱でグリグリと押し付けてくる按配だった。痛みは、数日間尾をひいた。ここでも、スコールに遭遇、保存されている煉瓦作りの旧街並みで、雨宿り。見学もできるようだったが、生憎今日は月曜の休館日。日本の若者に較べて随分と礼儀正しいSさんは、東京に遊学した時から、下町歩きを趣味とし、ここ台北の地でも下町歩きを良くするのだと言う。そんななかで推奨なのが、艋舺(もうこう・マンカ)の「青山宮」。艋舺の「青山宮」内部観光案内本などにはあまり登場していない風だが、その豪華絢爛さには圧倒される。絢爛の中を奥に入れば、4階から成っていることが分かる。旧名の「艋舺」は、現在の「万華」、ここは福建や広州からの本島人と言われる人々が最初に住みついた所であるらしく、霊安尊王を祀る「青山宮」がここにあるのも納得がゆく。「青山宮」は総本山が福建省泉州恵安県にあり、起源は三国時代にまで遡るのだと言う。呉国に武将張滾(ちょうこん)という人が居り、恵安県の知事の職にあった時、公平無私の態度と徳の高さで多くの人に慕われ、死後、人々は「青山廟」を立て張滾を「青山王」と奉った。それから700年後、宋が危機に瀕した時、常に張滾の旗を掲げた兵士たちが現れ、闘いを勝利に導いたのだと言う。そこで、皇帝は「霊安尊王」の名を奉った。1854年恵安の漁民たちが、霊安尊王像とともに海を渡って台湾にやってきた。この万華に近づいた時、像を乗せた輿(こし)はまるで動かなくなり、ここに鎮座したのだと言う。他にも「謝将軍」や「范将軍」の像などたくさんの像、孫悟空の像もあった、花鳥画や歴史上のエピソード、さまざまな書体の詞歌が飾られ、天井や梁には、精緻な彫刻がこれでもかこれでもかという風に目に飛び込んできた。竜の上昇と下降とを象(かたど)った石柱もあったが、佐藤春夫が「女誡扇綺譚」の廃屋で見出したものと同じデザインですね、とSさんが教えてくれた。旧暦10 月20日から3日間の「霊安尊王生誕祭」は、龍山寺など万華の代表的な廟も一緒になって、一大イヴェントとして台北三大祭りの一つになっている。台南の夜市がある華西街

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  • 05 Oct
    • 台湾行の報告(20)―台北への移動

      6月6日、台北に帰る河野龍也さんと、教え子で台北の出版社に勤めるSさんと一緒に、わたくしとOさんは、高速鉄道で台南から台北に向かった。約3時間弱。下村さんは、出版に関する記者会見があるというので、帰り桃園空港で合流することを約して、台南に留まった。高速鉄道の掲示板には、「シャワー・オブ・レイン」の確率が表示されていて、さすがスコールの地、Oさんはこれはわれわれの地では「だぶり」(熊野地方の方言)のことですね、と感心していた。翌日訪れた国立博物館には、まさにシャワー・オブ・レインの仕組みを実現させた装置が展示されていた。台北駅近くのYMCAにとりあえず荷物を預けて、河野さんの案内で、台北西部の龍山寺(ロンサンスー)に向かう。龍王寺境内台北で最も長い歴史を持つ古刹、お寺だから観音菩薩がご本尊だが、媽祖や関帝など道教の神々も祀られ、わが国で言えば神仏習合の態。極彩色の本堂や、屋根や柱にも精緻な彫刻、わが国のお寺と趣を異にする。長い線香を立ててお祈りする様も、異国な感じにさらされる。雨が降り始めたこともあってか、回廊に多くの人が座り込んで、お祈りをしていた。地に頭を擦り付けるようにしている人も幾人も見かけた。龍山寺近くに、古本や骨董を扱う店があり覗いてみる。故宮博物館のお宝を、国民党政府が台湾に輸送した時の木箱というようなものも陳列されていて、何重もの木箱の裏には、担当者を記したラベルも貼られていた。北京から運ばれたものには、状況から大きなものが敬遠され、箱に納められる大きさのものが主流であったのだろう、と話し合ったことだった。古本屋入口で記念撮影

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  • 01 Oct
    • 台湾行の報告(19)―安平古堡と廃港

      安平古堡(アンピンクーパオ)といわれる要塞・セーランジャ城のある安平の町は、17世紀にオランダ人によって造営された町。バスの乗り降りの関係で、わたくしたちは安平古堡へは、裏側から入ったようだが、雑踏の露店街を抜けて正面に廻った。史跡公園として整備されていて、オランダ人を駆逐して一時覇(は)を誇った鄭成功(ていせいこう・1624― 1662)の像もある。鄭は「国姓爺(こくせいや)」(本土の隆武帝から「朱」の姓を賜ったという意味。しかし、鄭は「朱」を名のらなかった)とも呼称されたが、わが国では近松門左衛門の「国性爺合戦」の作品(史実に悖ることが多いと言うので「性」の表記に)で有名になる。公園内には、オランダ東インド会社の兵士たちが作った煉瓦壁の城壁が現存し、榕樹(ガジュマル)が絡みついていた。広場では、わが国の懐かしい歌謡曲などが演奏され、多くの人たちが耳を傾けていたが、わたくしたちは背中で聴きながら、展望台に上ってみた。安平古堡の展望台360度の眺望が可能で、台南の中心街のビル群が右手奥、左側には「塩水渓」の流れ(台湾では河や川を「渓」ということが多い。高山から始まる流れは、多くの渓谷を成していることからの命名)、それを河口まで辿って行った辺りが海なのだろうと想像できる。沼地や養漁地として名残りをとどめていた海も、はるか彼方の感。かつての運河や暗渠もまるで分からないが、やや遠方に、春夫が目にしたと同じような英国風な商館らしい白い建物が見えたのには、まるで時間を跳び越えたようで驚き感動した。そう言えば、ここに来る途中で、端午の節句(6月15日前後)の船競漕行事のぺーロン競走の練習をしていたが、あそこは、運河だったのであろうか。眼下に見えた英国風商館展望台から、鳳凰木の赤い花や榕樹(ガジュマル)の大木越しに見えた楼閣は、航海の女神の媽祖を祀った天后宮であるらしく、公園とは地続きの具合であったから、余計に賑わっていたのだろう。バスの乗り場は、天后宮側であったらしく、乗車してすぐ、楼閣の正面が見え、下町風な風景が広がっていた。バスで海まで乗り出してみることにした。すでに海水浴が始まっていたが、どんよりした雲からまた雨に襲われて、しばしモニュメントの陰で雨しのぎを強いられた。そこは台湾海峡。浜辺に近い通りでは、舞台に改造した小型トラックでカラオケ大会が行われていた。この夜は、全体の会の終了ということもあって、大学関係者や文学散歩参加者らとの交流、懇親の会があり、台南の代表的な店舗「渡小月」が会場であった。

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  • 28 Sep
    • 台湾行の報告(18)―「女誡扇綺譚」の舞台を散策

      6月5日午后は、春夫の「女誡扇綺譚」を巡っての文学散歩。大型バスをチャーターしていたが、参加者は20名ほど。下村作次郎氏が作成してくれた「舞台追憶散歩」の、地図比較の資料などを配布されて、バスに乗り込む。ゆったりと座れる。この作品は、春夫の台湾作品でまず代表作として上げられるもので、春夫自身も「作者自らはこの作を愛してゐる。この点でおそらく、この作は指折つてみて五つのうちに加はるだらう」と述べている。まず、禿頭港(クツタウカン)の舞台となった辺り。安平港(アンピンカン)の最も奥の港、と言われた所。いまでは、もうその名残りすらない下町風な場所。そんなところに「港(カン)」と名付けているのが不思議なくらいの所、とは春夫の言。春夫が訪れた頃から、安平はすでに廃港寸前、自然の土砂が、海側へ海側へと堆積し、港の機能が不全となってきて、やがて高雄にその地位を奪われる。「女誡扇綺譚」ゆかりの建物の痕跡が、いまでも台南に残っていることを、土地台帳などを手掛かりに調査したのは、最近の河野龍也さんの手柄である(『佐藤春夫読本』・2015年勉誠出版刊ほか)。作品では「沈(シン)家」となっているのは、実は「陳家」であること、「廠仔(チョンア)」と呼ばれる陳家の造船所跡なども確認、19世紀末には消滅したと言う、T型、S型のオランダ式の金具が残る建物の存在までも、実際にわたくしたちは目で確かめた。オランダ支配の跡が残る「廠仔」の一部近くにある今はほとんど閉鎖している「代天府」の小さな廟は、陳氏一族の家廟であったと言うことである。さらに、通りを隔てたところ、「世外民」と酒を酌み交わした酒楼「酔泉閣(ツイツエンコ)」のあった小路へも足を運んだ。「酔泉閣」も、作品から受けるイメージよりもずっと高級料理店であったことが、最近の河野さんの研究で立証されてきている。「代天府」の小廟

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  • 25 Sep
    • 台湾行の報告(17)―「佐藤春夫と台湾」シンポ

      シンポジウム風景わたくしの拙い発表のあと、「佐藤春夫と台湾」というシンポジウムが開かれた。司会、コーディネーターを、先に分科会で発表した邱若山さんが務めてくれた。台湾における佐藤春夫研究の第一人者。台湾舞台の春夫作品を翻訳した『殖民地の旅』という本もある。近く増補改訂版が出ると言う。邱若山訳「殖民地の旅」・台湾文学館に展示されていたシンポには、分科会で発表した河野さん、橋本さん、鄧さん、許さん、それにわたくし、天理大学の下村作次郎さんも加わった。各氏発表での、言い足りなかった事の補足から始まった。鄧さんの、「霧社事件」に関して、「敵」の首を並べて記念撮影している写真がスクリーンに映し出された時は、さすがに衝撃だった。河野さんは自身編集の『佐藤春夫読本』を紹介、下村さんは拙著の『熊野・新宮の「大逆事件」前後』を紹介してくれた。各人が一言ずつ話すだけで、かなりの時間を要したが、わたくしは魯迅をわが国に紹介した春夫の功績が忘れられている、というような意味のことを語った。戦前の岩波文庫の『魯迅選集』は、台湾でも一大ブームを引き起こしたはずである。さらに中上健次が生きていたら、台湾原住民文学に深い関心を示したはずである、何せ、熊野で世界作家会議というようなものを実現させたいと常に口にしていたのだから、と述べておいた。台南の地は、春夫の代表的な作品「女誡扇綺譚」の舞台、邱さんは、亡くなった台南在住の歴史家黄天横氏が、「女誡扇綺譚」文学碑の建立を、長く熱望し志を持っていたことを告げてくれた。

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  • 21 Sep
    • 台湾行の報告(16)―緊張のなかでの基調講演

      いよいよ、基調報告をする6月5日が来た。ホテルから台湾文学館までの数分歩いただけで、すっかり汗が肌から溢れる感じ。相変わらず鳳凰木が目に飛び込んで来る。9時30分から10時 20分までが割り当てられた時間。演題は「熊野・新宮の「大逆事件」が問いかけるもの―佐藤春夫から中上健次へ―」。「主講人」としてのわたくし、「主持人」として林水福南台科技大学教授が務めてくれた。わたくしの紹介や、講演のあとの講評や感想の披歴など。春夫記念館をスクリーンに映して説明する館長感想を述べる林水福氏林さんは、芥川龍之介や石川啄木の翻訳や研究を成される台湾の日本近代文学研究の重鎮、縁は奇なもので、わたくしの広島の知人、啄木の研究家でもあるIさんが、かねてから懇意になさっている由で、事前にわたくしのことを伝えてくれていたおかげで、「主持人」を買って出てくれた模様。通訳が入る関係で、やや少ない目に用意した原稿だったが、目途はずれ。同時通訳であったため淀みなく話す必要に迫られた。そこで用意した数葉の写真が助け舟となった。スクリーン一杯に映し出された佐藤春夫記念館の外観と内観(応接間)、紀伊半島の地図、明治期の新宮の大通り、貯木場、大石誠之助の写真、中上健次の写真や揮毫などである。佐藤春夫や中上健次の文学に、明治期、熊野新宮を襲った「大逆事件」が、いかに深く刻印されているかを話したつもりである。しかしながら、研究者の会であるから、ふたりの名前は知られていたようだったが、意外とその作品に接する機会がなさそうで、翻訳も成されていないのが残念なことであった。

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  • 17 Sep
    • 台湾行の報告(15)―二つの分科会

      6月4日は、基調講演やシンポジウムは台湾文学館の大会場で行われたが、歌謡学会の方は分科会も同じところ、文学関係は、上の階に移動して。文学関係分科会会場分科会は、終日、3つのセクションに分けられて、発表20分、討議20分で行われた。学会発表と言うのは、時間的な制限が厳しく、途中で入るチャイムやブザーの合図が耳障りで仕様がない。その点、基調講演のようなものの方が、時間の幅に余裕があって話し易い。ここでは、文学の部の報告のみに限るが、午前のセッションでは大東和重関西学院大教授が「王育徳の台湾語事始め―「歌仔冊」と「歌仔戯」―」、魚住悦子天理大学講師が「原住民作家パタイは「八瑤灣琉球人遭難事件」をどう描いたか」を報告。会場には、作家本人パタイも顔を見せ、熱心に聴き入っているのが印象的であった。下岡友加県立広島大准教授が「戦後の台湾俳人・黄霊芝の俳句観―「自選百句」を中心にー」を報告。報告を聴くパタイ氏午後の部では、佐藤春夫に関連するものが中心で、邱若山静宜大学副教授が「「女誡扇綺譚」と「南京の基督」―佐藤春夫と芥川龍之介の文学における理性と、感性と異国情緒をめぐって」、河野龍也実践女子大准教授が「佐藤春夫の台湾紀行を支えた人脈―知られざる伏線・東其石―」、橋本恭子一橋大学特別研究員が「佐藤春夫・島田謹二の師弟関係をめぐって―新宮と台湾、抒情性と批評性―」と題して報告。春夫の「女誡扇綺譚」は、芥川の「湖南の扇」と比較されることが一般的であったのが、「南京の基督」にズラせたところに新鮮味があった。河野さんの発表は、春夫と森丑之助を結びつける発端に、春夫を台湾に誘った東煕市の従兄の画家東其石の存在があったことを確認、其石はまた台湾に囲碁を普及することに貢献した事跡をも明らかにした。午後の部後半は、台湾側の研究者の報告、鄧相揚國立曁南國際大學兼任助理教授が「佐藤春夫的水沙連印記與文學地景」(佐藤春夫の刻印した水沙連の記憶と文学風景)、許俊雅國立臺灣師範大學教授が「關於1930・1940年代佐藤春夫<女誡扇綺譚>的中譯及改寫」(佐藤春夫『女誡扇綺譚』の1930 年代、40年代における中国語訳と改作について)、邱雅芳國立聯合大學副教授の「金關丈夫與立石鐡臣:<民俗臺灣>的路上觀察者」(金関丈夫と立石鐡臣―「民俗台湾」の路上観察者―)。鄧さんの報告は、一昨日、実際に「水沙連」の周辺をご本人に案内してもらって見聞した後だけに、興味魅かれるものがあった。

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  • 14 Sep
    • 台湾行の報告(14)―台湾歌謡音楽会「土地之歌」

      6月4日夜は、国立台湾文学館内のホールで、「臺灣歌謠音樂會 土地之歌」が催された。(台湾では、わが国のいわゆる旧漢字使用が一般的。ここではチラシの通り旧漢字で表記する。いままでも、適宜旧漢字を使用して表記してきた。)これも、「建築百年・文學發光」と題した催しの一環らしく、一般客も自由に観覧できるようだったが、わたくしたちへの歓迎の意味もあったようだ。それというのも、日本語版の解説が後方のスクリーンに随所で映されていたから。呉東栄老師の「恒春民謡」なかに、「恒春民謡」と言われるものがあり、開墾のために恒春にやってきた労働者たちが、日常の中で故郷の家族(主に大陸の福建地方が多い)を想い口ずさんだ歌が、恒春民謡の起源と言う。東部開墾、郷愁、離れ離れになった男女の物語、搾取された被植民者の涙の訴え、貧しい農村生活、孝行と善の勧め、恒春半島への賛美など、台湾の各地に伝わる数百年の歴史を有する恒春半島の哀歌もすべて恒春民謡に分類されると言う。またCDなども出している旭陽民俗車鼓劇団(シューヤンシンスーチャグージュートアン)の演じた「牛犛歌」は、農閑期に発展した民間歌舞ということで、牛頭や壮丁、農夫など、素朴な農民で結成され、田植えや収穫などの生活の一面を、滑稽な動作やユーモアあふれる科白を美しいメロディとともに、台湾の先祖が開墾してきた状況を描きだしているのだと言う。蔣進興らの「原住民歌謡」原住民歌謡では、アミ族の蔣進興を中心とした馬蘭吟唱隊が「飲酒歓楽歌」や「珍重再見」などを披露、前者は主に老人たちが集まって酒を飲んだ後に歌われ、男女で歌詞と曲は違うのだと言う。その後、背後のスクリーンには「アミ族には「さようなら」という言葉はなく、歌舞で表します。」と表示が出て、一団の歌と踊りの中でフィナーレとなった。

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  • 10 Sep
    • 台湾行の報告(13)―いよいよ国立台湾文学館へ

      いよいよ6月4日、国立台湾文学館での国際シンポジウムの当日。ホテルからみた台湾文学館の側面ホテルの部屋から見えた大きな建物が、ちょうど文学館の横側であることが後ほど分かった、ほん目と鼻の先。日本統治下の台南州庁の建物、ちょうど今年は築100年に当たる。今回の催しも、100年記念で2015―2016年にかけて行われた「建築百年・文學發光」と題した種々の催しの一環。「臺(台)日交流文學特展」という展覧会も開かれている。国際シンポジウムの開会のセレモニーのあと、陳芳明国立政治大学教授が「台湾文学のコロニアルとポストコロニアル」と題して、基調講演をした。植民地時代の台湾文学から、戦後におけるポストコロニアル文学への道程を、台湾史全体の閉鎖的状態から開放的状態への過程の中で位置づけ、豊かな多元性への期待を語った。陳教授は、3日後、わたくしどもが台北の「二二八記念館」を訪れた際、事件のビデオ解説として登場していた。本会の後援が、すでに述べたように、日本歌謡学会と、佐藤春夫記念会であったことから、それぞれに基調講演が割り当てられ、この日は、奈良教育大学名誉教授の真鍋昌弘日本歌謡学会名誉会長が、「『田植草紙』の世界―日本歌謡の象徴性」と題して話した。夕刻のシンポジウムは、「台湾・日本歌謡縦横談」と題するもので、日台の研究者・音楽家などが登壇したが、日本側の研究者が、上代や中世の歌謡に限定的なのに対し、台湾側は現代の流行歌謡まで射程に納めて話し、戦前のいわゆる数字譜(文字譜)が分かりやすかったので復活してほしい、と発言した折には、日本側の研究者が、今、わが国ではもう誰も理解できませんよと応じていたのが印象深く、議論がかみ合わない場面も目立った。同時に、日本統治時代のわが国の歌謡が、台湾には比較的好意的に捉えられていたのだ、と感じた。それは、戦後まで続き、昨夜「赤崁樓」で聞こえてきた「有楽町で逢いましょう」や、翌日、安平古堡で聴いた若者の「長崎は今日も雨だった」などまでつながっているようだ。シンポジウム「台湾・日本歌謡縦横談」

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プロフィール

春夫さん

性別:
男性
誕生日:
1892年4月9日

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