「東京というハコは鈴木氏がつくった」。14日死去した元都知事の鈴木俊一氏は、こう評されるほど、現在の東京の街作りへの貢献は大きいといわれる。新宿の東京都庁舎、「お台場」に象徴される臨海副都心…と枚挙にいとまがないが、鈴木氏の名を一躍有名にしたのが、都副知事当時の昭和39年に開催された東京五輪だ。

当時の東龍太郎知事が学者出身ということもあり、五輪に伴う開発計画を実質的に取り仕切ったほか、45年の大阪万博も日本万国博覧会協会事務総長として切り回すなど、戦後日本の大イベントにも貢献した。

内務省解体後発足した地方自治庁で事務方トップの次長に就き、昭和33年に自治事務次官を辞めるまで8年間も次官(次長含む)を務めた。地方自治法制定にも携わり、「地方自治の生き証人」としての自負も強かった。

都知事時代には、美濃部都政時代に悪化した財政を再建する一方で大型プロジェクトに邁進(まいしん)。平成3年の都知事選では、当時の小沢一郎・自民党幹事長らによる“鈴木降ろし”をはねのけ、磯村尚徳・元NHK特別主幹らに圧勝。だが、都政運営の締めとなるはずだった臨海副都心での世界都市博覧会は、次の青島幸男都知事(当時)の手で中止に追い込まれた。

昭和61年に勲一等旭日大綬章を受章。都知事退任後は平成13年まで東京国際交流財団会長を務めていた。座右の銘は「生涯現役」。

鈴木氏が都知事時代に秘書を3年間務めた都交通局の金子正一郎局長は「地方自治の王道を外さない方で、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』というぐらい、周囲に気を使う方だった」と振り返る。

また、同じく秘書を務めた、都知事本局の荒川満理事は「昭和61年の伊豆大島噴火の時には、静岡に避難した島民を『東京の人々だ』と言ってバスで避難先に迎えに行くなど、本当に都民を大切にした。ご自身が100歳となられたときに(石原慎太郎知事の)お祝い訪問を楽しみにしていた。残念です」と語った。

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